森のチルトン 童話(幼児向け) [kazg創作集]
木下透は私の高校時代の筆名です。
この作品は、それから10年以上経って、結婚もし、子どもも出来た頃、我が子に読み聞かせしたいと思って作った童話です。
高校時代の作品については、年齢故の未熟と寛容な対処をお願いしてきましたが、これはそうはいきません。 気が向いたら読んでみてくださいね。
ところで、今日は3.11。
被害を受けられた方々にたいし、改めてお悔やみ申し上げますとともに、一刻も早い復興と癒しの日が訪れますよう祈ります。
ただ、地震と津波は、自然の猛威の前に、人間という存在のちからの至らなさを自覚しつつ、そのちからの限りを尽くして、心をしっかり持って立ち直るしかない。そのため、能う限りの物心の支援を寄せたいと思うばかりです。
でも、フクシマの事態は全く違いませんか?自然の威力に対して圧倒的に劣った人類の、その限界と立場をリアルに踏まえた上で、「人類の英知」を絞って対処するしかないでしょうに。
「人類の英知」を絞って、即時廃炉、代替エネルギーへの速やかな転換に向かわない限り、事態の打開はないでしょう。「英知」どころか「営利」がのさばっては、第二第三の被害も避けられませんし、子々孫々に至るまで不安が解消されることはないでしょう。
惨禍の因を根絶しない、大本を明らかにしてそれを断つことをしない、責任を曖昧にして最大の責任者が免罪される、そればかりか、のど元過ぎればまたぞろのさばってくる、それを「国民性」というのは辛いことです。
でも、70年前、自分たちの手で戦争責任者を断罪することをしなかった私たちは、ほどもなく戦犯を首相に仰ぎ、 今、その孫が首相になるに及んで「戦後レジームの転換」なる信念のもと、またぞろ何事もなかったかのように、「集団自衛権」や「武器輸出」など歴代自民党政権がみずから歯止めとしてきた制約までなし崩しに解禁していく有様です。これを国民性とは、認めたくないのですがねえ。
森のチルトン 木下 透
いや、いや、森のおくの、いずみのほとりに、一けんだけ、小さな丸木ごやがありました。そこには、ヨゼフじいさんが、たったひとりで住んでいます。
ひとりぼっちでさびしくないかって?
いいえちっとも。
だって、森の小鳥やどうぶつたちが、みんな、じいさんのともだちなんだもの。
じいさんは、まいにち、大きなオノをかたにかついで、こしにはでっかいべんとうばこをぶらさげて、森のなかへでかけて行きます。朝早くから、コーン、コーンと木をきる音がこだますると、森の一日がはじまります。おひるになって、「よいこらしょっ」と、きりかぶにこしをおろしたじいさんのまわりには、うさぎや、りすや、小鳥たちや、たぬきだの、きつねだのまでがせいぞろいして、にぎやかなこと。
そんなふうだから、じいさんは、いつも、じぶんのおべんとうのほかに、どうぶつたちのだいこうぶつの、木の実やおいもをべんとうばこにつめこんで、しごとにやってくるのです。
でも、ことしの冬は、なんにちもなんにちも、雪がふりつづき、さやさや川もこおりつき、ふかぶか森のいきものたちは、食べものもなくて、こごえてしまっています。
ヨゼフじいさんは、リュックにいっぱい食べものをしょって、ふぶきのなかを森にでかけては、「おおい、みんな、出ておいで」と、大声でよびながら、どうぶつたちに食べさせてやるのでした。でも、じいさんがいくらいっしょうけんめい食べものをはこんでも、さむさでよわりきった森のどうぶつたちは、つぎつぎに雪にうもれて死んでいったのです。
やせほそって、冷たくなったどうぶつたちのしがいを、かたくこおりついた雪の下にほうむるたびに、じいさんは、「おお、なんと、かわいそうに」と、なみだをこぼすのでした。
そんなある日、いつものように、さやさや川のほとりをとおりかかったヨゼフじいさんは、一羽のまっ白い小鳥が、みちばたの雪のなかにうずくまっているのを見つけました。
かけよって、りょう手でそおっとだきあげると、小鳥はするすると、じいさんのオーバーのそでぐちをつたわって、むねのなかにもぐりこみました。そのからだがあまりに冷たいので、おもわず身ぶるいしましたが、じいさんは「そうかい、よしよし」と、やさしくつばさをなでてやりながら、ふと地面をみるとーーーーーー。
なんと、そこには、小さな小さな青いくつが、ちょこんとひとつ、ころがっています。
