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イーハトーブのパクリです、の巻。 [私の切り抜き帳]

先日のこの記事に、momotaro様からありがたいコメントをいただきました。

 こちらをお訪ねするといつも驚きます。多様な生物に溢れているので。
海辺で山があるからなのでしょうが、まるで別世界です。
ふと、ナードサークとはどういう意味なのかなぁと思って検索してみました。するとずらっとこのブログ関連のことが出てきました。ということは、これは一般用語ではないのでしょうか。宮沢賢治の小説に出てきそうですが…
機会がありましたら教えてください、恥ずかしながらお尋ねします!

わたしの思わせぶりなブログタイトル「ナードサークの四季」の名づけに関して、興味を持っていただき、検索までしていただいたとのこと。恐縮至極です。
取り急ぎ、以下のコメントをお返ししましたが、あるいは、ほかの読者の方にも同様お手数をおかけするかも知れないと思い、再掲することにします。
> 多様な生物に溢れている
コメントいただいて、改めて思い至りました。日頃は有り難みに気づきませんが、ほとんど近隣エリアで、あれこれの生き物に会えるのは幸せなことです。
> ナードサークとは
お手間を取らせて申し訳ないです。全くのでっち上げの造語ですm(_ _)m ゴメンナサイ
ご推察の通り、宮沢賢治が岩手をモチーフに「イーハトーブ(イーハトヴォ)」という理想郷を想い描いたのにあやかって、わが居住地の地名をもじってみました。2003年頃から数年間、見よう見まねで作って遊んでいたホームページに、「ナートサークの四季」と名づけた写真コーナーを置いたのが始まりです。その後、「平成の大合併」のあおりで、もとの地名は消滅してしまいましたが、、、。
> 恥ずかしながらお尋ねします!
恥ずかしながらお答えしました(汗) 

上述のこのホームページには、宮沢賢治の作品「グスコーブドリの伝記」に関する紹介文を、載せていました。以前、高校生向けに書いたものをもとにしています。参考までに再掲させていただきます。

 
宮沢賢治というと、「注文の多い料理店」だとか、「風の又三郎」だとかの沢山の童話を思い出す人も多いだろう。また、彼の死後、発見された手帳にメモ書きしてあったという、次の詩も有名だろう。 
雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ怒ラズ/(中略)/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/東ニビョウキノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイイトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ/ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズクニモサレズ/サウイウモノニワタシハナリタイ
 この詩は、あの侵略戦争のさなか、「欲しがりません勝つまでは」のスローガンとともに、国民全体に犠牲と我慢を強要した戦争推進勢力によって、もてはやされ、利用されたが、それは、賢治の本意とは正反対のものだった。賢治は、「憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(烏の北斗七星)と考える人であって、戦争遂行のために、欲のない柔順な「デクノボー」であれと説教を垂れるような人間ではなかった。
 賢治のふるさと岩手は、北海道を除くと日本一の面積をもちながら、畑や田圃にできる土地は少なかった。山林が多く、それも大半が国家と皇室の所有だった。農家の平均耕地は50アール以下。農家でありながら米が食えず、生まれた赤子を“間引き”したり、娘を身売りする例も少なくなかった。
しかも、稲が実らぬ「寒い夏」が、たびたび発生し、数年に一度の割合で凶作に見舞われた。
 賢治は、この貧しい農村で、質屋と古物業を営む資産家の長男として生まれた。賢治が、物事をつきつめて考えず、与えられた地位に安住する人間であったなら、富裕な旦那衆のひとりとして悠々と人生をエンジョイ
することができたかもしれない。しかし、彼の知性と人生にたいするきまじめさは、貧しい農民の犠牲のうえに成り立っている宮沢一家の繁栄に無批判ではいられない。
 父親と対立しながら、みずからの意志で盛岡高等農林学校(今の岩手大学農学部)に主席入学し、科学的農業のありかたを学んだ彼は、助教授としての研究生活への薦めを断って、貧しい東北農民の幸福のために身を捧げる道を選ぶ。彼をつき動かしたものとして、熱心な仏教徒としての信仰心が指摘されるが、その背後には東北農民の貧困という現実への憤りと農民への共感があった。
 賢治は、その童話のなかで、岩手をイーハトーブ、盛岡をマリオ、仙台をセンダートなどと呼び、独特の世界を作り上げた。グスコーブドリは、イーハトーブの木こりの子どもで、ネリという妹がいた。ところが飢饉になって、ブドリの父も母も、子のために、自分たちは食物をとらず、森の中に姿をかくして死んでしまう。妹のネリも知らない男に連れ去られ、行方不明になる。
 残されたブドリは、大人たちにだまされたり脅されたりしながら成人し、クーボー大博士の信頼を得て火山局に努めることになる。老ペンネン技師に学んだ彼は、電気で肥料とともに雨を降らせるなど、農業の発展に貢献する。行方不明のネリとも再会でき、楽しい日々が訪れる。
しかし、ブドリが27歳のとき、またあの恐ろしい寒波がやってくるとの予報が出た。火山島を爆発させれば、空中の炭酸ガスが増え、気温を高めることができると、彼は提案する。しかし、そのためには最後の一人が島に残らねばならない。その役を買って出たブドリにクーボー博士は言う。
 「それはいけない。君はまだ若いし、いまの君の仕事にかわれるものはそういない。」 「私のようなものは。これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから」
63歳のペンネン技師が「僕がやろう」というのをふりきり、火山を爆発させて、ブドリは死ぬ。童話は、「そして、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で、楽しく暮らすことができたのでした」と結ばれる。
 賢治は、花巻農学校の教師として、数学・農業・化学・英語・気象・稲作実習など、国語以外のすべてを教え、農村青年と生活をともにした。彼は、単に授業をするだけでなく、よい音楽を聞かせ、西洋美術の複製を見せ、自分で作詞作曲したミュージカルをやらせたりもした。農業実習が終わると、川に行って泳ぐ、泳ぎ疲れると、賢治を囲んで、みんなが話を聞く。石や鉱物や、地質学や、鮎や魚の話。
 そんなとき、賢治は突然言った。「人間はなぜこの世に生まれたか?」
「私はこの問題を、こんな風に考えています。人間はなぜ生きるかということを知らなければならないために、この世に生まれてきたのです。そして、この問題を本気になって考えるか考えぬかによって、その人の生存価値が決定すると思います」
 賢治は、「わたくしにとって、実に愉快な明るいものでありました」という4年4カ月の教師生活に、別れを告げる。農学校に来れるのは、農民と言っても比較的裕福な自作農の子弟だ。大多数の農民は、無知のまま、貧困のまま放置されている。農業学校だけでは、この貧しい農村を豊かにできない。農民が百姓仕事を
しながら、芸術をも楽しむゆとりを持つにはどうすればよいのか。
 賢治は、自分自身農業に専念しながら、近在の農民に、肥料や稲作について無料で
指導する毎日を送ることになる。金持ちの息子の道楽と思われることを嫌った彼は、仕事に出るのはだれよりも早く、また、一人でもたの農民が残っていれば、その人が帰るまで、仕事をやめなかった。個々の農民の相談に応じて、2000枚もの肥料設計を書いてやった。菜食中心の粗食に耐え、時にはトマトを何個かかじるだけの日もあった。ついに、過労のため、結核になる。しかし、少し調子がよいと、畑仕事をしたり、農民の相談にのったりするから病気は治らない。
 一九三三年九月、急性肺炎の高熱をおして、板の間に正座して長時間の相談に応じたのがもとで、病状悪化し、生命を閉じる。三七歳だった。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)ー---賢治の信念であり、自らに課した戒めでもあった。
参考:戸石泰一エッセイ集「愛と真実」、吉村英夫「ワクワク近代文学八話」


