多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻 [今日の暦]
NHKの朝ドラ「マッサン」で、息苦しい戦争の時代のやりきれなさが極まっていきます。前回の「花子とアン」同様、またまた官憲・特高の傍若無人の暗躍が、市民のささやかな幸せを踏みにじっていきます。
スコットランド生まれの妻エリーへの迫害は、戦時の偏狭な排外主義の愚かさを際だたせますが、でも、21世紀の現代の「ヘイトスピーチ」を頂点とする差別主義・排外主義の論理と、あまりにもそっくりですね。
ところで、意に染まぬものを強圧によって押しつぶし排除しようとする権力が、歯止めを失って暴走する時、どんな信じられないことが起こりうるかということを、今日の地元紙「山陽新聞」のコラム「滴一滴」を読んで、考えさせられました。
い/どこへ行っても泣かれない/ああ、でもラジオで少し助かる/ああ、涙が出る/眼鏡がくもる〉▼29歳で非業の死を遂げた息子を思い、母が書き残した詩だ。作者は小林セキ。「蟹(かに)工船」で知られる作家小林多喜二の母である▼プロレタリア文学の旗手と呼ばれた多喜二は、1933年2月20日、東京で特高警察に捕まり、拷問を受けて絶命した。治安維持法のもと、思想や言論を理由に拘束され、命まで奪われた。この国で、82年前に起きた出来事だ▼多喜二と親交のあった作家志賀直哉がセキにお悔やみの手紙を送っている。「不自然な御死去の様子を考え、アンタンたる気持ちになります」。まさに暗澹(あんたん)たる時代だった。その年、日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラー政権が誕生した。世界は戦争へと向かった▼終戦まで、遺族は多喜二の名前すら口にできずに耐え忍んだ。戦後、セキが語っている。「思想も、言論も、出版も、結社もすべて自由になって…何というありがたいことでしょう」(「母の語る小林多喜二」新日本出版社)▼戦後70年。多喜二の名前は知っていても、その最期を知らない人は多いのではないか。時代を決して後戻りさせてはならない。心に刻む多喜二忌である。
今日は多喜二忌です。
私のブログでも、去年のこの記事で、これに触れ、昭和の終わりの頃、昭和天皇の「大喪」が話題になっていた頃に、私が高校生向けに書いた学級通信を引用しました。
「凍雪(いてゆき)のなお屋根覆う多喜二忌か」と題するこの記事、その日を2月20日だと思い込んで、2月10日付で書いたというのは、オソマツ至極でした。
長くなりますが、再度一部を引用しておきます。
ほんとうに この二月とゆ月
いやな月 こいを いパいに
なきたい どこい いても なかれ
ない あー ても ラチオで
しこし たしかる
あー なみたか てる
めかねかくもる
一九六一年、八八才で亡くなった小林セキさんの遺品の中から、上のようなたどたどしい鉛筆がきの、一枚の紙片が見付かった。解読すると、次のような意味になるのだろう。
ああ、またこの二月の月が来た
本当に、この二月という月が、
いやな月、声を一杯に泣きたい
どこへ行っても泣かれない
ああ、でも、ラジオで 少し助かる
ああ、涙が出る
眼鏡が曇る
小林セキさんとは、「蟹工船」などで知られるプロレタリア作家、小林多喜二のお母さんだ。読み書きのできない小作農の娘として育ったセキさんは、五七才の
手習いで、「いろは」から字を習い始めたという。一九三〇年“治安維持法違反”で投獄された我が子・多喜二に、自分で手紙を書きたい一心で。
翌三一年、出獄後に書いた作品「独房」の中で、多喜二は、主人公にこう語らせている。
「俺達はどんなことがあろうと、泣いてはいけないそうだ。どんな女がいようと、ほれてはならないそうだ。月を見ても、もの思いにふけってはいけないそう
だ。母親のことを考えてメソメソしてもならないそうだーーー人はそういう。だが、この母親は、俺がこういう処に入っているとは知らずに、俺の好きな西瓜を
買っておいて、今日は帰って来る、明日は帰って来るといって、食べたがる弟や妹にも手をつけさせないで、しまいにはそれを腐らせてしまったそうだ。俺はこ
こへ来てから、そのことを小さい妹の、仮名交じりの、でかい揃わない字の手紙で読んだ。俺はそれを読んでから、長い間声を立てずに泣いていた。」
