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なんと言っても峠三吉でした。 [私の切り抜き帳]

8月にちなんで、原爆にまつわる作品を、いろいろ取り上げてきましたが、なんと言っても筆頭に話題にすべきは峠三吉でした。
ただ、この人に触れようとすると、一言では終わりそうにないので、後回し後回しになってしまいます。

まあ、そうはいっても、研究論文を書くわけではないですからね。気軽に、思いつくまま、書き散らすことにしましょう。

まずは「原爆詩集」から。引用は青空文庫版によります。
この詩集には、このような冒頭文が添えられています。

 

一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


そして巻頭に置かれているのが、この詩です。

 



ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

広島市中区平和記念公園にはこの詩を刻んだ碑が建てられ、次の英訳が添えられています。

"Give Back the Human" Hiroshima Peace Park (August 6, 1963)
Give back my father, give back my mother;
Give grandpa back, grandma back;
Give my sons and daughters back.
Give me back myself,
Give back the human race.
As long as this life lasts, this life,
Give back peace
That will never end.



  八月六日と、まさしく今日の日付を冠した詩があります。

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧(お)しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂(さ)け、橋は崩(くず)れ
満員電車はそのまま焦(こ)げ
涯しない瓦礫(がれき)と燃えさしの堆積(たいせき)であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿(のうしょう)を踏み
焼け焦(こ)げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏(いかだ)へ這(は)いより折り重った河岸の群も
灼(や)けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光(かこう)の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠(へいきしょう)の床の糞尿(ふんにょう)のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭(いしゅう)のよどんだなかで
金(かな)ダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!




姿勢を正さずには読めないこんな詩の、凄まじいイメージの上にこそ、「にんげんをかえせ」の叫びの切実さがあり、「にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ」の訴えの重みがあるのでしょう。
続いてこの詩も、忘れることはできません。

仮繃帯所にて

あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち

血とあぶら汗と淋巴液(リンパえき)とにまみれた四肢(しし)をばたつかせ
糸のように塞(ふさ)いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう

焼け爛(ただ)れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶(くもん)の埃(ほこり)に埋める

何故こんな目に遭(あ)わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を

 不意の惨禍によって、「かつて娘だった、にんげんのむすめだった日」の平安、ささやかなしあわせを根こそぎ奪い去られてしまった女学生たちの、みずから言葉にできない思いを、代わりに声にし、語り、訴えるのが、彼の役目でした。

彼のまなざしは、原爆で多くを奪われた年取ったお母さんにも、温かくそそがれます。

としとったお母さん

逝(い)ってはいけない
としとったお母さん
このままいってはいけない

風にぎいぎいゆれる母子寮のかたすみ
四畳半のがらんどうの部屋
みかん箱の仏壇のまえ
たるんだ皮と筋だけの体をよこたえ
おもすぎるせんべい布団のなかで
終日なにか
呟(つぶや)いているお母さん

うそ寒い日が
西の方、己斐(こい)の山からやって来て
窓硝子にたまったくれがたの埃をうかし
あなたのこめかみの
しろい髪毛をかすかに光らせる

この冬近いあかるみのなか
あなたはまた
かわいい息子と嫁と
孫との乾いた面輪(おもわ)をこちらに向かせ
話しつづけているのではないだろうか
仏壇のいろあせた写真が
かすかにひわって
ほほえんで

きのう会社のひとが
ちょうどあなたの
息子の席があったあたりから
金冠のついた前歯を掘り出したと
もって来た
お嫁さんと坊やとは
なんでも土橋のあたりで
隣組の人たちとみんな全身やけどして
ちかくの天満川(てんまがわ)へ這い降り
つぎつぎ水に流されてしまったそうな
あの照りつけるまいにちを
杖ついたあなたの手をひき
さがし歩いた影のないひろしま
瓦の山をこえ崩れた橋をつたい
西から東、南から北
死人を集めていたという噂の四つ角から
町はずれの寺や学校
ちいさな島の収容所まで
半ばやぶれた負傷者名簿をめくり
呻きつづけるひとたちのあいだを
のぞいてたずね廻り
ほんに七日め
ふときいた山奥の村の病院へむけて
また焼跡をよこぎっていたとき
いままで
頑固なほど気丈だったあなたが
根もとだけになった電柱が
ぶすぶすくすぶっているそばで
急にしゃがみこんだまま
「ああもうええ
もうたくさんじゃ
どうしてわしらあこのような
つらいめにあわにゃぁならんのか」
おいおい声をあげて
泣きだし
灰のなかに傘が倒れて
ちいさな埃がたって
ばかみたいな青い空に
なんにも
なんにもなく
ひと筋しろい煙だけが
ながながとあがっていたが……

