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もう一つの11月3日、の巻 [今日の暦]



一日早く、11月3日にちなんだ記事を書きます。

11月3日といえば、年配の方の中には、明治天皇の誕生日を祝賀する「明治節」を思いつく方もおられるでしょうか。日本国憲法の申し子である、我々戦後生まれ世代は、この日が日本国憲法が公布された日であることをまず思い出し、それを記念して、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日として制定した「文化の日」を、大切にお祝いしている(はずです!!)。

今日の話題は、もう一つの11月3日。宮沢賢治が日記を書き付けていた手帳の、1931(昭和6年)11月3日付の記事に、こんな鉛筆書きのメモがありました。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

意味が取りやすいように漢字とひらがなを当て、現代仮名遣いに直してみます。
 「雨ニモマケズ」

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体をもち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照り(「日取り=日雇い」とする説もあり)の時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに木偶の坊と呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい


 賢治の生前には、この手帳の存在は家族にも知られおらず、死の翌年の1934年2月16日に新宿で開催された「宮沢賢治友の会」に、招かれた賢治の弟・宮沢清六氏が持参していた遺品の大きな革トランクのポケットから、偶然発見されたと言います。

その模様を、同席していた詩人の永瀬清子が、後に「この手帖がこの夜のみんなの眼にはじめてふれた事については疑いがないように私は思う」(永瀬清子「『雨ニモマケズ』の発見」<宮澤賢治研究11号>)と書き記しているそうです。

この事情は、ウィキペディアの記事などでも触れられていますが、ネット上に、岡山県の私立女子大学『ノートルダム清心女子大学』の、山根知子先生(文学部 日本語日本文学科教授)の文章(郷土岡山を愛した詩人永瀬清子―宮沢賢治、坪田譲治との関係をめぐって|山根 知子|日文エッセイ113)を見つけましたのでご紹介させていただきます。

永瀬清子さんといえば、我が岡山出身の女性詩人で、戦後、故郷の赤磐市で農業に従事するかたわら、詩作に励みました。一貫して女性の自立を高らかに謳い、人間愛にあふれる詩を旺盛に発表するとともに、世界連邦都市岡山県協議会事務局長代理などをつとめ、1955年、ニューデリーでのアジア諸国民会議に出席されるなど、社会活動にも取り組まれました。
戦前に東京で家庭を持っていた彼女は、まだ知名度の低かった賢治の作品についての「評論ノート」を、詩誌『麺麭』に発表するなど、早くから賢治に注目し、生涯、共感を寄せておられました。
生前の永瀬清子さんには、若い頃、一度だけお会いし、少人数で、お話をお聴きしたことがあります。教職員組合主催の、教育研究活動の一環だったと思います。
手元を探ってみますと、分厚い「永瀬清子詩集」(思潮社、1979年)がありました。なにげなくひもといてみますと、著者のサインがありました。そのいきさつはまったく記憶にありませんが、そのおりに頂いたものだったかもしれません。

永瀬清子詩集 (1979年)

永瀬清子詩集 (1979年)

  • 作者: 永瀬 清子
  • 出版社/メーカー: 思潮社
  • 発売日: 1979/06

もう一つ、脈絡のない話題を付け加えます。。
以前私が勤務した「玉野高校」の校歌は、永瀬さんの作詞になるものでした。
ささやかなえにしです。


ネット上に、玉野高校図書館のこんな記事を見つけました。参考までにご紹介します。

永瀬 清子 - 玉野高等学校



上述の山根知子先生(ノートルダム清心女子大学 文学部 日本語日本文学科教授)の文章(郷土岡山を愛した詩人永瀬清子―宮沢賢治、坪田譲治との関係をめぐって|山根 知子|日文エッセイ113)に、永瀬さんの「美しい三人の姉妹」という詩が紹介されていました。

永瀬さんが、岡山県の三大河川(東から吉井川、旭川、高梁川)を三姉妹に喩えて称えたその詩を、郷土出身の童話作家坪田譲治さんが、『少年少女風土記 ふるさとを訪ねてⅡ 岡山』(坪田譲治/編泰光堂,1959)に掲載しているそうです。

その詩の一部を引用・転載させていただきます。

吉井川よ

おまえはゆたかな髪をもった大きな姉のようだ。

おまえは落ちついて

長い長いみちのりを

曲がりくねりながら悠々とすすむ。





旭川のせせらぎは

知的な瞳の中の妹

二つのダムは白い城のようにそばだって、

湛えた湖のしずかさ重さ。





高い切り崖(ぎし)にはさまれた高梁川は

気性のいさぎよい末の娘。

奇(めず)らしい石灰岩のたたずまいに

白いしぶきが虹となる。





仲のよい岡山の三つの川は

三人のしなやかな娘

清らかな素足の姉妹。

いつも生きいきと唄っている自然のおくりもの。 


遠く故郷を離れた折など、はるか郷土を思う時、岡山人にとって、たしかに、この三つの川のたたずまいは、ひとしおの感慨を誘わずにはいない特別の存在でしょう。

おしまいに、永瀬さん八十一歳の時の詩「あけがたにくる人よ」を紹介します。
 あけがたにくる人よ  永瀬 清子
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
私はいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ

涙流させにだけくる人よ


『あけがたにくる人よ・1989年・思潮社刊』より

淡く、かつ熱い乙女の恋心のような、みずみずしい感性がほとばしります。

「ててっぽっぽうの声」とは、この鳥の鳴き声でしょうか?



























昨夜からの雨で、群と冷え込んだ一日でした。暖かくお過ごしください。

 
今日はここまで。


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ちょんまげ侍金四郎

私の女房殿の出身が岡山です。
ちなみに芳泉高校出身です。
何度か参りましたが、不思議に心落ち着く感じがしました。
by ちょんまげ侍金四郎 (2015-11-03 07:18) 

majyo

驚きました!
雨ニモマケズの詩は、賢治の手帳の11月3日に書かれたものですか
お名前借りていても、賢治の事をよく知っているわけではありません
色々なブログから知る事が多いのです。
今日は「アベ政治を許さない」を掲げる日の3日でもあるのです。
これも忘れていたのにブログで知りました。

by majyo (2015-11-03 10:05) 

kazg

ちょんまげ侍金四郎様
そうなんですか。
学校の近くは、しょっちゅう通りかかりますヨ。
by kazg (2015-11-03 10:22) 

kazg

majyo様
> 「アベ政治を許さない」を掲げる日の3日でもあるのです。
そうでした、そうでした。忘れていました。
by kazg (2015-11-03 17:53) 

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