春浅きかなしい雨のふるわいな [あれやこれやの知ったか話]
昨日までのぽかぽか陽気ではないけれど、厳寒の時期とは明らかに陽射しの具合が変わり、空気が緩んで来ました。
自動車運転中に、街路の桜がほころび始めているのが見えました。河津桜だと思います。
でも、車を停めて撮影する心の余裕はありません。
友人宅の葬儀会場に向かう途中でしたから。
そもそも、一期の別れは、誰であれ、やるせなく痛ましいものですが、予期せぬ突然のそれは、ご本人も、残された方々も、無念の思いが募ることでしょう。まだ若く、壮健な身であってみれば、なおさらです。
川崎の中学一年生の事件は、返す返すも、 その思いを募らせます。
私の友人(元職場の同僚)の奥様の場合も、まさにそれ。三人のお子さん達も、それぞれ成人を迎えられたとはいえ、まだまだお若い。
徒然草のこんな一節を思い出しました。
五月五日、賀茂(かも)の競べ馬(くらべうま)を見侍(みはべ)りしに、車の前に雑人(ぞうにん)立ち隔(へだ)てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、殊(こと)に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
か
かる折に、向ひなる楝(あうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡(ねぶ)りて、落ちぬべき時に目を醒ま
す事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひし
ままに、「我等が生死(しょうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる
人ども、「まことにさにこそ候(さうら)ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りに
き。
かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。 (四一段)
[現代語訳]
5月5日に、賀茂の競べ馬を見に行きましたが、牛車の前に群衆が立ちはだかって邪魔で見えなかったので、それぞれ車を降りて柵の側まで寄って見たが、格別に人が多く、人波をかき分けてそれ以上前に進めそうにもない。
そんなとき、向かいにある楝(あうち)=栴檀(せんだん)の木の上に登ったお坊さんがいて、股になった木の枝にひょいと座って見物していた。お坊さんはそ
の木の枝に取り付きながら、ひどく居眠りをしていて、今にも落ちそうな瞬間に目を覚ますということを、何度も繰り返している。見ていた人は坊さんのそんな
様子を嘲笑して「何という愚かものだ。あんな危ない木の枝の上で、安らかな気持ちで爆睡してることだ」などと言うのに、ふと思いつくままに、「私たちの死
も、まさにたった今やってくるかもしれない。それを忘れて、祭り見物で一日を過ごしている。我らの方が、いっそ愚かさがまさるというものだ。」と言った
ら、前にいる人たちが「まことにそうでございます。我らも愚かなものですわい。」と言って、みんなが後ろを振り返り、「ここに入りなさい」と、場所を空け
て、前列へ招き入れてくれた。
これくらいの理屈は誰でも思いつくだろうけれど、こんな時に不意に言われると、思いがけない気持ちがして心を打たれたのだろう。人間は、心のない木石ではないので、場合によって、いたく物事に感動することがあるものだ。
死は誰の身にも、目の前に迫っているかも知れないが、それを知らずに、瞬間の楽しみを求めているのが人間というものだと、苦笑いしながら兼好法師は言っているようです。去年の2月5日付のこの記事に、「されば、人死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」という兼好の言葉を引用したことを思い出しました。
生きている喜びを、楽しまなくっちゃね、、、、というわけです。
団地の中の公園で、孫が遊んでおりましたので、カメラをもって見物しました。
桜の枝に、ジョビ君が止まっておりました。
椿が花盛りです。
著名な梅園を訪ねなくても、団地内の公園で、梅見を楽しめました。
甘い香りがあたりに広がります。
お天気は、下り坂に向かうそうで、、、かなしい涙雨になりますね。
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