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ひなせの詩歌 第三回 土屋文明の歌、の巻 [文学雑話]

日生にゆかりのある詩歌の第3弾です。
備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料プリント「日生の詩歌」には 土屋文明 の歌も数種載せられています。二首だけ紹介します。
 網底より 集めし籠の 雑魚さまざま
我が知るは銀寳 一尾孤独に

ままかりは鯯(つなし)の仔には あらぬこと
幾度も聞返す ままかり麗し
一首目「雑魚」は「ざこ」でしょうね。
「銀寳」、読めませんでした。というより、「寳」の文字が、老眼の目には字画が判断できません。魚類図鑑で「ギンポ」という魚を見つけました。漢字で「銀宝」と書きます。「宝」の旧字体は「寶」でしょうが、印刷されている文字とは異なるようです。ということで確かめてみると、異体字に「寳」がありましたから、これで良しでしょうね。
ウィキペディアには「ギンポ(銀宝)は、スズキ目に属する海水魚。
狭義には、スズキ目ニシキギンポ科ニシキギンポ属の一種 Pholis nebulosa の標準和名」とあります。

二首目「ままかり」は、岡山の名産品です故、ご存じのことでしょう。
ニシン科のサッパの地方名。名付けの由来は、あまりに美味くて食事が弾むので、お隣さんにご飯(ママ)を借りに行くという意味からとか。雑魚ともいえる小型魚ですが、おろして酢で締めても、焼いたり油で揚げて酢漬け、南蛮漬けにしても、おかず、肴として重宝します。
過去の記事、海見れば気鬱も晴れぬ針魚釣に、写真つきで紹介しました。


鯯(つなし)は、コノシロの若魚の呼び名ですね。
ウィキペディアから引用します。

 別名

成長段階に応じて呼び名が変わる、いわゆる出世魚の一つである。関東地方では4cm-5cmまでの幼魚をシンコ、7cm-10cmぐらいはコハダ、13cm程度はナカズミ、15cm以上はコノシロとなる。その他の地域での若魚の名前として、ツナシ(関西地方)、ハビロ(佐賀県)、ドロクイ、ジャコ(高知県)などがある。



土屋文明については、下記のwebサイトに詳しい説明があります。プロフィールを引用させていただきます。

土屋文明 | 群馬県立土屋文明記念文学館

 プロフィール
明治23年(1890年)~平成2年(1990年)

明治23年、群馬県西群馬郡上郊(かみさと)村(現・高崎市)保渡田(ほどた)の農家に生まれる。幼少期は伯父の家で育てられ、伯父の膝の上で講談を聞くなど貴重な体験をする。高崎中学在学中から文学を志し、蛇床子の筆名で俳句や短歌を「アカネ」「ホトトギス」に投稿する。中学の国漢教師村上成之が根岸派の歌人、俳人であることを知り、成之に師事し自然主義文学の目を開かれる。

卒業後、成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京、左千夫の家に住み込み短歌の指導を受け「アララギ」に参加する。その後、一高を経て東大に進む。一高、東大の学友には、山本有三、近衛文麿、芥川龍之介、久米正雄らがいた。東大在学中から芥川、久米らと第三次「新思潮」の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説、戯曲を書いた。


大正6年、「アララギ」の選者に加わる。大正7年から13年まで、島木赤彦の紹介により諏訪高女の教頭として赴任し、諏訪高女、松本高女の校長を歴任する。大正14年、第一歌集『ふゆくさ』を出版、歌壇の絶賛をあびる。以後、実感的、生活的、即物的な作風で多くの歌集を出版するとともに万葉集の研究にも
打ち込み万葉学者としての地位を確立する。昭和5年斎藤茂吉から編集発行人を引き継ぎアララギの指導的存在となる。昭和20年、戦災に遭い吾妻郡原町(現吾妻町)川戸に6年半の疎開生活を送る。この間、渓谷沿いの静かな自然の中で自給自足の生活を送りながら、『万葉集私注』の執筆、「アララギ」の復興、アラギ地方誌の育成などに精力的に活動した。

