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酒讃むる旅人の心に潜むもの [文学雑話]

大伴旅人の話題が続いています。

先日紹介した「酒を讃むる歌十三首」のうちの四首、なかでも、「あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」の歌に、M先輩が、コメントを寄せてくださいました。

うかつにも、まるで思いの及ばなかった観点のご指摘で、大変刺激的でしたので。勝手ながら無断で一部を引用させて戴きます。ごめんなさいM様。

酒好きが酒を飲んで喜ぶのは勝手ですが、酒の飲めない下戸を猿の顔とは言い過ぎですね。日本人は酒が飲める人8割飲めない人2割ですから多数派の横暴とも言えますが、ひょっとしたら旅人は酔っぱらって醜態を曝しては奥さんにこっぴどく叱られているので、その反撃でしょうか。まあ酔っぱらいの戯れ言として許しましょう。

誠に、スルドイご指摘。ごもっともです。

ただ、旅人に成り代わりまして、少々弁明をこころみますと、酒を詩の題材にするという発想は、中国文学の色濃い影響がある模様です。

土屋文明著『万葉集私注』によると、

この13首の讃酒歌は集中でも、その内容の特異なために種々の論議の対象となるものであるが、旅人がどういう動機からこれらの作をなしたか。旅人は当時としては最高の知識人の一人で、新しい大陸文化も相当に理解していた者であろう。
(中略)
しかしこれらの歌は太宰府在任中、おそらくは妻を亡くした後の寂寥の間にあって、中国の讃酒の詞藻などに心を引かれるにつけて、自らも讃酒歌を作って思いを遣ったというのであろう。中国には讃酒の詞藻が少なくないとのことであるが、その中のいくつかを、彼は憶良の如き側近者から親しく聞き知る機会もあったものであろう。


とあります。


ここにもあるとおり、太宰帥(だざいのそち=太宰府の長官)という地方官として、都を遙かに離れた九州に派遣されていた旅人は、その地で、愛妻を病のため亡くしています。すでに60歳を超えていた旅人は、長年連れ添ってきた老妻をわざわざ大宰府まで伴ったのでした。
それだけに、亡妻を歌った旅人の歌は、切々として胸を打ちます。

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(793)

【解釈】この世の中が、むなしいものだと思い知る時、いよいよますます悲しいことだなあ!

太宰帥の任期が果てて、都に帰る途中、見るもの聞くもののすべてが、在りし日の妻を思い出させて、心を締めつけます。

我妹子(わぎもこ)が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき(446)


【解釈】私の愛する妻が見た鞆の浦のムロノキは、永久に健在だが、それを見た人(私の愛妻)は、もうこの世にいないのだよ。


我妹子は、「わがいもこ」がなまって「わぎもこ」と読みます。「妹(いも)」、「妹子(いもこ)」は、いずれも男性が愛する女性をよぶ言葉です。血のつながりのある姉妹も、愛する妻も、恋人も、そう呼んだようです。ちなみに女性が、愛する男性を呼ぶ言葉は、「背(せ)」「背子(せこ)」です。背(せ)は、兄(せ)とも書きます。ですから、夫婦を「妹背(いもせ)」といいます。
「鞆の浦」は、現在の広島県福山市にある港町で、鯛の養殖をはじめ、「龍馬のゆかりの地」、映画『崖の上のポニョ』の舞台としても知られます。
杜松(むろのき)は「ネズ」とも「ネズミサシ」とも呼ばれる針葉樹で、その球果は杜松実(としょうじつ)と呼ばれ、リキュールの「ジン」を蒸留するときに香り付けに使われるそうです。

鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)

  
【解釈】鞆の浦の海辺のムロノキをみるたびに、一緒にこれを見た愛妻のことは忘れられようか!(いや忘れることはできない)。

磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(448)


【解釈】磯の上に根を張っているムロノキよ、太宰府に向かう旅でお前を見た人は今どうしているかと問えば、語り告げてくれるだろうか。

妹と来し敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも(449)

  
【解釈】愛妻と一緒に来たときに通った敏馬の崎を、帰る時に一人で見ると涙がそそられることだよ。

行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも(450)

  
【解釈】行きがけには二人で見たこの崎を、ひとり通り過ぎるので、私の心は何とも悲しいことだよ。



こうして京の都に帰りついた旅人は、こんな歌を詠みます。

人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(451)

  
【解釈】人もいない空っぽの家は、旅の苦しさにまして苦しいことだなあ。

妹として二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(452)

【解釈】愛妻と二人で作った私の庭の築山は、再び帰郷するまでのこの数年の間に、木々が高く枝繁く、生い茂ってしまったことだなあ(植えた妻は、帰っては来ないのに)。 

我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽(む)せつつ涙し流る(453)

我が愛妻が植えた梅の木を見るたびに心がむせかえるようで涙が流れる事だよ。
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筑紫の国で、職務上は部下に相当しますが、文学的な交友の深かった山上憶良は、旅人の妻の死を悼んで、心のこもった挽歌(レクイエム)を旅人に寄せています。旅人になりかわって、妻を失った哀しみを、長歌と五つの反歌(長歌に添える短歌)で表現した者です。

  
  
日本挽歌一首、また短歌
  大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に
  泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず
  年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に
  打ち靡き 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに
  岩木をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形はあらむを
  恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか
  にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます(794)
反歌
  家に行きて如何にか吾がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも(795)
  愛(は)しきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべ無さ(796)
  悔しかもかく知らませば青丹よし国内(くぬち)ことごと見せましものを(797)
  妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに(798)
  大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る(799)

【解釈】
都から遠く離れた大王の遠の朝廷=天皇の政庁=太宰府へと、筑紫の国まで、親を慕って泣く子のように後を追っておいでになり、ほっと一息つく暇もなく、年月も少ししか経っていないのに、心に思いかけもしないうちに、草がなびくようにぐったりと病の床に臥してしまった。どう言ったらよいのか、どうしたらよいのか、手立ても分からずに、せめて石や木に何か言って心を晴らしたいが、それもできない。奈良の都の家に留まっていたなら、元気な姿であっただろうに、心残りがされてならない妻の命よ。私にどうしろというつもりなのか、かいつぶりのように二人仲良く並んで添い遂げようと語り合った心に背いて、その魂は遠く家を離れてさまよっていらっしゃる。

にお鳥(カイツブリ)

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カンムリカイツブリ
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 <795>
 奈良の家に帰ったら、私はどうしたらいいのか。枕を並べた妻屋が寂しく思われて仕方がないだろう。 
<796>
  いとしいことよ。こんな結果になるだけだったのに、私を慕ってやって来た妻の心が、どうしようもなく痛ましいことよ。
<797>
 悔やまれてならない。こうなると知っていたなら、奈良の国中をことごとく見せておくのだった。
 
<798>
 私の悲しみの涙がまだ乾かぬうちに、妻が生前見た庭の楝(=栴檀)の花も散ってしまったに違いない。
 
<799>
 大野山に一面に霧が立ちわたる。私の嘆息が生み出す風によって、山一面に霧が立ちわたる。 

 


旅人の酒は、この悲嘆を和らげるためのものでした。

 

 
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