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椿殿(つばきどの)御名(みな)名乗られよ椿寿(ちんじゅ)の忌 [今日の暦]

今日は虚子忌。
寒の戻りに凍えた天候もやや回復して、うららかな一日でした。
今日は、仕事二日目。午前中だけの勤務でしたが、やはり疲れました。

うらうらと今日美しき虚子忌かな   星野立子

星野立子 は、高浜虚子の次女。虚子が、子どもたちのうちで、句作を自分から勧めたのは、「星野立子一人である」といい、「自然の姿をやはらかい心持で受け取ったまゝに諷詠するといふことは立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつた」(『立子句集』序文)と高く評価していました。

高濱虚子(たかはま きょし)は、1874(明治7)年、愛媛県松山市生まれ。
伊予尋常中学在学中、河東碧梧桐を介して同郷の先輩・正岡子規に師事し、後に二人は子規門の双璧といわれるようになります。
虚子という号は本名清(きよし)にちなんで、子規が名づけたものです。
野球好きの子規が、「野球」という号を用いていたことがあるという話題を、以前紹介したことがありましたが、虚子も碧梧桐も野球好きだったそうです。
虚子は「子規居士と余」という文章で、子規との出会いを回顧しています。その一節を青空文庫から引用してみます。

「子規居士と余」    高浜虚子

 松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処(そこ)へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣っていると、其処へぞろぞろと東 京がえりの四、六人の書生が遣(や)って来た。余らも裾(すそ)を短くし腰に手拭(てぬぐい)をはさんで一ぱし書生さんの積(つも)りでいたのであった が、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛(すね)の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルなどであることがまず人目を欹 (そばだ)たしめるのであった。
「おいちょっとお借しの。」とそのうちで殊(こと)に脹脛(ふくらはぎ)の露出したのが我らにバットとボールの借 用を申込んだ。我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、そ れを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采(ふうさい)は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯(へこおび)を緩(ゆる)く 巻帯にし、この暑い夏であるのにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板(まないた)のような下駄を穿(は)き、 他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチング を始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終 には単衣(ひとえ)の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許(てもと)を外れて丁度(ちょう ど)余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この 「失敬」という一語は何となく人の心を牽(ひ)きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行っ てしまった。
 このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。





    

 

 

 

 

 



 

wikipediaは、虚子と碧梧桐について、こう評しています。

子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠 まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。 そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。

しかしまた反面、碧梧桐が亡くなった翌年の1937年(昭和12年)には嘗ての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」を詠んでいる。

俳壇に復帰したのち虚子つまり「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即ホトトギスであったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であった。


松山市の「子規堂」には、子規が門人への短評を八百屋に並ぶ品物にたとえて書いた「発句経比喩品」という短冊が飾られています。
虚子についてのコメントはこうです。

虚子君(高浜虚子)

  「さつまいも 甘み十分あり 屁を慎むべし」

才能はあるが、出しゃばりすぎる欠点に注意せよというのでしょうか。。
ちなみにほかの門人に対する短評は、こんな具合。

鳴雪君(内藤鳴雪)

    「卵 滋養あり 子供にも 好かれる」

  鳴雪は門人とはいえ、年長者なので、ふさわしく遇したものといわれます。 

碧梧桐君(河東碧梧桐)

  「つくねいも 見事にくっつきおうたり 今少し離れたる処もほし」

  碧梧桐は当時新婚で常に妻を同伴した由。

漱石君(夏目漱石)

    「柿 うまみ沢山 まだ渋の 抜けぬも混じれり」

   「漱石」の号は元々子規が使っていたもので、友人の夏目(金之助)に譲ったものだという話題は、前にも書きました。
漱石は、子規の影響を受けて、生涯に2600句を詠んだといいます。
もっとも私の印象に残る句は、これですかね。

有る程の菊抛げ入れよ棺の中  漱石

漱石の友人であった大塚保治の妻:楠緒子の死を悼んだ句だといわれます。(『思ひ出す事など』七所収)切実な哀悼の思いと、かぐわしい菊のイメージとがぴったりマッチして、できすぎの感じもありますが、あらがいがたい真情のこもった句と思います。ゴシップ好きの方面からは、楠緒子さんへの密かな恋慕の有無も取りざたされますが、死による喪失は、自ずから恋人を失うに似ています。さればこそ、太古より「相聞」(恋の歌)と「挽歌」(死を悼む歌=レクイエム)とが、詩歌の主要なテーマとなるのでしょう。


  虚子は、生涯に20万句を読んだといわれますが、なかでも人口に膾炙した作品といえば、こんなものがありましょうか。

遠山に日の当りたる枯野かな

桐一葉日当りながら落ちにけり

春風や闘志いだきて丘に立つ

白牡丹(はくぼたん)といふといへども紅ほのか

流れ行く大根の葉の早さかな

わが思ふまゝに孑孑(ぼうふら)うき沈み

手毬唄かなしきことをうつくしく

去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの

春風や闘志いだきて丘に立つ

初蝶来何色と問ふ黄と答ふ


椿を愛したという虚子は、椿の句も数多く残しました。

大桜これにかしづき大椿   

造化又赤を好むや赤椿 

先日の「龍ノ口グリーンシャワー公園」の散歩で、椿の 品種に目をとめてみました。
最近の寒の戻りのせいか,霜焼けたらしい花弁が痛々しく、アップするに忍びない画像も多いので、ほんの一部をご紹介することにします。

お名前は? 「明石潟」

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お名前は? 「乙女」です。
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お名前は? 「黒椿よ」
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お名前は? 「黒龍」と申します。
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お名前は? 「草純洗」
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P406663920140406_340_R.JPG
 
お名前は? 「チョチョサン」
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虚子忌は、その椿好きにちなんで、椿寿忌とも呼ばれます。

 


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