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さくらの日 [今日の暦]

地元新聞のコラムが、俵万智さんの「たんぽぽの日々」から、北欧の高校生に在原業平の歌を教え、桜の花に心を弾ませる日本人お心を説明しようとして,カルチャーギャップを覚えた話題が紹介されています。

それをマクラに、今日3月27日は、日本さくらの会が1992年に制定した「さくらの日」だと書いてありました。「さく=3×9=27」のごろあわせだそうです。


引用されていた在原業平の歌はおなじみのこれです。

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 高校時代に古典文法で習った「~せば---まし」は、「反実仮想」といって、事実に反することを仮に想像する表現ですね。

「もし~ならば、 ーーーだろうに。(でも、実際は~ではないので、---ではない。)」という意味になります。

「~ましかば----まし」や、「~ば---まし」も類似の表現ですね。

こ の歌の解釈は、「この世の中にもしも桜ゆうもんがなっかたならば、なんぼうか春を迎える人間の心はのーんびりとのどかでありましょうになあ。でも、実際 は、桜ゆうもんがあるばっかりに、今咲くやろか、まだ咲かんやろかと、待ち遠しゅうてしゃあないし、咲けばさいたで,派よ見に行かなあかんとせわしゅうて しようがおまへん。雨が降ったり風でも吹こうもんなら、大丈夫やろか、散らへんやろか、とはらはらどきどきして落ち着いていられへん。ホンマ、桜ゆうもん は、なんぼうにも厄介な花でおますなあ」 てな具合でしょうか?

小倉百人一首にも採られているこの古今集の歌もよく知られています。

ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ    紀友則

 「久方の」は光や日にかかる枕詞。「らむ」は現在推量の助動詞ですが、 ここでは「どうして---ているのだろうか?」という原因推量の用法です。

解釈は、「こないにお日さんの光がのどかな春の日に、なんで桜の花だけせわしく散ってるのんやろか?」  といったところ。

のどかな春の日の雰囲気にふさわしく、桜の花ものんびりゆったりと咲き続けて欲しいというわけです。

鎌倉時代の兼好法師は,こう書いています。

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散り しをれたる庭などこそ見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書ける は、「花を見て。」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。 今は見所なし。」などは言ふめる。 (兼好法師『徒然草』「花は盛りに」)

【解釈】

桜 の花いうたら、真っ盛りに咲いとる時だけを、月はくもりのない満月だけを、見るものどすやろか(いやいやそうではおまへん)。雨にむかって、月を恋い慕う たり、スダレを垂れて部屋んなかにとじこもって、春がどこへ行ったのやら、わからへんのも、やっぱり、しみじみ趣深いものでおます。今にも咲きそうな桜の 梢や、咲き終わって、花が散りしおれている庭などこそ、ホンマに見所が多うおまっせ。
和歌の詞書にも、「花見に参りましたんやが、もうすっかり散 りってしまうておりまして。」とも、「差しつかえることがあって花見に行きそびれてからに」などとも書いてあるのは、「花を見て。」と言っているのに劣っ とりますやろか(いや、劣ってはおまへん)。花が散ったり、月が西に傾いたりするのを慕う世のならわしは、もっともなことでおますけれども、特に情趣とい うもんがわからへんカタブツが、「この枝も、あの枝も、花が散ってしまいましたなあ。もう見所はおまへん。」などと言うようでおますすなあ。

江戸時代の国学者本居宣長は,これに難癖をつけてこう書いています。

  兼好法師が徒然草に、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」とか言へるは、いかにぞや。いにしへの歌どもに、花は盛りなる、月はくまなきを見 たるよりも、花のもとには風をかこち、月の夜は雲をいとひ、あるは待ち惜しむ心づくしをよめるぞ多くて、心深きも、ことにさる歌に多かるは、みな花は盛り をのどかに見まほしく、月はくまなからんことを思ふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを嘆きたるなれ。いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひた るはあらん。さるを、かの法師が言へるごとくなるは、人の心にさかひたる、のちの世のさかしら心の、つくりみやびにして、まことのみやび心にはあらず。か の法師が言へることども、このたぐひ多し。みな同じことなり。すべて、なべての人の願ふ心にたがへるを、みやびとするは、つくりことぞ多かりける。(本居 宣長『玉勝間』「兼好法師が詞のあげつらひ」)

【解釈】

兼好法師の徒 然草に、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」なんぞと言うてはるのは、いかがなものですやろか。古い昔の歌々に、花は満開の状態を、月は曇 りのない満月を見たんよりも、花のもとで風に不平を言い、月の夜は雲をいやがり、あるいは花が咲き満月が空を照らすのを待ち焦がれたり、盛期が過ぎ去るの を惜しんであれこれ気をもんだりするのを詠んだ歌が多うて、情趣深いのんも、特にそんな歌に多いのは、 みな花は満開の状態をのどかに見たいのやし、月は曇りがないんを願う気持ちが切実やからこそ、それが適わへんのを嘆いているんや。どこの歌に、桜の花に風 を待ち、月に雲を願っている歌があるやろか、いやあらしまへん。せやのに、あの法師が言うてるようなんは、人の心に逆らうてる、後世の利口ぶった心、エセ 風流で、本物の風流心やおまへん。あの法師が言うてることには、この類が多い。みんな同じことどす。すべて、おおかたの人の願う心に背反していることを風 流とするのは、わざとらしい作為が多いことでんなあ。(本居宣長『玉勝間』「兼好法師が詞のあげつらひ」)

北欧の高校生からすると、やっぱり「大の大人が、桜の花如きに何をカッカとリキんで息巻いているの?」ということになりましょうかね。

 

今朝の散歩で、一輪だけソメイヨシノの開花を確認しました。が、携行していたカメラが電池切れで、桜は写せませんでした。

今朝の写真で、お見せできるのはこの一枚だけ。

Imgp8527.jpg
のどかな春の田園風景です。

 

 


 

 

 

 

 



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