治安維持法を振りかざす天皇制政府・軍隊・警察権力は、「国体」の変革、すなわち絶対主義天皇制から民主主義への変革の志向を“最悪の罪”とみなして、死
刑を含む重刑と凶悪なリンチによっていっさいの民主的・進歩的運動と言論の封殺をはかった。(そして、その歩みの先には、無謀な侵略戦争が待ち受けてい
た。)
この弾圧を逃れるため、地下活動(非公然活動)に入って執筆活動を続けていた多喜二は、詩人今村恒夫と共に特高警察に捕らえられた。そし
て、激しい拷問によってその日のうちに殺害され、変わり果てた姿となって母親と再会することになった。一九三三年二月二〇日のことだった。
検察当局は、死因を心臓麻痺と発表。遺体の解剖を妨害し、二二日の通夜、二三日の告別式の参会者を片端から検束し、火葬場まで警戒を解かなかった。通夜に
供えの花をもって行き杉並署に検束された作家・宮本百合子は、「(小林多喜二のところへ来た人達で)留置場は一杯になっていた。少なくとも、女の室は満員
だった」と記している。 遺体のひきとりから葬儀の一部始終に立ち会った作家・江口渙は、通夜の席でのお母さんの姿を、次のように書きとどめている。
「こみあげてくる悲しさに耐え切れなくなったものか、お母さんは、小林の顔や髪になおも涙を落としながら、抑えきれない心の悲しみを、とうとう言葉に出して訴える。
『ああ、痛ましや。痛ましや。心臓麻痺で死んだなんて嘘だでや、子供のときからあんなに泳ぎが上手でいただべにーーーー心臓麻痺なんて、嘘だでや。嘘だで
や。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて、いきがつまって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべか。いきのつまるのが、いきのつまるの
がーーーああ痛ましや。』
お母さんはなおも小林多喜二のからだを抱きかかえてはゆさぶり、また揺さぶっては抱きかかえる。そして、あとからあとからあふれでる涙に顔を一面ぬらしながら同じ言葉を訴えていたが、突然、
『これ。あんちゃん。もう一度立てえ!皆さんの見ている前でもう一度立てえ!立って見せろ』と前身の力をふりしぼるような声でさけんだ」
それから、三十年近くも、毎年毎年、二月が来るたびに、眼鏡を曇らせて悲しみにくれた老母の無念を、私は思わずにはいられない。ああ、またこの二月の月が来た。
奇しくも今年の二月、しかも多喜二忌の直後に、昭和天皇の「大喪」とやらが、百億円の巨費を投じて国家的行事として催されると言う。数十万人にのぼる治安維持法犠牲者、そして、無数の多喜二の母たちにとっては、複雑な思いの二月となることだろう。
今日のもう一つの話題は、同じく治安維持法の犠牲となった文学者槙村浩のことです。
「北の小林多喜二、南の槙村浩」と呼ばれました。
2012年5月12日付の朝日新聞高知版を紹介したWEBページにこんな記事がありました。
なお反戦の信念を貫き、精神と肉体を患って26歳で逝った。長い間、故郷高知にさえ忘れられた存在だった。6月1日の生誕100年を前に、その足跡をたどった。
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高梁(かう・りゃう)の畠(はたけ)を分(わ)けて銃架(じう・か)の影(かげ)はけふも続(つづ)いて行(ゆ)く
銃架(じう・か)よ、お前(まへ)はおれの心臓(しん・ざう)に異様(い・やう)な戦慄(せん・りつ)を与(あた)へる――血(ち)のやうな夕日(ゆふ・ひ)を浴(あ)びてお前(まへ)が黙々(もく・もく)と進(すす)むとき
お前(まへ)の影(かげ)は人間(にん・げん)の形(かたち)を失(うしな)ひ、お前(まへ)の姿(すがた)は背嚢(はい・のう)に隠(かく)れ
お前(まへ)は思想(し・さう)を持(も)たぬたゞ一箇(こ)の生(い)ける銃架(じう・か)だ
(「生ける銃架」から)
