春雨に煙る陣屋の雛の家 [折々散歩]
同業退職者の懇親団体に、新入り加入してから、一年近くがたちます。
行事は何度かありましたが、夏まではアルバイト従事で時間に余裕がなく、夏以降は肺癌発症と入院手術のドタバタで、なかなか十分にはおつきあいもできませんでした。
今日は、支部の「春の交流会」ということで、岡山市北区足守周辺の歴史散策が企画され、勇んで参加させていただきました。遠足を控えた園児よろしく、昨夜は眠りが浅く、早朝から目が冴えて困りました。
目的地まで約30km。10時集合となっていますので、余裕を見て9時前に出発すれば良かろうと、「ごちそうさん」、「あさイチ」をちらちら見ながらお出かけ準備をして、ちょっと早いかもと思いながらも8時45分に、車で出発。通勤ラッシュの時間帯は過ぎているはずと高をくくっていたのが大誤算。雨のせいもあってか、思いもかけない大渋滞が続き、一時間半かかってやっと到着。現地のお世話係の方に、集合場所で待っていただくご負担をおかけしてしまいました。お恥ずかしい。
聞くところによると、 渋滞はかなり広範囲に及び、ほかにも遅れた方がおられるとのことで、勝手にちょっと良心のとがめを軽減させた次第でした。
今日の散策予定は①近水園→②旧足守藩侍屋敷→③町並み散策→④昼食(足守プラザ「洪庵茶屋」)→⑤旧足守商家藤田千年治邸→⑥安富牧場ファミーユの順。
早速傘を差して、近水園に向かいます。
実は、私の過去の記事で触れた訪問が昨年の11月のことでしたが、それ以来、今度で二度目です。
そのときは、晩秋の氷雨降る中の散策でしたが、今日も春雨とはいえまたまた冷たい雨のなか。
紅葉に代わって梅や馬酔木の花が迎えてくれました。
11月のブログ記事には、
足守藩は、秀吉の正妻北政所(ねね)の兄木下家定が、慶長6年(1601年)に姫路から当地に転封されたことに始まります。
と書きました。さらに、今日教わったところによると、「木下」姓は、木下藤吉郎から譲り受けたものである由。同時に豊臣の称号も与えられたそうです。
また、 木下家定は、2万5000石の姫路城主でしたが、関が原合戦の際、東軍・西軍のどちらにも属さず中立を保ち、北の政所を守護したため、家康によって功をたたえられ、同じ2万5千石で備中足守に転封されたといういきさつだそうです。
近水園(おみずえん)は、その藩主木下家の庭園で、昭和34年(1959)に岡山県指定名勝に指定されました。小堀遠州流の作庭様式で東側の御殿山を借景とし、池には、鶴島と亀島が配置され、足守川の水が引かれているそうです。
近水園の一角にある「岡山市立歴史資料館」を見学し、近水園を散策した後、池に面した吟風閣(ぎんぷうかく)で休憩し、用意してくださったコーヒーなどをいただいていると、建物の中から先輩に呼ばれました。飾られている掛け軸の文字を読んでみよというわけでした。
古文書に造詣のある先輩と、国語を商売にしていた私とで、首をひねりながら苦心して読みを探ります。
白樺派の歌人木下利玄の短歌であることは間違いありません。前述の11月のブログ記事に
足守藩最後の藩主が木下利恭で、その弟利永の二男として生まれ、伯父利恭の養嗣子として跡を継いだのが木下利玄でした。
と書いて、彼の歌をいくつか紹介したのに続けて
近水園には、歌碑が建てられ、この歌が刻まれています。
花ひらをひろけつかれしおとろへに 牡丹おもたく萼をはなるゝ
残念ながら見つけることができませんでした。
と書いていました。
この記事を書いたことさえ忘れていたのは、お恥ずかしい限りです。
この歌碑の拓本を、掛け軸にして飾ってあったらしいのですから。
「萼」が「夢」と読めたのと、変体仮名の「に」を読み惑ったのが壁になって、暫く読みあぐねましたが、まずまず正解を得ることができ、一安心したところです。
花ひらをひろけつかれしおとろへに 牡丹おもたく萼をはなるゝ
侍屋敷は、前回訪問の時は掲示板や説明書を頼りにうわべを眺め見、それでも一級歴史資料の重みを感じたことでしたが、今回は専門の案内者の方に詳しい説明をいただき、改めて頷かされるところ大でした。
上枠が火炎形であることから名付けられました。
しかし「火」の文字が縁起が悪いので「花頭窓」と書かれることもあったとか。
現在、日本国政府の紋章として用いられているとか。
参勤交代で江戸に向かう殿様の安全無事を見守って、江戸のある方角を向いているのだとか。
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