ひとの死をさもありと聞く驟雨かな [木下透の作品]
木下透は私の高校時代の筆名です。
ひとの死をさもありと聞く驟雨かな
【解釈】「人の死」というきわめて重い事実を、「(無常のこの世であるから)そういうこともあるのだと聞いている自分がある。折しも表は、激しいにわか雨が降りしきっていることよ。
初めは「他人の死を」と書いて「他人」に「ひと」というルビを振って、句会に出しました。一種の「偽悪」というか「露悪」の意識もあって、所詮他人の運命は、他人事なのだから、という虚無感を協調した傾向があったかもしれません。それは、エゴイズムの宣言と言うよりは、人間存在の孤立性への自覚または諦観といったものの誇張表現だったのでしょうが、さすがにそれが誰の目にも鼻についたようで、せめて「人」または「ひと」と表記することをすすめられました。
「ひとの死を」と改めてみて、句境が随分平凡になったような気が、当時はしていましたが、「さもありと聞く」よりほかにはいかようにもし難い、人間存在の否応なさが、自ずとあらわれているように、だんだん思えてきました。
昨夜お会いした友人たちとの話題に、いくつか「ひとの死」にまつわるお噂がありました。
その一つ、若かりし日の職場の先輩であったHさんが、数年前病気のため亡くなられたことは、事後聞き知っていました。
独身の新任時代以来、公私にわたって親しく時間をともにし、お互いのアパートを行き来し、居酒屋をはしごし、時には電車で小一時間をかけて街まで出かけ、「寅さん」や「ピンクパンサー」など、行き当たりばったりに映画を一緒にみたり、天下国家を論じたりした間柄でした。無理に頼み込んで、私の結婚式の司会を押しつけたこともありました。
他にも「一生のお願い」を何度かして、「こんな事で一生のお願いを使い果たしていいの?」とからかわれることもありました。
それほどに身近で、ほとんどなれ合い意識に近い感情で結ばれている、気の置けない存在と、ずっと思っていました。いつでもその気になればお返しはできるというか、改まってお礼を言うのも他人行儀と思える「bosom friend」-「腹心の友」(花子とアン)のはずでしたのに、突如遠いところに行ってしまわれました。
なぜか、私は、葬儀にも参列できず、お墓参りさえしていないのです。 記憶があやふやなのですが、おそらく、私自身の脳動脈瘤手術前後の時期に重なっていて、「人様」を見送る心のゆとりすらもなかったのでしょうか?
去年の4月になくなったもう一人のHさんを偲ぶ折々に、ふと、こちらのHさんの思い出がこみ上げてくることもしばしばでした。
話をもとに戻します。昨日お会いした方々のよもやま話の一つに、そのHさんの奥様も、最近亡くなられていたという情報を聞き、驚いたのです。
ひとの死をさもありと聞く驟雨かな
この句を久しぶりに思い出したゆえんです。
今日の写真は、生命を謳歌する方向へと、意図的にシフトして選んでみました。
このさなぎは、ツマグロヒョウモンでしょうか?我が家の玄関先です。
大学時代に作った同人誌を読み返すと、
同じ人間が書いたとは思えない文章が……
円くなっちゃったなぁと感じます。
by johncomeback (2014-06-20 07:59)
johncomeback様
あるある、ですね。円くなったり、尖ったり、、、(笑)。
by kazg (2014-06-20 10:00)