春の夜の夢途絶えさせ地震(なゐ)震ふ [折々散歩]
藤原定家(新古今集)のぱくりです。
ぱくりついでに、、、
泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で夜も寝られず |
この歌について、2010年7月6日の神奈川新聞に、こんな記事があったそうです(孫引きで失礼)。
教科書から消えた風刺狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰」、黒船来航直後のものと裏付ける書簡発見 ペリー艦隊の黒船が横須賀・浦賀沖に来航した嘉永 6(1853)年6月当時の江戸幕府の混乱ぶりを風刺した狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」が、黒船来航直 後に詠まれたことを示す書簡がこのほど、東京都内で見つかった。この狂歌は関連史料が明治時代までしか、さかのぼれなかったことから「明治人の作ではない か」との説が10年ほど前から出され、最近ではほとんどの教科書から消えていた。発見者は、新史料によって旧来の説が正しかったことが裏付けられたとして いる。 発見したのは元専修大講師で横須賀開国史研究会特別研究員の斎藤純さん(62)。同研究会が編集し、横須賀市が発行する研究誌「開国史研究第10号」で経緯を報告している。 そ れによると、書簡は1853年6月30日付で日本橋の書店主山城屋佐兵衛が常陸土浦(茨城県)の国学者色川三中(みなか)にあてたもの。異国船(黒船)の 件で江戸が騒がしい状況を知らせ、追伸の形で「太平之ねむけをさます上喜撰(蒸気船と添え書き) たった四はいて夜(よ)るもねられす」などの狂歌が記さ れていた。 斎藤さんは茨城県の豪農大久保真菅が収集したペリー艦隊来航記録を調べていた際、大久保の師である色川の黒船来航記録に関心を寄せた。 今年2月初め、静嘉堂文庫(東京都世田谷区)が所蔵する色川の旧蔵書の中に、色川本人が山城屋の書簡を張り付けて保存していた「色川三中来翰(らいかん) 集」があるのを見つけた。 通常引用される狂歌と比べ、「泰平」が「太平」に、「ねむり」が「ねむけ」となっているが、斎藤さんは「表記上の違い で、『ねむり』は書き写す過程で変わった可能性がある。基本的な意味は変わらない」と解説。「黒船来航当時の衝撃度がよく分かる狂歌で、ぜひ教科書でも復 活してほしい」と話している。研究誌は800円。横須賀市役所や各行政センターなどで購入できる。 |
今朝の大揺れには、驚いて目を覚ましたものの、ラジオニュースとインタネット情報を確かめると、愛媛県で震度5強、山口県、大分県などで震度5弱を観測したとの由。わが地方は震度4で、津波の恐れはないらしい。というわけで、もう一眠りしました。
朝方、気温は低いが陽射しは穏やかなので、昨日に続いて深山公園に出かけてみました。
馬酔木が鈴なりに花をつけていました。馬酔木は、アセビともアシビともいい、馬がこれを食べると足がしびれて酔っぱらったようになることからのネーミングだそうです。
デジタル大辞泉にはこう出ています。
ツツジ科の常緑低木。乾燥した山地に自生。早春、多数の白い壺(つぼ)形の花が総状につく。有毒。葉をせんじて殺虫剤にする。「馬酔木」は、馬がこの葉を食べると脚がしびれて動けなくなるのによる。どくしば。あしび。あしみ。あせみ。あせぼ。《季 春》 |
今日は、pentaxk5Ⅱに、フィルムカメラ時代のTamron28-200mmをつけてみました。このレンズは、当時としては斬新な万能ズームのハシリでしたが、今となってはアドバンテージは低いですし、デジカメ時代に好まれるカリッと引き締まった画像は求めがたく、勢い収蔵庫の奥の方にしまわれがちでした。最近、例のPENTAXQの相棒候補として引っ張り出してみたついでに、今日は主役の座を与えてみました。
とくに、最近、ズイコーデジタル 35mm F3.5 Macro(165 g)を購入してからは、マクロ撮影はこれを使うのが軽快なので余計に出番が減っています。
ピント合わせに苦労しますが、うまくいくと、好ましい出来につながりそうと、今後に期待がふくらみます。