昭和28年、日本芸術院会員、38年、宮中歌会始召人、59年、文化功労者、61年、文化勲章を受章する。平成2年、肺炎及び心不全により100歳で死去。 群馬県名誉県民、群馬町名誉町民、東京都名誉都民。

主な著書に『万葉集年表』、『万葉集私注』、『短歌入門』、『ふゆくさ』、『山谷集』、『韮菁集』、『山下水』、『青南集』等がある。

戦後歌壇を牽引する歌人で、長年「朝日歌壇」の選者を務めた近藤芳美は、学生時代から「アララギ」に属し、中村憲吉と土屋文明に師事しました。その著『土屋文明』「短歌鑑賞篇」にこんな記載があります。

代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき       (昭和五年)
代々木野とは東京渋谷の代々木練兵場のこと。その練兵場の草原で、朝早く騎兵の一隊が演習をしている。馬をつらねながら一心な表情で訓練をうけている、みな若い、少年のような騎兵たちなのであろう。それを見ながら、作者は「戦争」ということを考えている。彼らの真剣な訓練は「戦争」と云う目的一つのためである。だが、「戦争」とは一体何なのであろう。
昭和五年という時点で、この土屋文明の、「戦争といふは涙ぐましき」と歌った言葉の意味は「アララギ」の彼の周辺でさえ理解されなかったらしい。ある歌会の席上で同人の一人高田浪吉が「こんな弱い心持ではいけない」などといった批評をし、それに文明が反論した文章が書かれている(「アララギ」昭和六年四月号「高田波吉氏の歌評に就いて」)。その翌年に満州事変がはじまる。やがて幾百万の日本の青年たちを死に追いやった戦争のかげが、すでにこの歌に不安な予感のように呟かれている。  
第三歌集『山谷(さんこく)集』に収められた歌です。
そして、第四歌集『六月風』では、二・二六事件をこのように詠んでいます。

暴力をゆるし来し国よこの野蛮をなほたたへむとするか

よろふなき翁(おきな)を一人刺さむとし勢(せい)をひきゐて横行せり

一つの邪教ほろぶるは見つなほ幾つかのほろぶべきものの滅ぶる時またむ

先日の新聞の写真の下等なるあの面は梟雄といふなるべし

軍部の暴走はとどまるところなく、国を挙げて戦争への激しい流れが勢いを増していく時代です。

 大陸主義民族主義みな語調よかりき呆然として昨夜(きぞ)は聞きたり

 

戦局が泥沼化するなか、国家総動員体勢の強化に向けて、1940年には政治分野では大政翼賛会、労働分野では産業報国会が組織され、文学分野でも「国家の要請するところに従って、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する」として、1942年、「日本文学報国会が発足します。
こうして、ほとんどすべての文学者が、「国策」としての戦争遂行に協力させられていき、土屋文明も、短歌部門の幹事長を務めるなど、戦争協力と無縁ではあり得ませんでした。
しかし、同じ「アララギ」派の先輩斎藤茂吉が、ほとんど疑いもなく、率直単純に「聖戦」遂行を讃美し鼓舞激励する「戦争詠」を数多く残しているのと比較して、土屋の視線は兵士やその家族の、一個人としての生活や思いへと注がれているように思われます。

 雪のある山より春の時雨来て練兵場に皆傘を立つ

いで行くに思ひ思ひのまどゐせり雨には妻と傘に入りたまへ

挙手をする君を別れて吾等去る廠舎には起る生徒の喇叭

いさぎよき君が歩みを見送りてたらの芽一つ吾はもぐかも


ですから、戦死者にたいして「名誉の戦死」と褒め称えるというわけにはいかないのです。

生徒なりし若き面かげ目に立ちてよすがも知らず南(みんなみ)思う



父や母やうつくし妻の仰ぐ中に永久(とは)なる国の命にぞ入る



波多野土芝いづくの海ぞ十度百度行き来せし海を来ざるか



君が身は国の柱としづけるかまた飄々(へうへう)と帰りきたまへよ


波多野土芝とは、「アララギ」に歌を寄せていた歌人で、その戦死の報を受けて、しみじみと悼む思いは、戦意高揚となじむことのない切実さを湛えています。



現代日本文学大系39巻は島木赤彦や木下利玄らと並んで土屋文明が取り上げられています。折り込み附録として添えられた「月報」に、諏訪高女校長時代のエピソードを、文芸評論家臼井吉見がこう書いています。

