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緋縅を着たるそなたは伊勢武者か [今日の「これなあに」?]

最近撮影したチョウの名前が不確かです。
これなあに?

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「ヒオドシチョウ」でしょうか?

鎧(よろい)の札(さね)を革や糸で結び合わせることを、「威し」といいます。「ヒオドシ」とは、クチナシやキハダで下染めした上を紅で染めた紐(ひも)や革で縅したもの。この蝶は、確かにそんな様子にも見えます。
「平家物語」の「宮の御最期」に、こんな場面があります。

大将軍左兵衛督(さひょうえのかみ)知盛、これを見給ひて、「渡せや渡せ」と下知(げち)し給へば、二万八千余騎、皆うち入れて渡す。さばかり速き宇治川
も、馬や人に塞(せ)かれて、水は上にぞたたへたる。雑人(ぞうにん)ばらは、馬の下手に取り付き取り付き渡る程に、膝より上を濡さぬ者も多かりけり。自
らはづるる水には、何もたまらず流れたり。ここに伊賀伊勢両国の官兵(かんびょう)ら、馬筏(うまいかだ)おし破られて、六百余騎こそ流れたれ。萌黄(も
えぎ)・緋縅・赤縅、色々の鎧の浮きぬ沈みぬ揺られけるは、神南備山(かんなみやま)の紅葉葉(もみじば)の、峰の嵐に誘はれて、龍田川(たつたがわ)の
秋の暮、堰(せき)にかかりて、流れもあへぬに異ならず。その中に緋縅の鎧着たる武者三人、網代(あじろ)に流れかかりて、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、伊
豆守見給ひて、かくぞ詠じ給ひける、
 伊勢武者は みな緋縅の 鎧着て 宇治の網代に かかりけるかな
 

【解釈】
平知盛が足利忠綱の目覚ましい活躍を見て、「渡れ、渡れ」と命じなさると、28000余騎が一斉に宇治川に馬で飛び込んで渡る。さすがの宇治川の速い流れも、無数の馬筏にせき止められ、水が上にたまった。雑兵たちは馬筏の下流に取りついて渡ったので、膝から上を濡らさない者も多かった。伊勢と伊賀の官兵は、流れに馬筏を壊されて600余騎が流された。萌黄や緋縅、赤縅など色々な鎧が浮いたり沈んだりしている様は、大和の国の紅葉の名所神南備山の峰の嵐に誘われた紅葉葉が、秋の暮れに龍田川の堰にひっかかって、たゆたっている様子にそっくりである。
その中に緋縅の鎧を着けた武者が3人、鮎漁のための網代に引っかかって、浮いたり沈んだりしながら揺られていたのを、伊豆守(源仲綱)が詠んだ歌。

伊勢武者はみんな緋縅の鎧を着て宇治の網代 (あじろ) にひっかかっていることよなあ


 「平家物語」の、有名な「宇治川の合戦」の場面を、評論家小林秀雄はその著書「平家物語」の中でこう紹介しています。

「先がけの勲功立てずは生きてあらじと誓える心生食知るも」 
これは、『平家物語』を詠じた子規の歌である。名歌ではないかもしれないが、子規の心が、『平家物語』の美しさの急所に鋭敏に動いた様が感じられ、詩人がどれくらいよく詩人を知るか、その見本のような歌と思われておもしろい。
 
『平家』の中の合戦の文章はみないいが、宇治川先陣は、好きな文の一つだ。『盛衰記』でもあのあたりは優れたところだが、とても『平家』の簡潔な、底光り
がしているような美しさには及ばぬ。同じ題材を扱い、こうも違うものかと思う。読んでいると、子規の歌が決して佐々木四郎の気持ちというような曖昧なもの
を詠じたのではないことがよく分かる。荒武者とかん馬との躍り上がるような動きをはっきりと見て、それをそのままはっきりした音楽にしているのである。な
るほど、佐々木四郎は、先がけの勲功たてずば生きてあらじ、と頼朝の前で誓うのであるが、その調子には少しも悲壮なものはない、もちろん感傷的なももな
い。傍若無人な無邪気さがあり、気持ちの良い無頓着さがある。人々は、「あっぱれ荒涼な申しやうかな。」と」言うのである。頼朝が四郎に生食をやるのも気
まぐれにすぎない。無造作にやってしまう。 もっともらしい理由なぞいろいろ書いている『盛衰記』に比べると各段である。「金覆輪の鞍置かせ、小総のしり
がいかけ、白轡なげ白泡かませ、舎人あまたついたりけれども、なほ引きもためず、躍らせてこそいで来たれ。」これはまた佐々木四郎のいでたちでもある。源
太影季これを見て、佐々木と刺し違え、「よき侍二人死んで、鎌倉殿に損取らせ奉らん」と、とんだ決心をアッと思う間にしてしまうのもなかなかよい。佐々木
から、盗んだ馬と聞かされると、「ねったい。」と大笑いしてさっさと行ってしまう。まるで心理が写されているというより、隆々たる筋肉の動きが写されてい
るような感じがする。事実、そうにちがいないのである。このあたりの文章からは太陽の光と人間と馬の汗とが感じられる、そんなものは少しも書いてないが。