文字ばかりの記事になっても困るので、終わりに「銀河鉄道の夜」の一節を引きます。
 赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に訊(き)きました。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」
「あなたはどこへ行くんです。」カムパネルラが、いきなり、喧嘩(けんか)のようにたずねましたので、ジョバンニは、思わずわらいました。すると、向うの席に居た、尖った帽子をかぶり、大きな鍵(かぎ)を腰(こし)に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑いだ
してしまいました。ところがその人は別に怒(おこ)ったでもなく、頬(ほほ)をぴくぴくしながら返事しました。
「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまえる商売でね。」
「何鳥ですか。」
「鶴や雁(がん)です。さぎも白鳥もです。」
「鶴はたくさんいますか。」
「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」
「いいえ。」
「いまでも聞えるじゃありませんか。そら、耳をすまして聴(き)いてごらんなさい。」
 二人は眼(め)を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧(わ)くような音が聞えて来るのでした。
「鶴、どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それとも鷺(さぎ)ですか。」
「鷺です。」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。
「そいつはな、雑作(ぞうさ)ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が凝(こご)って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、脚(あし)をこういう風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押(おさ)えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。」
「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか。」
「標本じゃありません。みんなたべるじゃありませんか。」
「おかしいねえ。」カムパネルラが首をかしげました。
「おかしいも不審(ふしん)もありませんや。そら。」その男は立って、網棚から包みをおろして、手ばやくくるくると解きました。
「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです。」
「ほんとうに鷺だねえ。」二人は思わず叫(さけ)びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架(じゅうじか)のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫(うきぼり)のようにならんでいたのです。
「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い瞑(つぶ)った眼にさわりました。頭の上の槍(やり)のような白い毛もちゃんとついていました。
「ね、そうでしょう。」鳥捕りは風呂敷(ふろしき)を重ねて、またくるくると包んで紐(ひも)でくくりました。誰(たれ)がいったいここらで鷺なんぞ喰(た)べるだろうとジョバンニは思いながら訊きました。
「鷺はおいしいんですか。」
「ええ、毎日注文があります。しかし雁(がん)の方が、もっと売れます。雁の方がずっと柄(がら)がいいし、第一手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしを揃(そろ)えて、少し扁(ひら)べったくなって、ならんでいました。
「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子(かし)だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋(かしや)だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、大へん気の毒だ。)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。
「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「ええ、ありがとう。」と云(い)って遠慮(えんりょ)しましたら、鳥捕りは、こんどは向うの席の、鍵(かぎ)をもった人に出しました。
「いや、商売ものを貰(もら)っちゃすみませんな。」その人は、帽子(ぼうし)をとりました。
「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の渡(わた)り鳥(どり)の景気は。」
「いや、すてきなもんですよ。一昨日(おととい)の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯(ひ)を、規則以外に間〔一字分空白〕させるかって、あっちからもこっちか
らも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから仕方ありませんや。わ
たしぁ、べらぼうめ、そんな苦情は、おれのとこへ持って来たって仕方がねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との途方(とほう)もなく細い大将へやれって、斯(こ)う云ってやりましたがね、はっは。」
 すすきがなくなったために、向うの野原から、ぱっとあかりが射(さ)して来ました。
「鷺の方はなぜ手数なんですか。」カムパネルラは、さっきから、訊こうと思っていたのです。
「それはね、鷺を喰べるには、」鳥捕りは、こっちに向き直りました。
「天の川の水あかりに、十日もつるして置くかね、そうでなけぁ、砂に三四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水銀がみんな蒸発して、喰べられるようになるよ。」
「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう。」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、尋(たず)ねました。鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、
「そうそう、ここで降りなけぁ。」と云いながら、立って荷物をとったと思うと、もう見えなくなっていました。
「どこへ行ったんだろう。」
 
