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白蓮あれこれ 思いつくまま [獺祭魚]

 このコーナーは、カワウソが獲物を岩の上に並べて収獲の祭りを行うという故事にちなんで、撮りためた写真を並べて楽しもうという主旨です。

今日の題材は、白いハスの花。

児島湖近くの蓮根田でうつしたものの残りです。

fuji ファインピクスs1(7/17撮影)

純白の花色です。

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 ツボミのうちはほんのり淡いピンクが交じります。
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児島湖の眺望
 
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ウチワヤンマ
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 PENTAXK10+SIGMA120-400mmAPO DG(7/17撮影)

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児島湖眺望
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児島湖の対岸に常山を望む
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カワラヒワ
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食用の蓮根の花で、観賞用ではありませんが、清楚で飾り気のない白い蓮の花が、なかなか魅力的です。

白蓮をシロハスと読めば、この花を指すでしょうが、「ビャクレン」とも読めますね。



NHKの朝ドラでは、「蓮様(れんさま)」の恋の行方がドラマチックに展開します(ドラマですけど)。

「蓮様(れんさま)」こと葉山蓮子のモデルは、大正三美人のひとりと評された、柳原白蓮(1885~1967)です。
ちなみに大正三美人とは、この柳原白蓮と、教育者・歌人、社会運動活動家としても知られた九条武子(旧姓大谷武子)と、新橋の芸者で、法律学者・江木衷と結婚して社交界で名をはせた江木欣々(えぎきんきん)の3人だといいます。2人目の九条武子は、京都西本願寺・大谷光尊の二女として生まれ、男爵・九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られました。佐佐木信綱の門下生で、当時の「麗人」という言葉はこの人のために使われたといわれます。
柳原白蓮と九条武子は、実際に交際があったようで、以前にも引用させていただいた「松岡正剛の千夜千冊」というブログの 1051夜 2005年07月27日の記事で、 近代美人伝「上・下」という本が取り上げられていますが、ちょうどそこに白蓮と武子に触れた個所がありましたので引用させていただきます。

新編 近代美人伝〈上〉 (岩波文庫)

新編 近代美人伝〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者: 長谷川 時雨
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1985/11/18
  • メディア: 文庫


 

新編 近代美人伝〈下〉 (岩波文庫)

新編 近代美人伝〈下〉 (岩波文庫)

  • 作者: 長谷川 時雨
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1985/12/16
  • メディア: 文庫

 

 

 

それでは、いまあげた柳原白蓮と九条武子の例を出しておきます。

 柳原白蓮は鹿鳴館華やかなりし明治18年に、柳原前光伯爵の次女として生まれます。お兄さんは貴族院議員、でも白蓮の生母は柳橋の芸妓さんです。だから麻布笄町の別邸で育った。やがて北小路子爵のところに嫁ぐのですが、ほどなく離婚します。
 
そして、さっきも言ったように、福岡の炭鉱王の伊藤伝右衛門に請われて入籍するのですが、亭主が52歳だったこと、無学な鉱夫あがりだったこと、成金だっ
たこともあって、人の噂に「人身御供」だと騒がれます。けれども暮らしのほうは豪勢きわまりないものだったので、"筑紫の女王"と揶揄される。そのうち佐
佐木信綱に和歌を学ぶようになって『踏絵』という歌集を出します。なんとも意味深長なタイトルですが、収められた歌もそういう感じです。たとえば、

  殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
  わが魂(たま)は吾に背きて面(おも)見せず昨日も今日も寂しき日かな
  おとなしく身をまかせつる幾年は親を恨みし反逆者ぞよ
  われといふ小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ

 こういう歌が発表されたんですね。なかには「毒の香たきて静かに眠らばや小瓶の花のくづるる夕べ」といった、ぎょっとする歌もいくつも入っている。それが33歳のときです。みんなびっくりしてしまいます。あるいは、ああやっぱりと思った。
 
そこへもってきて大正10年10月22日の新聞に「柳原白蓮女子失踪!」の記事が突如として躍ったんですね。「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」
という記事です。記事によると福岡へ帰る夫を東京駅で見送ったまま、白蓮は東京の宿にも帰らず、そのまま姿をくらましてしまったというのです。そしてやが
て、伝右衛門に宛てた絶縁状が新聞に載る。「私は今貴方の妻としての最後の手紙を差し上げます」という一文で始まる、とんでもない文面です。それが満天下
に公開された。
 さあ、これで世間も新聞社も蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。そこに伝右衛門の談話が発表される。「天才的の妻を理解していた」という見出しです。
 