 

 

 諏訪高女の校長のとき、上級生の平林たい子が修学旅行をすっぽかして、堺枯川を訪ねて上京するという事件があった。当時として普通の校長なら、おびえうろたえて、退学を申し渡すところだろう。この日文明校長は、たい子を呼びつけて、「おやじが三味線弾いて、娘が踊るか、よし、帰れ!」と一言あびせただけですんだという。これほたい子自身から聞いた話である。

(中略)              

  平林たい子の同級生伊藤千代子は、のちに非合法運動に関係して捕えられ、獄から松沢病院へ移されて、そこで死んだ。のちに歌人土屋文明は彼女の出身校の東京女子大を訪ねた折、次のような歌を作っている。

                高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

                こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきて思はむ

こうした思いは、文明の胸底にいよいよ烈々と伝わっている(後略)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ここに登場する伊藤千代子については、伊藤千代子こころざしの会「こころざしつつたふれしをとめよ」 (tiyoko-17.org)の諸記事.特に伊藤千代子の生涯 (tiyoko-17.org)に詳しい紹介があります。


同ホームページから略年譜を転載させていただきます。

伊藤千代子略年譜

1918年(大正 7)
4月1日
13才 小学校を卒業し、諏訪高等女学校へ入学
歌人・土屋文明、同校へ赴任
1919年(大正 8) 14才 土屋文明から英語・国語・修身の授業を受け、大きな影響を受ける
1920年(大正 9) 15才 土屋文明、諏訪高女校長となる
1921年(大正10)
16才 千代子、土屋テル子夫人宅で英語補習を受ける(文明着任以来)
千代子、軽い肋膜炎で学校を少し休む
1922年(大正11)
4月1日
17才 千代子、諏訪高女を卒業。生徒総代で卒業証書授与
高島尋常高等小学校の代用教員になる
土屋文明、松本高女へ移る
      《日本共産党創立》
1923年(大正12) 18才 女子英学塾を2回受験(不合格)
      《治安警察法による第一次弾圧》
1924年(大正13)
4月
19才 小学校教師を突然退職し、仙台の尚絅女学校高等科英文予科へ入学
     
1925年(大正14)
4月
20才 東京女子大学英語専攻部2年へ編入学
大学内の社会科学研究会結成に参加
      《治安維持法公布 男子普通選挙法公布》
1926年(昭和 元) 21才 学外のマルクス主義学習会に参加。浅野晃を知る
学内の「社研」組織拡大。講師活動で塩沢富美子らを指導
大学内の社会諸科学研究会につづき、マルクス主義学習会を組織して活躍する
1927年(昭和 2) 22才 女子学連結成に参画、委員になる
8月~   岡谷の山一林組製糸工場大争議を支援
秋、労働農民党オルグの浅野晃(元諏訪中学校教師)と結婚
      《日本共産党「27年テーゼ」決定》
1928年(昭和 3)
2月20日
23才 初の総選挙に労働農民党から立候補した藤森成吉らの支援活動
2月29日     《「赤旗」創刊。普選初の総選挙(山本宣治ら当選)》
3月15日   千代子、日本共産党に入党し、中央事務所の活動任務につく
      《3・15弾圧事件。〔県下で80人検挙〕》
    千代子、3・15事件の大弾圧で検挙され、警視庁滝野川署に連行される。悪名高い毛利基警部の取調べ・拷問を受ける。
市ヶ谷刑務所に収監される。
獄中で学習をつづけ、同志を励ましたたかう
      《緊急勅令による治安維持法改悪(最高刑を死刑に)》
《特高警察を全府県に設置》、
1929年(昭和 4)
24才   《3月5日、山本宣治、右翼に刺殺される(改悪治維法強行可決 に反対したため)》
4・16事件、検挙者約千人。〔県下20人検挙〕》
    浅野晃・水野成夫ら、天皇制権力に屈服し獄中転向
千代子、転向強要攻撃が強まるなか拒否してたたかう
8月1日   千代子、拘禁精神病発病
8月17日   松澤病院へ収容される
9月   千代子の身内・伊藤一郎氏ら面会。正常に回復という
9月24日   千代子、急性肺炎により病状悪化
誰にも看取られることなく24歳2ヶ月の生涯を閉じる
          ◇
千代子の遺骨、帰郷し、龍雲寺墓地に葬られる