ところで、これは2月の下旬、故郷の実家の庭に植えてある馬酔木を写したもの。pentaxX5というコンパクトデジカメのマクロモードを利用。
こちらは、3月の初め、上道「小鳥の森」で撮影。e620 + ズイコーデジタル 70-300mm。
また、 これは一昨日の後楽園。e620 + ズイコーデジタル 35mm F3.5 Macro。
さすがに今日の画像が、一番ふっくらとふくらんでいて、色合いもあでやかな、馬酔木の花らしい姿をしています。
『馬酔木』というと、『ホトトギス』派から分かれて、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)が主宰した俳句雑誌を思い出します。
水原秋桜子は、高浜虚子の門人で、山口誓子、阿波野青畝、高野素十とともに「四S」と呼ばれ、大正末期から昭和初期にかけて『ホトトギス』誌上でもっとも活躍した一人に数えられます。
(注 阿波野青畝(あわのせいほ)については、こちらの過去のブログ記事で話題にしました。)
しかし、虚子が「客観写生」を重んじ、俳句は「自然を描写する文芸」とする「花鳥諷詠」論を唱えたのに対して、秋桜子は「調べ」によって主観を表してゆこうとします。
虚子が、「啄木鳥や落葉を急ぐ牧の木々」という秋桜子の句には厳密な意味での写生がないとして「甘草の芽のとびとびの一とならび」という素十の句を推したのに対して、秋桜子は、昭和六年一〇月『馬酔木』に発表した「自然の真と文芸上の真」で『ホトトギス』の写生句を批判し、「自然を尊びつつも尚ほ事故の心に愛着をもつ態度で、句の表には自然のみを描きつつ尚ほ心をその裏に移し出さんとする、勢ひ調べを大切にする」(『葛飾』序)とのべ、反『ホトトギス』の道へと進んでいきます。(明治書院「研究資料現代日本文学⑥俳句」参照)
その雑誌『馬酔木』の誌名の由来となったのがこの句でした。
馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ 水原秋桜子 |
大野林火の『近代俳句の鑑賞と批評』によるとこうあります。
昭和3年作。「馬酔木の花」(春)の句。俳詩『破魔弓』が昭和3年『馬酔木』と改題したとき、この句を『改題の辞に代へて』用いている。前年、山とで深い感銘を受けた秋桜子が回想して得た句である。 (中略) 頭書の句に戻れば「わが触れぬ」に古きものへの憧憬が籠められている。詠いぶりは写生風であるが、ほしいままに回想の中で美化している。 同じく馬酔木を詠んだものに 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺(昭和四年作) が ある。秋桜子はこの山深い小寺を小雨に濡れそぼち訪ねている。「雨を冒し難路を辿って得た様々な見聞の印象から、そこだけに照明が当たっているように浮か び出ている印象、それはもう現実具象ではなく、大和・山城国境の山中に忽然と浮かび出た浄土の門であったといってよいであろう。」という石田波郷の鑑賞言 もうつくしい。 |
秋桜子には、こんな馬酔木の句もあります。
来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり 水原秋桜子 |
山本健吉の『現代俳句』(角川文庫 一九七四)にはつぎのように鑑賞されています。
「これは奈良の三月堂で詠まれた俳句である。秋桜子は、飛鳥・天平時代の古美術に愛着が深く、何度も大和地方を訪れては、作品を残している。大和の春は、
馬酔木の花盛りである。小長い三月堂のあたりから、自分が歩いてきた若草山の山すその、鹿の群がっている野の方角を、眺めやった作品である。」 |
「来し方」は、歩いてきた道程の眺めでもあり、同時に、過去の人生の道のりでもあるのでしょう。
今日出会った鳥は、、、、ヒヨドリ
ヤマガラ。桜の花をついばんでいました。
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桜にヤマガラ、素敵な絵になりますね(^^
by 美美 (2014-03-15 23:23)
美美 様
ヤマガラはたくさんいて,人慣れもしていますので,ありがたみも薄いとみなす方もおられますが、愛嬌があって可愛い鳥ですね。
by kazg (2014-03-16 07:09)