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自由なる友や何処を旅すらん [友人]

H氏への追悼の思いは、何らか書きとめておかなくちゃと思いながら、気が進みませんでした。
初盆でもあるので、少々メモを残しておきましょう。
ちょっと昔、H氏が中心になって、「平家物語」とか「西行法師」とか「小野小町」とかにちなんだ史跡や碑を探訪する「ツアー」が何度か企画されました。伝承のみで信憑性が定かでない「史跡」もふくめて「眉唾ツアー」と彼は名づけて、老若男女を楽しませてくれました。私は、決して熱心な参加者ではなく、冷やかし半分に、一ノ谷などを訪ねた「須磨・明石の旅」に混ぜてもらって、「明石焼き」を堪能したこととか、炎天下「小町姿見の井戸」(倉敷市)とか、「小町の墓塔」(総社市清音黒田)などの埋もれた「史跡」を、汗を拭き拭き訪ねたことなど、いくつかのシーンが細切れに思い出されるに過ぎません。その旅の企画立案者であり、ツアーコンダクターであり、解説者・チューターであったH氏が、いつも一番楽しそうでした。
運転免許を持たず、車を運転しない、というのは、地方都市の住人としては、奇特な存在でしょう。(そのくせケータイは、持ってましたよね。必ずしも、文明嫌い、便利さ嫌いというわけではないんだ。いやまてよ、懐に扇子と日本手拭い、髭剃りには日本カミソリ、多羅尾伴内を気取るファッションセンス、○万円という高級帽子etc.という志向は、やはり古典派ではありますね。)
車を持たない彼の機動力は抜群でした。20代のある週末、「国鉄」の駅ホームでバッタリ出会い、どちらへ?と聞くと、京都の歌舞伎公演を観にいく途上とか。あの年齢から、歌舞伎趣味でした。東京の歌舞伎座へもひょいと足を伸ばす。前述の歴史探訪も、必ず事前の下見(これが彼にとっては本番?)を欠かさなかったそう。
旅行や遠距離移動は、苦にならなかったようです。用務で県外に出かける機会などあれば、併せて行きたい場所に足を伸ばして来るようなことが、しばしばあったようです。私などは億劫者ですので、点と線の移動で済ませてしまうことが多く、見習いたいと常々感じることでした。
1年余り前の大腸癌の手術後の、療養と抗がん剤治療の期間も、彼は隙を見ては高野山周辺を訪ねたそうで、そのポジティブな行動力には頭が下がる思いでした。
亡くなる直前、お見舞いしたときは、酸素吸入器を自分で着けたり外したりという状態ではあったものの、「重篤な大病」という様子は見て取れず、むしろ回復も間近という風にさえ感じられる気丈さで、それに油断してついつい長居してしまいました。心には密かに、次の旅の構想が広がっていたのかもしれません。文字通り「自由」になった今頃、どのあたりを愉しく旅しているのでしょうか?
病床で、彼は、冗談めかして「遺稿集」に取りかからなければならないと言っていました。目次・構想はあらかたできていて、あとは過去の「書院」(ワープロ)のデータをパソコンの文書に変換しながら、まとめたい。が、痛み止めの注射のせいで、始終うとうとしているので、この眠気と戦ってパソコンに向かうべきか、今は体力の回復を待つべきか悩んでいると、冗談半分に漏らしていました。
私は、「とにかく今はしっかり養生して、体力回復を先行させ、肺炎の治療を成功させて、あと気長に抗がん治療に向かいましょう。気長に、ゆっくりと」等と、当たり障りのない言葉を掛けるしかなかったのですが、まさかそのあと数日にして病態が急変して、帰らぬ人になろうとは思ってもみませんでした。
思い返せば、私の2007年の脳動脈瘤手術のあと、共通の友人であるU氏と自宅に見舞いに来てくれました。見舞う側と見舞われる側が、こんな風に逆転する場面など、夢想だにしませんでした。何しろ、彼の方が2歳も若いはず。お子さんもまだ学生だし、順番が違うでしょ。と、しきりに悔やまれてなりません。
彼の直接の死因は、肺炎。その背景に、転移した肺がんがありました。
彼を見送った4月の時点では、よもや私に、同じ病名が宣告されようなどと、誰が思いつくことができたでしょうか。でも、私のは、まさしく初期でしてね、あなたの苦痛や不安に比べたら、雲泥の差なのですよ。
ただ、病気が病気だけに、侮ることなく、「終活」の心構えだけは整えておきたいのですがね。なかなか、煩悩に勝てません。たとえば、きゅっと冷えたビール!(正確には発泡酒ですがね)
終活を心に期せど酒旨し

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