若いとき亭主に死なれ
さいほう、洗いはり
よなきうどん屋までして育てたひとり息子
大学を出て胸の病気の五、六年
やっとなおって嫁をもらい
孫をつくって半年め
八月六日のあの朝に
いつものように笑って出かけ
嫁は孫をおんぶして
疎開作業につれ出され
そのまんま
かえってこない
あなたひとりを家にのこして
かえって来なかった三人

ああお母さん
としとったお母さん
このまま逝ってはいけない
焼跡をさがし歩いた疲れからか
のこった毒気にあてられたのか
だるがって
やがて寝ついて
いまはじぶんの呟くことばも
はっきり分らぬお母さん

かなしみならぬあなたの悲しみ
うらみともないあなたの恨みは
あの戦争でみよりをなくした
みんなの人の思いとつながり
二度とこんな目を
人の世におこさせぬちからとなるんだ

その呟き
その涙のあとを
ひからびた肋(あばら)にだけつづりながら
このまま逝ってしまってはいけない
いってしまっては
いけない


 
そして、彼は、声を振り絞って真実の歌を歌うことを自らに課するとともに、うちひしがれて生きる意欲も萎えている被爆者たちに、「二度とこんな目を人の世におこさせぬ」ために、生き続け語り続けるよう励まします。

いまでもおそくはない

あなたのほんとうの力をふるい起すのはおそくはない
あの日、網膜を灼く閃光につらぬかれた心の傷手から
したたりやまぬ涙をあなたがもつなら
いまもその裂目から どくどくと戦争を呪う血膿(ちうみ)をしたたらせる
ひろしまの体臭をあなたがもつなら

焔の迫ったおも屋の下から
両手を出してもがく妹を捨て
焦げた衣服のきれはしで恥部をおおうこともなく
赤むけの両腕をむねにたらし
火をふくんだ裸足でよろよろと
照り返す瓦礫(がれき)の沙漠を
なぐさめられることのない旅にさまよい出た
ほんとうのあなたが

その異形(いぎょう)の腕をたかくさしのべ
おなじ多くの腕とともに
また墜ちかかろうとする
呪いの太陽を支えるのは
いまからでもおそくはない

戦争を厭(いと)いながらたたずむ
すべての優しい人々の涙腺(るいせん)を
死の烙印(らくいん)をせおうあなたの背中で塞(ふさ)ぎ
おずおずとたれたその手を
あなたの赤むけの両掌(りょうて)で
しっかりと握りあわせるのは
さあ
いまでもおそくはない

 



 峠三吉(とうげさんきち 本名みつよし)は、1917(大正6)年、大阪府豊中市に生まれ、幼い頃に広島に移ります。子供の頃から病気がちだった彼は、少年時代から詩や短歌、俳句などを作りはじめます。広島商業学校卒業後、肺結核で入院・療養をくり返す青春時代を過ごします

そのころの作品を少し見ておきます。

短歌
はるばると八重の潮路を吹きてくる南の風に海の香のあり(1939年 19歳)

浴衣縫う姉かそけくもひとりいて今宵の窓の月の清けさ(1937年 20歳)

若き命突撃にあまた散るときも雲は黙(もだ)しすぎゆくらんか (1937年 20歳)

花売りと父が話す声聞こえ寝覚めの痰を吐きに立ちけり (1938年 21歳)

元気を出せ元気を出せと兵隊の友は言いつつゆきて帰らず (1939年 22歳)
褪せ果てし小旗斜めに垂れ立てる戦士の墓を夕かげに読む(1940年 23歳)
肩抱だき髪かい撫でば堪え難し此の人を嫁(や)りて如何にか生きん!(1941年 24歳)
拷問に手足の爪を失うと噂されたる兄と入る風呂((1942年 25歳)
独りになりて心ゆく迄吐くべしと寝覚めの痰に身じろがずにいる(1944年 27歳)


