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防災の日に寄せて、の巻 [今日の暦]

九月になりました。
住井すゑさんの代表作「橋のない川」(新潮社)のハードカバー版が手元にあります。その第六部を手に取り、奥付を見ると、「昭和四十八年十一月十日印刷、十一月十五日発行、定価五百円」とあります。時代を感じさせられます。
「橋のない川」は、ご存じのように「部落問題」(同和問題)を正面から扱った小説で、高校時代に、島崎藤村の「破戒」などとともに、教師や、意識を持った級友などからも薦められた作品でした。
しかし、何につけても、人に薦められたものを、素直に受け入れることのない私ですので、なかなか読もうということにはなりませんでした。
そんなとき、今井正監督作品の映画「橋のない川」(第一部)が「ほるぷ映画」により制作され(1969年だそうですね。)、全国上映がすすめられました。学校近くの映画館(当時は、こんな田舎にまで映画文化が根づいていました)で上映されたものを、学校行事の一環として全校生徒で鑑賞する機会がありました。当時、私の通う高校でも、比較的熱心に取り組まれていた「民主教育」の一環として行われたものでした。
この映画鑑賞の前後にも、ホームルームでの学習や話し合いなどが行われたと思います。この課題に限らず、いろいろな人権問題、平和問題、社会問題、当時ホットな「沖縄返還」問題など、多彩な問題をテーマに、高校生自身の身の丈での「時事討論」なども、頻繁に行われていました。
HRの時間内におさまらず、次の授業の教科担任に、授業の時間をくださいと無謀なお願いに行き、認めてもらったこともありました。「牧歌的」「純真」「初心(ウブ)」「世間知らず」と、いろいろに批評されるかも知れませんが、同じ時代を生きる者同士としての信頼感が、生徒と教師、生徒同士の間に、確かに存在していた時代ではなかったかと思います。
私などは、ほかの級友達に比べても、自覚も薄く、気づきも遅い方でしたので、幼稚な、短絡的な、自分本位の、時には人を傷つけかねない意見などもよく口にしたものでした。しかし、それを、客観的・冷静にたしなめる意見をくれる級友もいて、ずっと後になってじわりと納得させられることもよくありました。
思えば、今では考えられないほど、伸びやかな、そして大らかな高校生時代だったかも知れません。もちろん、追憶特有の美化を含んでいることは間違いなく、それにふさわしく割り引いて考える必要はあるでしょうけれど。

 注 


当時、岡山県では、古い身分遺制に起因する半封建的な差別の解消をテーマとする教育を、「同和教育」とは呼ばずに、「民主教育」と呼称していました。「民主主義教育の一環としての民主教育」という位置づけでした。これは今も通用する的確な認識だったと思います。
ところが、岡山県教育委員会は、1983年、県下の教育関係機関あてに突如通達を発し、1950年以来続いてきたこの「民主教育」 の名称を、「同和教育」 に変更しました。(現在は、「人権教育」の呼称を使用)。
水面下では、一部運動団体の動きや政治的圧力があったようですが、現場にとっては寝耳に水の出来事でした。


全国的には、「同和教育」の呼称は問題ありとして「解放教育」と唱えるべきだとする立場の人びとが、岡山では「同和教育」の名称を強く求めて来たようです。ここからも問題は「名称」そのものではなく、行政を「屈服」させて、自己の方針・見解を思うがママに採用させる点に狙いがあったものと思われます。


この無理強いの「名称変更」問題は、教育の中でことさらに、「部落問題(同和問題)」の課題を肥大化させることにつながり、いろいろな差別問題や人権課題に優先させて特別視するものだという批判や懸念を呼び、実際に、少なからぬ混乱を教育の現場に引き起こしました。

「最大の人権問題」「一番重大な差別」「最も重要な教育上の課題」「人権問題の柱」が存在するということは、とりもなおさず、子ども達が直面する切実な人権問題のなかに、自ずと、「一番大事とは言えない」、「二の次に回してもよい」、「柱ではない」ような問題(そんなものがあるの?)を想定することになります。