やがて白蓮は東京帝国大学の宮崎竜介という青年と駆け落ちしていたことがわかるのですが、それがわかればわかったで、今度は外野席や帝大の教授たちもいろ
いろのことを論評するようになり、ついに姿をあらわせなくなっていくんですね。その後、白蓮は「ことたま」というすばらしい歌誌を主宰して、詩集・戯曲・
随筆を書きつづけたにもかかわらず、その白蓮を世間はついに"認証"しなかったのです。
 時雨はこう書いています、「ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間の交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽くせようか」と。

 もう一人の"遠き麗人"とよばれた九条武子についても、ちょっとだけお話しておきます。そのころから細川ガラシャ夫人と並び称されてきた女性です。時雨はこんなふうに書き出している。
 「人間は悲しい。率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字も書けない」。
 
これでなんとなく察せられるように、九条武子という人は現代にはまったく存在していないような、信じられないほど美しい女性です。多くの美人伝を綴ってき
た時雨にして、一行も書けなくなるような、そういう女性です。生まれは本願寺21代法主の大谷光尊の次女で、お兄さんが英傑とうたわれた大谷光瑞。西域の
仏跡探検家でもあり、多くの支持者をえた仏教者です。妹の武子は親が生まれる前から決めていた九条家に輿入れして、九条を名のるのですが、時雨は「武子さ
んはついに女を見せることを嫌ったのだ」と書いています。
 残したのは「聖女」のイメージと歌集だけ。明治20年に生まれて、昭和3年に敗血症のために、深窓に閉じられたまま死んでいく。そういう人がいたんです。
 だから、どういう人だったかは、歌を読んで推しはかるしかありません。それ以外にほとんど情報がないんです。その歌も、なんとも切ない歌ばかり。『金鈴』『薫染』(くんぜん)『白孔雀』といった歌集がありますが、ちょっと拾って読みます。

  ゆふがすみ西の山の端つつむころひとりの吾は悲しかりけり
  緋の房のふすまはかたく閉ざされて今日も寂しくものおもへとや
  百人(ももたり)のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
  夕されば今日もかなしき悔いの色昨日(きそ)よりさらに濃さのまされる
  何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
  君にききし勝鬘経のものがたりことばことばに光りありしか
  ただひとり生まれしゆえにひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は

 3首目の「百人のわれにそしりの火はふるも‥」の歌については、『白孔雀』の巻末に柳原白蓮が、「この歌に私は涙ぐんでしまいました」と書いていました。吉井勇もまたこの歌に痛切な感動をおぼえたと綴っています。「ただひとり生まれしゆえにひとりただ」も凄い歌ですね。

 
ここにもあるとおり、白蓮は、15歳(数えで16歳)で子爵北小路資武と結婚しますが、それは愛のない、「わが十六の涙の日記」にほかならず「親を恨みし反逆者」の日々だったのです。一子をなしたものの、5年で破婚し、実家に戻ります。
当時の心境を彼女はこう歌います。
ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身

「蓮様(れんさま)」が、問題含みの転入生として朝ドラに登場したのが、この時期のことでした。それ以後のドラマの展開は、ほぼ史実を踏まえているようです。
その後、明治44年27歳の時、九州の炭鉱王と称された伊藤伝右衛門(朝ドラでは嘉納伝助)と結婚、大正4年に処女歌集『踏絵』を発表します。

踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前

誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥

ともすれば死ぬことなどを言ひ給ふ恋もつ人のねたましきかな

年経ては吾も名もなき墓とならむ筑紫のはての松の木のかげに


贅を尽くした、何不自由のないとも言える筑豊での暮らしぶりは、旧伊藤伝右衛門邸の様子からもしのぶことができます。しかし白蓮にとっては、この結婚生活は、心の満たされるものであったようです。

そのような中で、のちに社会運動家で弁護士でもあった宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)と出会い、決意の駆け落ち事件、世にいう「白蓮事件」を引き起こし、これがマスコミ各社のスクープ合戦となって一大センセーションを巻き起こします。
テレビドラマは、ただいまこのあたりを進行しているようですね。

天地(あめつち)の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きぬ

ひるの夢あかつきの夢夜の夢さめての夢に命細りぬ

当時、明治憲法下では、「姦通罪」の定めがありました。姦通は,妻が行った場合は,夫の告訴によってその妻と相手の男とが処罰されますが,夫が行った場合は,その相手が人妻でない限り処罰されませんでした。男尊女卑の時代の反映でした。
従って、二人の駆け落ちという決断は、いわば命がけの行動と言えました。
最終的には、伝右衛門は告訴することなく、離婚を認め、白蓮は龍介との間に一男一女をもうけ、安らぎの家庭を得る事ができたそうです。

その白蓮を襲う思いがけない悲しみについては、また、朝ドラの展開とあわせて、話題にするかも知れません。

今日はここまで。
ごきげんよう



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