該当部分のあらすじは次のようです。

後白河法皇は、都の治安を乱す木曽義仲を追討せよと、鎌倉の源頼朝に院宣を下しました。頼朝は、弟義経を大将とする討伐軍を京都へ向かわせます。
佐々木四郎高綱の馬は「いけずき」、梶原源太景季の馬は「する墨」という名の名馬でした。
頼朝方の軍勢は、大手の範頼軍三万五千、搦手の義経軍二万五千余騎に分かれて宇治橋へ向かいます。正月二十日のことで、谷の氷が溶け始め宇治川は激しい流れでした。
義経は、迂回するか、川の流れが治まるのを待つか、配下の武将たちに意見を求めます。畠山重忠が答えます。
「宇治川は、琵琶湖から流れる大河。いくら待っても激流がおさまることはなく、敵が引きあげた橋を 再び架ける野も不現実的です。私が馬を踏み入れ、水深を確かめてみましょう」
畠山が一族を集めて馬を整えていると、平等院の東北のほうから、二騎の武者が 競いながら走ってきます。
梶原源太景季と佐々木四郎高綱でした。
日頃からライバル意識を持って張り合っていた二人は、今回も、宇治川の先陣を競って必死でした。
梶原が先を行き、佐々木が続きます。
そのとき、佐々木は、後ろから声をかけます。
「梶原殿、馬の腹帯が解けておりますぞ」
それを聞いた梶原が腹帯を調べているすきに、スッと佐々木が追い抜き、宇治川へ乗り込みます。
「騙された!」と思った梶原は後を追いますが、はるか下流に流されてしまいました。
佐々木は対岸に上がり、高らかに名乗りを上げます。
 
続きの場面はこうです。

佐々木鐙踏ん張り立ち上がり、大音声を上げて名のりけるは、「宇多天皇より九代の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや」とて、をめいて駆く。
 
畠山五百余騎でやがて渡す。向かへの岸より山田次郎が放つ矢に、畠山馬の額を篦深(のぶか)に射させて、弱れば、川中より弓杖(ゆんづゑ)を突いて降り立
つたり。岩浪(いはなみ)甲(かぶと)の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後
ろに者こそむずと控へたれ。「誰(た)そ」と問へば、「重親(しげちか)」と答ふ。「いかに大串(おほくし)か」「さん候ふ」。大串次郎は畠山には烏帽子
子(えぼしご)にてぞありける。
「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ」と言ひければ、「いつもわ殿原(との
ばら)は、重忠がやうなる者にこそ助けられむずれ」と言ふままに、大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただなほつて、「武蔵の国の
住人、大串次郎重親、宇治川の先陣ぞや」とぞ名のつたる。敵(かたき)も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。
 その後、畠山乗り替へに
乗つてうち上がる。漁綾(ぎよりよう)の直垂に緋縅(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に金覆輪(きんぶくりん)の鞍(く
ら)置いて乗つたる敵の、まつ先に進んだるを、「ここに駆くるは、いかなる人ぞ。名のれや」と言ひければ、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱(ながせの
はんぐわんだいしげつな)」と名のる。畠山、「今日の軍神(いくさがみ)祝わん」とて、押し並べてむずと取つて引き落とし、首ねぢ切つて、本田次郎が鞍の
とつつけにこそ付けさせけれ。これをはじめて、木曾殿の方(かた)より宇治橋固めたる勢(せい)ども、しばし支へて防ぎけれども、東国の大勢(おほぜい)
皆渡いて攻めければ、さんざんに駆けなされ、木幡山(こはたやま)・伏見を指(さ)いてぞ落ち行ける。 


【現代語訳】    
 佐々木は鐙(あぶみ)を踏ん張って立ち上がり、大声で名乗ったことには、「宇多天皇より九代目の子孫、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣であるぞ。われと思う人々はこの高綱と勝負せよ」と、大声で叫んで馬を走らせた。 
 畠山は、五百余騎ですぐに川を渡った。向こう岸から山田次郎が放った矢に、畠山は馬の額を深く射られ、馬が弱ったので、川の中から弓を杖について降り立った。岩飛沫とともに大波が甲の前にざっと押しかかったが、ものともせずに水底をくぐり向こう岸に到達した。岸に上がろうとすると、後ろに何者かがぴったり付き添っている。「誰だ」と問うと、「重親」と答える。「なんと、大串か」「さようでございます」。大串次郎は、畠山にとって烏帽子子(えぼしご=元服の時に、後見人である烏帽子親に烏帽子名を与えられた者)だった。
重親が「あまりに流れが速いので、馬が押し流されてしまいました。自力ではどうしようもないのであなたにおつき申し上げておりました」と言ったので、畠山は「いつもお前たちは、この重忠のような者に助けられるのだろう」と言いながら、大串を担ぎ上げて岸の上に放り投げた。放り上げられて、まっすぐ立った重親は、「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣だぞ」と名乗った。敵も味方も、この名乗りを聞いて、一度にどっと笑った。 
 その後、畠山は替わりの馬に乗って岸に上がった。漁綾の直垂に緋縅の鎧を着て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った敵が真っ先に進んでくるのを見て、畠山は「こちらに駆けて来るのは、どういう人か。名乗れよ」と言うと、「自分は木曾殿の家来で、長瀬判官代重綱」と名乗った。畠山は「今日の軍神への供え物としよう」と言って、馬を押し並べ、むんずと取り組んで引きずり落とし、首をねじ切って、本田次郎の鞍の紐にくくりつけさせた。これに始まり、木曾殿の側で宇治橋を守り固めていた軍勢は、しばらくは支えていたものの、東国の大軍がみな川を渡って攻めたので、散り散りに追いやられ、木幡山・伏見を目指して逃げていった。
 
これなあに?

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 ホタルガ(蛍蛾)だそうです。

最後にこれなあに?

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 調べましたがよくわかりません、ムラサキシジミでしょうか?


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