生徒と教師が、身の回りの切実な人権課題を、わがこととして受け止めて、その発達段階に応じながら、精一杯解決の筋道を探る、また解決の力を身につけるという、優れて自発的・創造的・自己変革的な営みがはぐくまれてきた「民主教育」という場が、ほとんど部落問題(=同和問題)にのみターゲットを絞った、しかも、いわば、あらかじめ定められた模範解答の習得に重きを置いた、「対策的」な「心がけ教育」の色合いが濃くなりました。
人権課題のテーマを並べて、子ども達に、優先順位をつけさせるといった、大まじめな「実践報告」まで目にする始末でした。
一般に、「特別扱い」がまかり通る空間では、必ず言動に不自然な慮りや制約がつきまとい、それゆえ、自由な、本心からの「納得」が阻まれるという事態が起こりがちです。
教育現場では、「上から」示される、この方針への受け止め態度が、その教員の「従順度」「真面目度」をはかる指標ともされ、何かと窮屈な空気が、職場に流れたのも事実でした。


このような、無理強いの方策が長続きするはずもありませんし、しかも、本来、封建制の残りカスである身分遺制にもとづく部落問題(同和問題)は、社会の民主主義の成熟の度合いに伴って、解消の方向に進むのが自然です。すでに、「混住(=旧「同和地区」への、他地域からの人口流入や、またその逆の現象により、地区内外の隔てが薄らいできている)」、「通婚(つうこん)(=旧「同和地区」出身者と、地区外出身者との、隔てのない婚姻)」などが大きく進行するもとで、かつての部落問題(同和問題)の痕跡すら、大きく薄らいいる現況では、「(地区の子ども達は)依然として厳しい差別にさらされている」というテーゼ自体、現実味を失ってきています。
そのようなわけで、すったもんだの挙げ句に強制された「同和教育」の呼称は、今は、素知らぬ顔で「人権教育」に改称され、まずまずのおさまりどころにおさまっているといえます。
しかし、この経緯の中で、失われたものは、どんなに大きかったかと、秘かに思っているのは、私だけでしょうか?

ラストシーンが一瞬カラーになるほかは、全編モノクロの、テーマ、表現ともにシリアスなこの映画に、私は、思いの外「暗い」印象は持ちませんでした。ほとばしるヒューマニズムと、繊細・鋭敏な感性が、作品の隅々にみなぎっているせいでしょうか?この映画作品に強く打たれて(日記にそんなことを書いていま
す)、以後、私は、原作作品を続けて読みました。
当時、作品は、雑誌「部落」に連載中で、一部分が刊行されていただけでしたが、続編が新たに出版される度に、学校帰りに立ち寄る書店で買い求め、読み浸りました。
いわゆる「受験生」であった頃に、その自覚を放擲したかのように、何度も繰り返して読んだ本の一つですので、思い入れもひとしおのものがあります。
映画「橋のない川」(第一部)については、過去の、「大雨の中を嬉しき宅急便」や、「お名前は? お玉?お筆?八重?杏?」などの記事で、話題にしました。
この「大雨の中を嬉しき宅急便」の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。

懐かしいポスターです。
大学に入学仕立ての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
Kさんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。