俳句

春惜しむ宵や青磁の壺一つ
ゆすらうめ昔恋ほしと噛むべかり

血を吐いて氷山のにおい睡うなる

物言えぬままに死ぬのか霧は銀



 夏祭

汐の香が夜風にのってそっと
私しを誘ふ
月が窓からのぞいて私しの胸に
うす青い灯をともした、
ツルゲェネフは瞬間が永遠だといった
けれど、
 お月さま
あの時が私しの永遠だったので
せうか――
花火があがる、わたしはもう
長い間病んでゐる。
 

 

美しい日は去る

少年の日は去った、
少年の日は去った、
  コスモスの花の倒れるやうに――
  僕の頬の青ざめるやうに――

洋館の校舎には見知らぬ生徒が通ひ
 へう へう と、哀歓に鳴り渡るポプラ……
ぐみの実は凋み、ああこの川の水の冷たさ……

少年の日は去った、
少年の日は去った、
  銀の絃(いと)の錆びるやうに――
  血の色の褪るやうに――


 

夏の花


軟らかな 青い たそがれ、
紅づいた 石榴のたわみ枝(え)、
水に浸けた わたしの 指の白さに
われがちに寄って来る 金魚の中の一尾を
たなごころに重く のせるとき
頭の上の空は薔薇色に燃え初めます、
静かに 鮮麗な わたしの たそがれ――。
 樹蔭のアンターレスが南に廻り、白鳥座が追憶にそのうなじを
 伸すと、幾万光年の星雲を窺(のぞ)き
 木星がいくつかの月の無韻のロンドを観れば、
更けて おそろしい 人の世ではありませんか……
青い衣に、青い袖に、
私は寂び寂びと 神を祈るのです。


 原民喜だけでなく、峠三吉にも「夏の花」がありました。

心に

広葉いっぱいに 濡れて
ぱさと垂れた 雨の日の篠懸(すずかけ)を潜って
行く ときも
 心よ! 寂しがってはいけない、
一週毎に 此の並木を通った人の
深みどりの傘を 搏(う)ち触れたであらう
その同じ 枝葉であっても、

晴れた日 堤路を 歩みながら
対岸の街並みごしに
静かに
川面に影をつらねる
山脈(やまなみ)に 手翳す ときも
こころよ! 寥(さび)しがってはいけない、
山麓の 小家に住んだ人が
朝夕に 眸をやったであらう
その同じ 山容であっても、

 さあ! 心よ! 思ふのだ、
此の振り仰ぐ碧空は
踏みしむる土は、其の人のいまも現に
強く祟(たか)くと生きつつある土地、
幸ひを歌ひ降らしつつある
輝く碧空であることを!



 

繊細でもの悲しい、そして清澄で透明な叙情詩が、彼の持ち味でした。

 

戦後(被爆後)の作品にも、やさしく美しい叙情詩はときおり姿をあらわしています。

手紙

夕明かり み空に残り
貝殻の 雲は ちらばふ

しのびやかに ポストに 手入れ
祈るごと 放せば
かさりと 底に収る
わたしの 手紙

その時
海を越えた
向ふの 貴女の心の上に
かさりと
白い羽根が
重たく かさなる

わたしの 分身の
白い羽根が
重なる

もし被爆という事件がなかったら、峠三吉の文学はどのような花を咲かせたことでしょうか?
その彼は、1945(昭和20)年、28才の時、爆心地から3km離れた広島・翠町の自宅で被爆します。直接の傷は軽かったものの、親戚、知人を捜して市内を歩きまわったため、放射能被曝による原爆症で、入院します。この時の見聞を書き留めたことが

後の『原爆詩集』に生かされました。
1950年、国立広島療養所で、米トルーマン大統領が、朝鮮戦争でも原子爆弾使用の可能性と発言を聞き、原爆使用への抗議をこめて、療養所の一室で『原爆詩集(げんばくししゅう)』の25編の詩のうち、18編を書き上げたと言います。

『原爆詩集』は、1951(昭和26)年のドイツ、ベルリンで開かれた世界青年学生平和祭に送られ、反響をよびました。1952年(昭和27)年には、子供達の詩を集めた詩集、『原子雲の下より』を編集する場度、病気をおして奮闘しました。

