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春浅き鄙の野辺にも花だより [文学雑話]

今朝も零下。日中も気温が上がりません。

さて、前回ご紹介した「大鏡」の一節は「時平と道真」の前段でした。
右大臣菅原道真に嫉妬した左大臣藤原時平の讒言(でっち上げの告げ口)により、醍醐天皇が道真を大宰府へ左遷し、子供や縁者をも左遷・流罪にした事件にまつわるエピソードが大宅世継の昔語りとして語られました。この、901年(昌泰4年)に起こった事件は、昌泰の変(しょうたいのへん)と呼ばれます。


道真はそのまま筑紫の国で、恨みを残して死にます。

「大鏡」の前回の続きを見てみます。

道真と時平(つづき)

やがてかしこにて亡せ給へる、夜のうちに、この北野にそこらの松を生ほし給ひて、渡り住み給ふをこそは、ただ今の北野の宮と申して、荒人神におはしますめれば、おほやけも行幸せしめ給ふ。いとかしこくあがめたてまつり給ふめり。
筑紫のおはしましどころは安楽寺といひて、おほやけより別当・所司などなさせ給ひて、いとやむごとなし。
内裏焼けて、たびたび造らせ給ふに、円融院の御時のことなり。工ども、裏板どもをいとうるはしく鉋かきてまかり出でつつ、またの朝に参りて見るに、昨日の裏板に、もののすすけて見ゆるところのありければ、梯に上りて見るに、夜のうちに虫の食めるなりけり。その文字は、
      造るともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまの合はぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくてこの大臣筑紫におはしまして、延喜三年癸亥二月二十五日に亡せ給ひしぞかし、御年五十九にて。

【年寄り語訳】 
(道真公は、)そのまま、かの地(筑紫)で亡くなられたのじゃ。その夜のうちに、この北野(現在の京都市上京区)の地にたくさんの松を生やしなさって、筑紫から渡り住みなさったのを、ただ今の北野天満宮様と申しあげてな、霊験あらたかな神でおわしますようじゃ。それゆえ、帝も行幸なさるのじゃ。たいそう畏れかしこみ、尊崇申しあげておられるようじゃのお。
筑紫での道真公のお住まいは、安楽寺といって、朝廷から、別当や所司などを任命なさってな、たいそう尊いお寺ですじゃ。
 内裏が焼けて、たびたび御造営になったんじゃが、これは、円融院様の御代のことじゃった。大工の者どもが、屋根の裏板をたいそう、ぴかぴかに鉋をかけて退出しては、また次の朝、参上して見ると、昨日の裏板に、なにやらすすけて見えるところがあったんで、はしごをのぼって見ると、夜のうちに虫が食うて(文字になって)いるのじゃったそうな。その文字は、
  (内裏をいくら)造り直してもきっとまた焼けてしまうであろう。菅原の棟の板間(この無実の罪の「胸の痛み」)が、しっくり合わない(傷口がふさがらない)かぎりは。
とあったということじゃ。それも、ここの北野(天神道真公)がなさったことじゃと世間では申すようでしたなあ。こんな風なあんばいで、この大臣(道真公)は、筑紫にいらっしゃって、延喜三年癸亥二月二十五日にお亡くなりになったのじゃよ。御年は、五十九歳で。



憤死した道真の怨念は、すさまじいものがあったようで、各地の天満宮は、その魂を鎮めるために菅原道真を祭神としてまつったようです。

その話題は、また改めまして。

太宰府天満宮の梅の花も、今頃は盛りでしょうか?

私の散歩道の路傍の梅の木は、思いがけない雪に見舞われて、多少なりともしもやけを起こして黒ずんでいますが、一輪、また一輪と花を開かせています。

 

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オオイヌノフグリの花もコバルトブルーに輝いています。
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タンポポの花
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ロウバイはまだまだ盛りです。
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この花は?コマツナの花のようです。
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花壇の花ですが、、品種名を知りません。
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