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兵士を、銃を立てかけておく「銃架」にたとえたこの詩は、満州事変翌月の31年10月に作られた。槙村が通った高知市立第六小学校の隣にあり、戦時中の資料を展示する「平和資料館・草の家」(升形)館長の岡村正弘さん(75)は「戦争は人間を魂のない存在にしてしまうというのがこの詩の意味だと思う。槙村は鋭い感性で市民にとって戦争とはなにかという本質を見抜き、告発した」と話す。
同館では、槙村の写真や詩集など約40点も並べる。高知の平和運動の旗手だった初代館長の西森茂夫さん(2004年没)の「遺言」だった。西森さんは亡くなる前、病床で岡村さんの手を握り、こう繰り返した。「槙村浩をやってくれ。人に知られちゃせんきに」
草の家の学芸員、藤原(ふじ・はら)義一(よし・かず)さん(65)は、大学1年のときに槙村の詩集に出あい、「詩で戦争に反対した人がいた」ということに驚いた。そして、「槙村みたいに生きなければと思い、人生が変わった」という。在学中はベトナム反戦運動に参加。5年前の退職を機に、槙村が通いつめた県立図書館などで高知の戦争中の軍事施設について調べている。
図書館の北隣、県立文学館の学芸課長津田加須子(か・ず・こ)さんは、「槙村の詩は気持ちを率直に書いている。いま読んでも、時代状況や心の葛藤が分かりやすい」と解説する。今夏から、槙村の原稿も常設展示する予定だ。
映画会社「四国文映社」代表の馴田(なれ・た)正満さん(64)は大学時代、先輩に連れられて槙村の墓を訪れた。「厳しい弾圧下でも自分の生き方を通した姿勢に共感した」と振り返る。
墓は平和町の丘の中腹にあるが、戦後長く忘れられていた。同郷の作家・土佐文雄が槙村の生涯を描いた小説「人間の骨」(66年)は、土佐が鎌を手に林に入り、槙村の墓を探す場面で始まり、「孤独に耐えていた彼の墓をついに見出し」「私の目から涙がふきこぼれた」と記す。関係者らの手で69年に建てられた墓碑には、「反戦革命の詩人 槙村浩墓」と刻まれる。
槙村の代表作は、長編詩「間島パルチザンの歌」(32年3月)だ。中国東北部の朝鮮族が多い地域で抗日運動をする朝鮮人の思いを歌う。
おゝ
蔑すまれ、不具(かたわ)にまで傷づけられた民族の誇りと
声なき無数の苦悩を載せる故国の土地!
そのお前の土を
飢えたお前の子らが
苦い屈辱と忿懣(ふん・まん)をこめて嚥(の)み下(くだ)すとき――
お前の暖い胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
うなだれ、押し黙って国境を越えて行くとき――
お前の土のどん底から
二千萬の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!
この詩の碑が城西公園に立つ。槙村を慕う市民が73年に製作したが、建立できる場所が見つからず、浦戸湾に近い高知市横浜に長く置かれていた。現在地に移されたのは89年のことだ。公園は槙村が収監されていた高知刑務所の跡地でもある。
歌碑の建立や移設にかかわった詩人で「槙村浩の会」会長の猪野(い・の)睦(むつし)さん(80)は、「長い間疎外されてきた槙村を市民の懐に抱かせてあげたくて、街の真ん中に移したのです」と言う。(竹山栄太郎)
◇槙村浩◇ 本名吉田豊道。1912年6月1日、高知市廿代町で生まれ、第六小学校4年のとき、その博識ぶりが地元紙に「天才児」と取り上げられ
た。旧制海南中学校では軍事教練に反対。白紙答案を出す運動を束ね、放校された。20歳を前に本格的に詩作を始め、社会主義運動にも参加。32年4月に治
安維持法違反で逮捕され、3年2カ月の獄中生活を送った。非転向のまま出所したが、獄中で患った拘禁性の躁鬱(そう・うつ)病と食道狭窄(きょう・さく)
症がもとで、38年9月3日に亡くなった。
槙村浩について、私は、昨年12月24日のこの記事で、「槙村浩については、また、別の機会に触れたいと思っています。」と書きました。この約束の実行を何度か試みましたが、いつも挫けて、先延ばししてきました。
今日は少しだけ、書いてみたいと思います。
まず、上記のWEBページの引用記事や、私の前回ブログ記事とも重複しますが、 槙村浩とはこんな人でした。