 前述『六月風』に所収の、「某日某学園にて」と題する一連の作品には、上記の2首のほかこんな歌が収められています。

 語らへば眼(まなこ)かがやく処女(おとめ)等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと

芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女(おとめ)あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚(とら)へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに
思想的には、伊藤千代子の抱いたマルクス主義・社会主義とは距離のある、自由主義・リベラリズムの立場でしたが、官憲の非道な弾圧と、ファシズムの暴虐にたいして、静かな鋭い告発を投げかけていて、心打たれます。
時代ははるかに下って、1960年の安保闘争の頃にこのような歌があります。
旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或は行かむ
安保改定尾反対の国民の声を無視して、条約締結を強行しようとする岸信介(アベさんのおじいちゃん)の渡米に抗議して、学生たち、労働者たちが、旗を立て「愚かに」道に伏している。いかにもそれは、成算のない愚かな行為かも知れぬが、自分が若かったなら、或いはともに行動しただろうと、共感を示しているのです。
一ついのち億のいのちに代るとも涙はながる我も親なれば
六十年安保闘争のさなか、女子学生樺美智子さんが機動隊と衝突して死亡した事件を悲しんで詠んだ歌でしょう。
わが「故旧」の一人アキコさんは、大学入学したての頃、樺美智子さんのこの詩を愛唱しており、私はそれによって樺美智子の名前を知りました。
 「最後に」

誰かが私を笑っている

向うでも こっちでも

私をあざ笑っている

でもかまわないさ

私は自分の道を行く

笑っている連中もやはり

各々の道を行くだろう

よく云うじゃないか

「最後に笑うものが

最もよく笑うものだ」と

でも私は

いつまでも笑わないだろう

いつまでも笑えないだろう

それでいいのだ

ただ許されるものなら

最後に

人知れずほほえみたいものだ

1956年 美智子作

念のために付け加えるならば、彼女の属した「ブント(共産主義者同盟)」の、冒険主義的・挑発主義的な行動は、権力に弾圧の口実を与えるもので、決して賛同することはできません。

さて、今日は日中16℃まで気温が上がり、汗ばむ散歩日和でした。カワセミがいました。







もう一羽がどこからか飛んで来ました。ゆっくり写すいとまもなく、すぐに飛び立ちました。



ツグミです。よく見るとバックの草にも花が咲いてます。



ジョウビタキ♀。



アオサギ。



今日はこれにて。
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コメント 2

majyo

樺美智子さんの詩は初めて知りました
そして属するセクトは権力に弾圧の口実を与えるものの
ようでしたか。何か悲しいですね
カワセミ2年くらい見ていません。

by majyo (2016-03-04 20:25) 

kazg

majyo様
生きていらっしゃれば、岸の孫のいまをどうごらんになっているでしょうか?
「野党は共闘!」という声が現実のスローガンとなりうる時代に青春を生きていらっしゃったとしたら、向こう見ずな冒険主義への衝動は、多少は抑えることができたのでしょうか?時代ならではの痛ましい犠牲者と、悔やまれます。
カワセミは、近所に生息していますが、カメラに収めることができるのはまれで、欲求不満が残ります。
by kazg (2016-03-06 08:46) 

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