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美作は海遠けれど [味覚、食材]

「美作は海遠けれど吉井川---」という歌が、確か吉井勇にあったはずだと思って、ネット検索やら手持ちの書籍やらを探ってみましたが、見つかりません。大衆向けの「吉井勇歌集」に載っていたような古い記憶がぼんやりとあるのですが、最近は自分の記憶に自信が持てません。長塚節の歌だと信じていたものが若山牧水だったり、斎藤茂吉と思い込んでいたら伊藤左千夫だったり、ということが、しょっちゅうあって、ショックを受けています。単に記憶があやふやだというだけでなく、一種の確信を持ってそう思い込んでいたことが、まるで記憶違いであることに気づくことが、しばしばなのです。気づけばまだ救われるのですが、気づかないまま思い込んでいることがどれだけ多いかと思うと、暗澹とした気持ちになります。
ともあれ、「美作は海遠けれど吉井川」と詩にも歌われた(ような気がする)吉井川の、支流の吉野川という川が、私の生まれ故郷を流れています。「四国三郎」と呼ばれるあの吉野川よりは、いくらか小規模ですが、それでも蕩々とした流れは「母なる川」の懐かしさと美しさをたたえています。
私の曾祖父は、この川を往来する「高瀬舟」の船頭を生業としていた由。この高瀬舟は、室町時代以来、物流の中心を担っていたようで、流域には蔵が建ち並んだそうです。現在の林野(女子サッカーの湯郷ベルで全国に知られることになった湯郷の、やや上流の地域。作家の浅野あつこさんの地元でもあります。)は、かつては「倉敷」と呼ばれ、地名的には全国ブランドの「倉敷市」よりも先輩格に当たるようです。
いずれにせよ、「美作は海遠けれど」のフレーズの通り、海産物は稀少品でした。かつて、京の都がそうであったように、生食の魚などは手に入らず、干物や塩漬けの文化が発達したのでしょう。「京の生ダラ」とは、ありそうもないもののたとえで、京では、干ダラや棒ダラの料理が発達したことはよく知られています。
私の故郷でも、子どもの頃には生の鯖などは特別に「無塩(ブエン)」と呼んでいました(広島県北部の知人も同じような回想を漏らしていました)。つまり、鯖は、基本的に「塩鯖」として流通したわけです。
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今日、その故郷の生家に帰ってきました。といいますのは、後期高齢者の父が、先日胃ガンの精密検査を受け、今日その結果を聞いて、今後のことを考えようという訳でした。
この父は、青年時代肋膜(肺結核の一種)を患いましたが、療養の効あって今日まで健康を保ち、年齢以上に壮健でいてくれますが、四年前、胃がんの疑いありとの診断を受け、胃を部分切除しました。組織検査によればがん細胞は発見されず、今日まで経過も順調でしたが、今年の検査で、再度、疑わしい所見が見られたという次第。
結論としては、慌てて対処しなくても良さそうなので、しばらく経過を観察しましょう。ということで、まずはめでたし、でした。
病院からの帰途、美作市の「道の駅」で、名物の鯖寿司を買って帰りました。「名物」というのは、世間一般で認定されているかどうかは知りませんが、たまたま、私の友人の数人が、(別の機会に)揃って推すので、私も何度か買ってみているのです。

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子どもの頃から、鯖寿司は、好きでした。というより、滅多に口にできないご馳走でしたが、お刺身の握り鮨よりは、なじみがありました。そもそも、美作地方の特産品ということになっています。現在では、「新鮮な生鯖を塩と酢でしめて、、、」というグルメなレシピも出回っていますが、塩鯖を塩抜きして、酢でしめるという製法が本来の姿なのでしょう。「海遠ければ」の土地ならではの名産物と言えるでしょう。
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裏山の栗が熟れて、イガごとぼとりと落ちてきています。聞くと、タイミングよく栗拾いしないと、イノシシにすっかり食われてしまうそう。
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固くとがって皮膚に鋭く突き刺さるイガを、上手にかき分けて、「旬」の美味しいところを召し上がるイノシシ殿、噂に違わぬグルメでござるな。ただ、昨今、人間様との異常接近と紛争が頻発している様子、お互いに、住みにくい世になったものですな。
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栗と言えば、童謡「里の秋」が思い出されますね。

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

wikiには、こう記載されています。
「1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している。」
そして、小学校の教師だった作詞者斎藤信夫が、昭和16年、この「里の秋」のもとになる「星月夜」という作品を書いていたことも紹介されています。

こちらのブログに、詳しい解説がありますので、参照させていただきます。 
http://blogs.yahoo.co.jp/gojukara11/2540856.html

「星月夜」の1・2番は、「里の秋」と全く同じですが、3・4番は、こうなっていたそうです。

 きれいなきれいな 椰子の島 しっかり護って 下さいと 
 ああ父さんの ご武運を 今夜も一人で 祈ります

 大きく大きく なったなら 兵隊さんだよ うれしいな 
 ねえ母さんよ 僕だって 必ずお国を 護ります

日本が、太平洋戦争に突入する時期であったことを反映して、子どもたちに戦意の高揚を煽る内容になっていました。自らもそう固く信じて、子どもたちを戦争に送った教師の一人として、斎藤は深い悔悟にとらえられたと言います。「教え子を再び戦場に送るまい」という、戦後教師の共通の悲願は、この作者の思いでもあったでしょう。
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これは、スーパーとか果物屋さん等では、余り見かけることのない品種の柿です。田舎では「ヤヘイ」と呼んでいましたが、「弥平」さんにちなんだ命名でしょうか?
富有柿などの、ポピュラーな柿に比べて、あっさりしてイヤミのない味。私は子どもの頃から、この柿、好きでした。でも、お隣さんの柿の木なのです。
「桃栗三年、柿八年」のことわざとか、猿蟹合戦等の昔話とか、柿も栗も、生活に密着した果実だったのでしょう。
でも、甘くて上等なフルーツやスゥイーツが容易に口に入る現代、地味な上に手間のかかるこれらの果実は、子どもたちにとってイマイチ人気薄のようですが。


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