余談はさておき、「端のない川」第六部は、こんな書き出しで始まります。
絹雲

 絹雲―。それが秋を呼ぶのか.それとも秋の季が絹雲をよびよせるのか?ともあれ、盆地の空北から南に悠揚と流れるその雲の、肌(はだえ)の白さ、つややかさ。絹雲といわれるのもさこそである。
「な、おふで。」
呼びかけながらぬいは腰をのばして、
「まあ、ちょっと見てみ。」
「なんでっか?」
「あの雲や。あの雲の美しいゆうたら・・・・・・。」
「ほんまに・・・・・・。」
応えながらふでもやはり腰を伸ばして、
「もうすっきり秋でんなア。」
「そうやがナ。」
ぬいは深々とうなずいた.。秋――。ぬいも実はそれが言いたかったのだ。
中略
「なあ、おふで。」と、ぬいはあきらかに笑いを含んだ声柄で、
「わい、こうやって天(そら)、見てるとな、天(そら)、てなんちゅう不思議なもんやろかて、ようけに不思議が深うなるね。総糧、春には春の雲がうまれてきよるし、夏に放つの雲が湧いてきよるし、秋にはああして秋の雲が渡ってきよるんやものなア。」
思いはふでもおなじだった。ふではかむった手拭の端から、あらためて絹雲の流れに瞳(め)をやった。
中略
「お姑(かあ)はんは、大地(つち)は生き物やて、いつかて言うたはりますわなア。」
「あ。」
ぬいは頤を引いた。ぬいもまたあらためて絹雲を見やった。
ふでは少し急き込み口調に、
「大地(土)が生き物やとしたら、天(そら)かてやっぱり生き物とちがいまっしゃろか?」
「なるほど。」
「生き物やとしたら、春、夏、秋、冬とそれぞれに向いた雲が、うまれてくるの、あたりまえかもしれまへんわなア。」 

奈良盆地に囲まれた農村部落「小森」が作品の舞台です。
前述の「お名前は? お玉?お筆?八重?杏?」の記事に、こう書きました。
 お筆さんというと、 住井すゑ「橋のない川」で、少年主人公誠太郎、孝二を女手一つで育てる若き戦争未亡人の名前でした。
映画(今井正監督作品)では 長山藍子さんが演じました。健気さいっぱいの原作に比べると、おっとりした感じのお母さんですが、暖かい持ち味が出てました。
何よりも、北林 谷榮さん演じる祖母「ぬい」の存在感は圧倒的でしたね。

そういえば、作者住井すゑさんの夫、犬田 卯(いぬた
しげる)さんは、農民運動家・農民作家として知られる方であり、住井さん自身、茨城県牛久村で執筆と農耕自給の生活を続けられただけに、四季の移ろいを、自然の一員として感じ取っておられるその描写は、作品に独特の詩的な魅力を添えています。
彼女らが、小森盆地の秋をこのように慈しんでいたのは、1923年(大正12年)の秋のことでした。
その年の9月1日、東京を襲った関東大震災は、小森の人々の上にも様々な運命をもたらします。畑中家の隣人志村かねの娘はるえも、その一人でした。
はるえは、一度、岡山生まれ(!)の一般男性と祝福理に結婚していました。母かねは、予想される出身への差別を避けようと、はるえとの親子の縁を切るという方法をとりましたが、結局は差別が元で離縁されます。自暴自棄になって東京に流れて暮らすはるえを受け入れてくれたのは、朝鮮出身の夫でした。間に子どもも生まれて、貧しいながら幸せな生活を送っている矢先、関東大震災に遭遇します。
震災直後、「朝鮮人が暴動を企てている」とか「井戸に毒をまいて
いる」などの流言飛語が飛びかうなかで、在郷軍人や青年団を中心に各地に結成された「自警団」などが、竹槍や鳶口をもって朝鮮人を襲撃するという事件が続発していました。はるえの夫も子どもも、これにまきこまれ、他の仲間たちと共にいのちを奪われてしまいます。はるえは、命からがら、東京から逃れ、一度は捨てた故郷「小森」に帰郷してきたのでした。

今日、九月一日は防災の日。一昨年の「災難は忘れた頃か秋の雨」の記事で、震災忌についての記事を書きました。また、去年の今日は、農作業もならず横たう二百十日で、二百十日について書きました。
今日は、それに付け加えて、震災直後の朝鮮人襲撃・虐殺事件に触れてみました。いわゆる「ネトウヨ」や、「ヘイトスピーチ」のお仲間方、つまるところ、アベさんはじめ、「日本会議」の流れにシンパシイを覚える方々は、例のごとく「朝鮮人虐殺はなかった」「仮にあったとしても、ごく少数だった」などと言いつの
り、教科書検定にまで無理し衣に反映させようとしています。
exiteニュースの4月8日付けのこの記事は、こう指摘しています。
 中学社会の教科書が教科書検定の結果、あまりにも政府の見解を尊重しすぎて歴史修正主義に陥っていると批判が噴出しています。詳細は以下から。
中略
また、関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺事件については、これまで虐殺された人数は「数千人」とされていましたが、通説的な見解のないことが明示されていな
いことを追加するように要求。また、大日本帝国の司法省の発表した230名余という数字が掲載されたケースもあります。