1953(昭和28)3月10日、彼は、創作活動・社会活動に耐えうる健康な身体をとりもどすため、持病の肺の手術を決意します。国立広島療養所で挑んだ肺葉切除手術中は、しかし、成功せず、手術台上で帰らぬ人となりました。享年36歳でした。

私の本棚には、増岡敏和著『八月の詩人 原爆詩人・峠三吉の詩と生涯』という本があります。学生時代に読んだ本です。

八月の詩人―原爆詩人・峠三吉の詩と生涯 (1970年)

八月の詩人―原爆詩人・峠三吉の詩と生涯 (1970年)

  • 作者: 増岡 敏和
  • 出版社/メーカー: 東邦出版社
  • 発売日: 1970
  • メディア: -


 

人間として、芸術家として、社会運動家としての峠三吉の実像を、実資料にもとづいて克明に浮かび上がらせた労作です。

改めて読み返してみますと、昔、私が鉛筆で印をほどこしている部分がありました。闘病に明け暮れる青年前期の頃の日記です。

人世は厳粛なものである。
渾身の勇をふるって自分の人生を創造すべきものである。自分の一生はもう駄目だ、まあこの次に生まれた時はうまくやるさ、等とは冗談にも言うべき言葉では無い。諦念的ヒロイズムに一時でも酔生することは許されるべきでは無い。
 
『あるがままの人生を認め、しかもそれを愛してゆく」というのは良い言い草には違いないが、それを看板にすることは間違いである。
人生は唯一のもの、荘厳極まるものである。総力を尽くして自分の人生を彫み、拓き、造らねばならない。
「病身」という事はこれに何の関係も無い。人間は長生きが目的で無い以上、自分の人生創造の戦いに何で「病気」が逃避の理由に出来ようか。
もしそれによって、人生行路開拓の途上に仆れたならば、それは戦死である。美しき凱旋である。ああ三吉よ、汝のコースをしんしんと測定せよ。然してりんりんと蹂躙に進め

 

その頃彼は、こんな歌を詠んでいます。

あるがままなる人生を愛せよというは負くるに似たる

 でも、病気の方はなかなかの強敵で

生きるというは虚しきものか一本の鉛筆を冬の雲に転がす

物言えぬままに死ぬのか雲は銀

などと、弱気になったりもする青春でした。

後に、被爆詩人、反戦・平和運動家としてその筆に全霊を傾けるようになってからの彼は、生きることに意欲を燃やします。

彼が座右においたのは「髪にそよぐ風のように生き、燃え尽くした炎のように死ぬ」(ルイ・アラゴン)という詩句や、「人間にあって一番大切なもの、それは命だ。それは人間に一度だけ与えられる。そしてそれを生きるには、当てもなく生きつづけてきた年月だったと胸を痛めることのないように生きねばならぬ。卑しいくだらない過去だったという恥に身を焼くことのないよう生き通さねばならぬ。そして、死にのぞんで、全生涯が、またいっさいの力が、世界で最も美しいこと、つまり人類解放のための闘争にささげられたといい切ることができるよう生きなければならぬ。」(「鋼鉄はいかに鍛えられたか」)というオストロフスキーの文章の一節だったそうです。後者は、彼自身が筆書きで病室の壁に貼っていた文章だと言います。

二年前には五分五分といわれた手術の成功率が、1953年には七分三分に向上したという時点で、彼は、七分の成功率に賭けて、果敢に手術を受けたのです。その決意を、仲間のひとりに「一年に二度も三度も喀血し、貧しい友らの輸血を貰い、貧しい友らのカンパを貰い思うように詩も書けず、十年おびえて生きのびるより、科学を信じて肺摘を受け、健康をかちとる生き方こそいまの僕らのものではないか」と語ったと言います。
しかし、十四時間もの奮闘も適わず、手術台上で彼は息を引き取ったのです。

まさしく彼の愛した、「髪にそよぐ風のように生き、燃え尽くした炎のように死ぬ」(ルイ・アラゴン)という言葉通りの人生だったといえるでしょう。彼は若くして逝きましたが、彼の作品は、今もなお、輝きを失うことはありません。


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