二人は顔を見合せましたら、燈台守は、にやにや笑って、少し伸(の)びあがるようにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光(りんこう)を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手をひろげて、じっとそらを見ていたのです。
「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体(きたい)だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな。」と云った途端(とたん)、がらんとした桔梗(ききょう)いろの空から、さっき見たような鷺が、まるで雪の降るように、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞(ま)いおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片(かた)っ端(ぱし)から押えて、布の袋(ふくろ)の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍(ほたる)のように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事に天(あま)の川(がわ)の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや否(いな)や、まるで雪の融(と)けるように、縮(ちぢ)まって扁(ひら)べったくなって、間もなく熔鉱炉(ようこうろ)から出た銅の汁(しる)のように、砂や砂利(じゃり)の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についているのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
 鳥捕りは二十疋(ぴき)ばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾(てっぽうだま)にあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、却(かえ)って、
「ああせいせいした。どうもからだに恰度(ちょうど)合うほど稼(かせ)いでいるくらい、いいことはありませんな。」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣(とな)りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」
 ジョバンニは、すぐ返事しようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったというように雑作なくうなずきました。


鳥捕りがとって来た鷺というのは、これでしょうか?
これはダイサギだと思いますが、、。シラサギの仲間の区別が、うまくできません。

「まるで雪の降るように」というのですから、鷺の中でもシラサギの仲間なんでしょうね。「ちぢめて降りて来る黒い脚」を持つのは、チュウサギ?
コサギも脚は黒いが、足の指は黄色いそうですが。
この鳥捕りは、鶴も白鳥も獲物にするようですが、、、




いつ読んでも、うつつの世界を離れて、奇妙な感覚にとらわれる作品ですね。
特に、鳥捕りの存在は、摩訶不思議、、、です。
きょうはここまでです。


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otokomaeda

ナードサークは自分も疑問に思っていました。スッキリしました。
by otokomaeda (2015-11-01 00:42) 

kazg

otokomaeda様
いらざる「疑問」で悩ませまして、もうしわけありませんでした。m(_ _)m
by kazg (2015-11-01 08:07) 

majyo

今になってなんですが、後でじっくり読もうと思って
ブログを次にまわして行きますが
時々、忘れてしまいます
ナードサークとは造語でしたか
それもイーハートーブのような

私もお聞きしたいのですが
お名前の kazg さんは
ナントおよびしたらよいのですか? そしてその意味は?
by majyo (2015-11-03 09:44) 

kazg

majyo様
軽い冗談ででっち上げた造語で、皆様のお心を煩わせることになり、愉快です。イヤ、恐縮です。m(_ _)m
このブログを始めた頃は、gがついていませんでした。あるとき、たまたま、同じお名前の方に遭遇し、紛らわしさを避けるため、識別のためにgをつけました。gは、爺です。kaz爺さんと、お呼びください。(笑)
最近、アルバイト先の高校で、生徒が私に「おじいちゃん」と声を掛けます。ちょっと前、夜間高校に行ってた頃は、「お父さん」と呼んでくれたのですが、私も成長したものです。
by kazg (2015-11-03 10:50) 

momotaro

いつも途中邪魔が入って、なかなかniceまでたどり着けませんでした。
私の稚拙な質問を生かしていただき、ありがとうございました。
by momotaro (2015-11-04 09:38) 

kazg

momotaro 様
おかげさまで、言いたい放題が書けました。ありがとうございました。
by kazg (2015-11-04 10:59) 

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