「おや」とおもって、よくよくたしかめると、白い小鳥のかた足には、同じ青いくつ。もうかた足ははだしです。地面の、かわいい青いくつは、この小鳥の足からぬげおちたもののようです。いいえ、小鳥と見えたのは、じつは、白いつばさをもった、小さな男の子だったのです。
「ははん。なるほど、こいつは、森のようせいじゃわい。」
ヨゼフじいさんは、ようせいのすがたを、じっさいに見るのははじめてでしたが、白いつばさに青いくつ、というかっこうが、むかしからの言いつたえどおりなので、すぐにわかりました。
森のようせいは、いたずらずきで、ときどき、こっそりわるさをするのです。じいさんも、にわとりのしっぽにリボンをむすびつけられたり、ひるねのさいちゅうにはなをつままれたり、ぼうしをやねのてっぺんにおかれたりして、
「いたずらぼうずの、ようせいのしわざじゃわい」
と、にがわらいしたことも、なんかいかあったのです。
「はて、さて、きょうは、どんないたずらをしでかすつもりやら」とおもいながら、よく見ると、いたずらどころか、かおいろも真っ青で、ぐったりしたまま。どうやら、つばさのほねもおれているようで、とてもくるしそうです。
じいさんは、ようせいを、いそいで小屋までつれてかえり、つばさのてあてをしてやって、ストーブのちかくのソファのうえにしずかにねかせてやりました。ようせいは、まる一日、こんこんとねむりつづけたあとで、やっと目をさましました。
ヨゼフじいさんが、あたたかいミルクを、スプーンに一ぱいのませてやると、ようせいは、ようやくげんきをとりもどし、
「ありがとう、おじいさん。ぼくは森のようせいのチルトンです。いつもいたずらばかりして、ごめんなさい。ーーーーーーーーきのうは、あんまりさむくて、おなかもすいてたものだから、キツネくんのおうちにもぐりこんで、ついでにごはんをこっそりしっけいして、いいきもちでねむっていたら、かえってきたキツネくんにみつかって、さんざんな目にあっちゃった」
と言うので、じいさんは、
「そうかい、そうかい。それはかわいそうに。それなら、げんきになるまで、この小屋で、わしといっしょにくらすといいよ」
と言ってやりました。
それから、なん日かたって、つばさのけがもすっかりなおったチルトンは、ヨゼフじいいさんといっしょに森にでかけては、どうぶつたちに食べ物をはこんでやるようになりました。でも、ふたりで、どんなにがんばっても、よわってしんでいくどうぶつは、あとをたちませんでした。
ある日、ふたりが、いつものように森をあるいていると、急につよいかぜがゴウとふいたかと思うと、ザザーッとおとがして、目のまえがまっくらになりました。高い木のこずえから、岩のように重い雪のかたまりが、ふたりのまうえに落ちてきたのです。
チルトンはむちゅうで「エイッ」ととびあがったので、ぶじでしたが、じいさんは、おちてきた雪のしたじきになってしまいました。なんとか、はいだすことはできたけれども、どこかほねでもおれたのでしょうか、あしがいたくて動きません。
やっとの思いで、小屋にかえりついたじいさんは、そのままベッドにたおれこんで「ウーン、ウーン」とうなっています。チルトンは、じいさんのいたむあしをさすったり、あたまを水でひやしたり、けんめいにかんびょうしたのですが、ようだいは、いっこうによくなりません。
「これでは、おなかをすかせたどうぶつたちに、食べ物をはこんでやることもできないのう。こまったことになったわい。」
ためいきまじりにつぶやくじいさんを見て、チルトンは、しばらく考えこんでいましたが、
「おじいさん、ちょっとのあいだ、しんぼうしてまっててね。」
と言いのこすと、まっしぐらに、おもてへとびだしました。
「さやさや川にそって、ずんずんと川下にむかっていけば、きっと町にたどりつける。町へ行って、大いそぎでおいしゃさんをよんでこよう。」
とかんがえたのです。
チルトンは、つばさがちぎれるほど、力いっぱいはばたいて、ふぶきのなかをとびつづけ、やっと、ビルやデパートやびょういんがある町までたどりつきました。
でも、どのびょういんでも、おいしゃさんは、こまったかおをして、 「この雪では、森のおくまで行くのは、とてもむりだねえ。春になって、雪がとければ、道ももとどおりに、とおれるようになるんだが」と、くびをふるばかり。チルトンは、がっかりして、とほうにくれてしまいました。もう、つばさも心も、つかれはててヘトヘトです。