槙村浩は、明治末の1912年に土佐の高知市に生まれました。幼少期は、3歳のときに医学書をすらすら読む、小4の時、『支那論』を書き、高知を訪れた後続の久邇宮邦彦に「アレキサンダー大王」について御前講義を行う、文部次官が来高してテストをして中学3年の学力があると評したなど、神童・天才ぶりを示す数々のエピソードが残っています。
彼は私立土佐中学へ2年飛び級で入学しますが、そこで体育の時問に先生と衝突して、海南中学校へ編入学します。ここでも軍事教練の学科試験に白紙答案をだすなど、軍事教練反対運動を組織し、放校になります。そのため、岡山の私立関西中学校へ転校し、そこを卒業しています。
関西中学校を卒業して高知に帰郷後、詩作を中心にプロレタリア文学運動に参加し、あわせて労働運動・反戦運動を続けますが、これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去しました。享年26歳でした。
NET検索してみますと、上で引用したweb記事出紹介されている 「草の家の学芸員、藤原(ふじ・はら)義一(よし・かず)さん」が、ご自身のブログのこの記事に、槙村浩関連のネット記事へのリンク集を作っておいでです。勝手に紹介させていただきます。
さっき触れた昨年12月24日のこの記事にも書いたとおり、高知のN先輩からのお便りにより、高知市にある「草の家」が、昨年秋に「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」を発行されたことを知り、お願いして先だって手に入れました。
ちなみに、下の画像は、「草の家」ホームページに紹介されている第9号の写真です。
手元に届いた冊子「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」では、上の藤原義一さんも、それからわが先輩Nさんも、また、別の先輩Mさんも、それぞれ別の角度から槙村浩に光を当てる文章を寄せておられます。
冊子が配達されて、ぱらぱらと斜め読みをしているちょうどその日の夜、愛知に住む古い友人のI君から電話をいただきました。
I君は、学生時代、同じ学科、同じ専攻の一年下で、なんと、当時私の間借りしていた下宿の、隣室に入居してきて、当時ご存命だったお父様と一緒に「引っ越し挨拶」に私の部屋を覗かれたのが最初の出会いでした。
部屋には個室のバス・トイレはもとより、共同の風呂もなく、トイレは母屋のものを共同使用、洗濯機も共同使用、台所も、冷蔵庫も、エアコンも、テレビも、電話もない、「シンプル」そのものの、昔ながらの下宿生活でしたが、それ故、ある種の共同生活に似た親密な交際が始まりました。
これを綴れば、世にあるいろいろな「青春記」の上を行く、愉快でペーソスを帯びたスリリングなドラマが生まれるはずですが、それはまたの機会に譲ります。
同一下宿での共同生活は一年ほどで終わり、それぞれに別の下宿先やアパートに引っ越しましたが、大学・私生活を問わず、濃密な交友が卒業まで続きました。
卒業後は、住む場所も仕事も隔たって、彼は、学術書を中心とする出版業の中心的役割を得て奮闘を重ね、今は退職生活に入っています。何年かに一度、同窓会のような場で出会うレベルの頻度でのおつきあいですが、一瞬で当時に戻ります。
最近では、去年の11月、この記事で書いた出会いを楽しんだばかりです。
その彼からの、突然の電話の要件は、たまたま、 槙村浩と『ダッタン海峡10号』についてでした。
そして、きっといつか、高知市平和町の墓所にお参りをしたいねと約したことでした。
今日はここまでとし、またの機会に続きを書きたいと思います。
昨日は雨水。少し寒さの緩んだ岡山後楽園を歩いてみました。
早じまいの仕事帰りですので、入園したのが4時過ぎでした。すると園内放送が、「当園の開園時間は、午後五時までです。」と、繰り返し放送しています。慌ただしい散歩でしたが、うっすら汗ばむ心地よさでした。
雨水の日の岡山後楽園の椿 posted by (C)kazg
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雨水の日の岡山城 posted by (C)kazg
雨水の日の岡山後楽園のカルガモ posted by (C)kazg
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