ただし、この司法省の230人余という数字ははあくまで立件された朝鮮人殺害事件、53件の死者数の合計に過ぎず、警察、軍隊、国民によって結成された自警団によって殺害された朝鮮人の実際の人数と比較できるものではありません。
通説はないとしながら単に立件された殺害事件の被害者数のみを掲載するのは明らかに被害者数の全体像のミスリードであり、自らの虐殺の歴史を過小評価する歴史修正主義と批判されても致し方ないものです。


もう少し書きたいこともありましたが、今日はここまでといたしましょう。

9月1日は、子ども達の自殺が最も多い日だとか。わが家の孫たちは、夏休みの宿題もまずまずしあがったのが、元気に登校していき、もっと元気に下校してきました。まずはめでたいことです。

ここのところ、雨が続きます。

カメラ散歩は諦めて、家の中から写せるものでお茶を濁します。

pentax K5Ⅱ+ ミニボーグ最廉価の50アクロマートです。ひかりの加減によって、紫色の色ニジミが目立つ場合がありますが、レタッチソフトで パープルフリンジを除去すると、このレベルになります。マクロレンズ的な使い方もできて、面白いです。

庭のソバの花に、ヤマトシジミが止まっています。





カナヘビ君が、雨の中を散歩中。



雨粒を含んだネコジャラシ(エノコログサ)。





ブロック塀に止まるシオカラトンボ。





まだ色づく前のナンテンの実。









ナンテンの葉に転がる雨の雫。





雨を含んだ多肉植物。





名前が気の毒な「ヘクソカズラ」。へこまずに生きておくれ。





最後はいつもの朝顔です。



そろそろ、私も、アルバイトの仕事再開です。

ブログ更新が多少滞りますが、よろしくお願いもうします。
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majyo

高校時代に「破壊」を読み、意味がわからなかったワタシです
部落を単なる「村」と考え、なんで悩むのか?・・・・・・・・
そのまま大人になりました。
住井すゑさん、スゴイ方ですね。あのご年齢で
誰もが言えない事を書き、それを読んだことがあります。

私のところでのコメントで「逆差別」を書かれた方もいます
人権教育が大切ですね
関東大震災の「朝鮮人虐殺の碑」が国技館近くにありますが
今も、似たような風潮がある事に、本当にがっかりするし
これが人間の業なのだろうか?と悲しくなります

by majyo (2015-09-02 15:31) 

kazg

majyo様
> 今も、似たような風潮がある事に、本当にがっかり
人間の、弱い、醜い一面なのでしょうね。

by kazg (2015-09-02 19:06) 

johncomeback

「橋のない川」は高校時代に先生に奨められて読みました。
ストーリーはとても面白かったのですが、北海道に「部落」は
無いので実感は湧きませんでした。

by johncomeback (2015-09-02 20:33) 

kazg

johncomeback様
北海道出身の知人も、同じようにおっしゃってました。地方による特性がありますね。
by kazg (2015-09-03 20:58) 

momotaro

囲み記事の「注」は同感です。
朝鮮人虐殺については、10年ぐらい前でしょうか、知り合いのY先生が本を書きまして、余所事だと思っていたことが、当地でも起こったことを知りショックを受けました。
なかったことにするなど、とんでもないことです。
ヤマトシジミですか、私も数日前に携帯カメラに収めました。
by momotaro (2015-09-05 10:47) 

kazg

momotaro様
ありがとうございます。
> なかったことにするなど、とんでもないことです。
本当に、おっしゃるとおりですね。
ヤマトシジミ、「ありふれた」蝶ですが、可憐で、ついカメラを向けたくなりますね。

by kazg (2015-09-05 20:31) 

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