しょんぼりと、森へひきかえしかけたチルトンは、ふと、小さいころお母さんにきいたむかしばなしのことを思い出しました。
ーーーーーーむかしむかしのそのむかし、おばあちゃんのおばあちゃんの、そのまたおばあちゃんも生まれていないころ。トムトンというわかものがいてね。トムトンは、冬のさむさから、森のみんなをすくうため、たったひとりで空高くまいあがり、太陽の女神さまにおねがいをして、地上に春をよんでもらったんだって。太陽の女神は、トムトンのゆうきをほめて、ねがいごとをかなえてくれたけれど、そのかわり、トムトンは、二どと地上にはかえってこられなかったのよーーーーー
「そうだ、ぼくも、トムトンのように、太陽の女神様におねがいしてみよう。」
チルトンは、雪まじりのはげしい風におしもどされながらも、歯をくいしばって、高く高く飛び上がって行きました。ふかぶかの森やさやさや川や、そして遠くの町やはるかむこうの海までが、だんだんと小さく、かすんで見えなくなるまで、高く高くーーーーーー。
けれども、とんでもとんでも、頭のうえには、まっくろい雲ばかり。つかれと冷たさで、からだはしびれ、わたのようにくたくたです。
「もうだめだ。つばさのちからがぬけていくーーーー」
チルトンは、深いねむりにさそいこまれるように、だんだん気が遠くなっていきました。ゆめうつつのチルトンの目には、雪の中でおなかをすかせてこごえている、おおぜいの小鳥たちやどうぶつたちのすがたが、つぎつぎとうかんできます。ベッドでくるしんでいるヨゼフじいさんのかおもうかびます。
「ごめんなさい。でも、ぼく、このままねむりたいーーー」
そのとき、チルトンは、聞きおぼえのあるなつかしい声が、耳もとでよびかけるのを、はっきりと聞いたように思いました。
「もう少しだ、チルトン。ほら、つばさに力をこめて、思いっきり羽ばたいてごらんーーー。さあ、自分の力をしんじて、がんばるんだ。」 そうです、それは、チルトンが、やっと自分で空をとぶれんしゅうをはじめたばかりのころ、いつも、すぐそばで声をかけてはげましてくれたおとうさんの口ぐせでした。
チルトンは、はっと目をあけて、からだをたてなおし、さいごの力をふりしぼって、二度、三度と強くはばたきました。チルトンのからだは、一直線にぐんぐんと高くまいあがっていきました。
すると、とつぜん、目の前がひらけて、見わたすかぎりすみきった、広々としたけしきがあらわれました。そこは、たとえようもないほどおだやかで、平和でうつくしい大空のせかいなのでした。くっきりと明るいまんまるの月が、こがね色のひかりを投げかけ、数えきれないほどたくさんの星がやさしくまたたいています。
チルトンは、つばさはしびれ、息は苦しく、もう本当にくたくたでしたが、やっとの思いで声をふりしぼり、月にたずねました。
「お月さまー、太陽の女神さまにおねがいがあるんです。どうしたらあえるのか、おしえてください」
月はこたえました。
「ざんねんだけど、太陽の女神は、ここにはいないよ」
「では、どこへ行けばあえるのでしょうか」
「ちょうど、この反対側にある昼の世界に行かなくては。そうだね、おまえのつばさだと、休まずにとびつづけたとしても、何十日、何百日もかかるだろうねえ」
チルトンがあんまりしょげかえっているので、月は、なぐさめるように、やさしく声をかけました。
「でもチルトン、おまえは太陽の女神に何をおねがいするつもりなんだい。もしわたしにできることなら、力をかしてあげてもいいよ」
チルトンは、すがりつくような思いでわけを話し、
「春をよびたいんです。春をよぶにはどうしたらいいのか、おしえてほしいんです。さもないとーーーー、みんな、しんでしまいます」
と、泣きじゃくりながら言いました。
けれども、月は、きのどくそうに、小さな声で言いました。
「力にはなってやりたいが、春をよぶことなんか、私にはできない。たぶん、太陽の女神での、その願いをかなえるのはむりだろう。季節には、じゅんばんときまりがあって、冬がおわるまで春はやってこないんだ。時間をまつよりほかはない。これは、どうにもしかたのないことなんだよ」
これを聞いたとたん、チルトンは、はりつめた糸がぷつんと切れるように、気がとおくなっていきました。そして、そのまま、つばさをとじて、小石のようにまっさかさまに地面にむかって落ちていってしまいました。
それは、あっというまのできごとで、月や星たちは、声をかけることも手をさしのべることもできず、これを見守っているだけでした。
つかのま、しーんとしずまりかえっていた大空のあちらこちらから、ひそかなすすりなきがおこり、それが、もの悲しい音楽となって空いちめんにひろがっていきました。息をのんで、じっとなりゆきを見つめていた月や星たちが、みんな、チルトンのために、声をあげて泣きはじめたのでした。
ぽろぽろとこぼれる無数のなみだのつぶが、きらりきらりと光りながら、地上に落ちていきました。それは、いつのまにか大つぶのはげしい雨になって、いつまでもいつまでもふりつづきました。
雪におおわれたふかぶかの森にも、その雨は三日三晩ふりつづき、四日目の朝は、うそのような上天気になりました。
太陽が、ひさしぶりに顔をのぞけ、ニコニコとわらいながらあたたかい日ざしをなげかけています。森の木々も、「うーん」とせのびをして、思いっきりしんこきゅうをしています。ふく風も、そよそよとおだやかで、くすぐったいようなやわらかさ。森の生きものたちは、大よろこびで、わになっておどったり歌ったり、はねまわったりしています。春です。春になったのです。
あんなに重たくつもっていた大雪はいったいどうなったのでしょう。そうです、あのはげしい雨にあらわれて、みるみるうちにとけてなくなったのです。その雪どけ水で、さやさや川は、夜も昼もドウドウと地なりのような音を立てつづけていましたが、いまではすっかり水かさもへり、清らかな流れが、さやさや、さやさやと、やさしい音色をかなでています。
ヨゼフじいさんは、どうしているでしょうか。
そおっと、小屋のなかをのぞいてみましょう。じいさんは、もうとっくにベッドのうえにおきあがって、じまんのオノのていれをはじめていますよ。まどのそとからきこえてくる小鳥たちのさえずりにあわせて、かるく口ぶえなんかふきながら。だけど、大きくはれあがったあしは、ちょっとさわっただけでも、とてもいたそう。
でも、だいじょうぶ。ほら、ごらんなさい、森のこみちをはしってくるオートバイがあるでしょう。おや、おや、なんと、三だいも。そうです、まちのおいしゃさんが、大いそぎで、じいさんの小屋へかけつけているところなんですよ。
さやさや川のきしべには、つくしがかおをだし、すみれやれんげ、なのはな、しろつめくさなど、いろとりどりの草花がいっせいにさきはじめています。
そしてそれらにまじって、ひときわあざやかにかがやいている、小さな青い花があります。
チルトンの、かわいいくつそっくりのーーー。
チルトンは?しんじゃったの?
いいえ。チルトンのたましいは、天にのぼって、真珠のような星になったのです。もちろん、お母さん、お父さんの星も、すぐ近くにいます。そして、あのトムトンだって。
ちょっと、耳をすましてごらんなさい、風にのって、チルトンの楽しそうなわらい声がきこえてくるでしょう。そして、もし、きみが、本当に、ゆうきがひつようなとき、きっとチルトンは、君の耳もとでこうささやきかけるはずですよ。
「ほら、思いっきり、羽ばたいてごらんーーーー。さあ、自分の力を信じて、がんばるんだ」
おわり
確か幼い頃の長男に読んで聞かせましたが、残念ながら評判が良くなくて、下の子たちには聞かせずにおわりました。
長男は、「かもとりごんべえ」が空から墜ちる場面になると、怖がって泣き、「かちかち山」では 「たぬきさんかわいそう」と泣くというように、ちょっとこちらが思いがけない感性を発揮する子で、このチルトンの結末の、献身と自己犠牲、そして転生という主題が暗くてイヤだったようです。
ですから、ここに載せたバージョンは結末部分を少し和らげて、明るい希望が残るように書き換えましたが、そのままお蔵入りになっていました。
改めて読み返してみると、なかなかいいんじゃない?と自己満足にかられて、発表することにします。
挿絵としてぴったりの写真を用意できたらと思ってきたのですが、整理が追いつかず、古いものを流用して、見切り発車とします。
また、小学校1~2年生配当漢字を精査して、平かなと漢字の使い分けを徹底したいと思いはしましたが、余裕がなくていい加減です。あしからず、、、。
↓訪問記念にクリックして下さると、励みになります。
にほんブログ村
コメント 0