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またまた3月15日の蘊蓄、の巻 [今日の暦]

今日は3月15日。去年も一昨年も同じ題材の記事を書きました。

●「3月15日と『風立ちぬ』と馬酔木の三題噺(2014年)」

●「今日は何の日?(2015年)」



上の2015年の記事はこんな書き出しでした。


今日は3月15日。

今日の記事は、「3.15事件」を題材に書こうと思い、いろいろ構想を練ったのですが、 去年の3月15日付の「3月15日と『風立ちぬ』と馬酔木の三題噺」という記事と大幅に重複する内容であることに気づきました。自分が過去にどんなことを書いたか、覚えていないものですね。


その記事を少し引用します。


1828年、日本で初めて行われた普通選挙の直後の3月15日、無産政党の活動に危機感を抱いた田中義一内閣は、立候補した左翼活動家やその応援者たちにたいして、治安維持法違反容疑による一斉検挙を全国で展開しました。

当時、非合法状態にあった日本共産党や、労働農民党などの関係者約1600人が検挙され、狂暴な弾圧・拷問が加えられたのでした。

ここでも書いたとおり、「3.15事件」に取材した小説に、小林多喜二の「一九二八年三月十五日」があります。



手許に右遠俊郎著「読書論ノート」(青木書店、1980年刊)という本があります。

右遠俊郎さんについて、wikiではこう紹介してあります







 右遠 俊郎(うどお としお、1926年9月1日 - 2013年10月11日)は、日本の作家・文芸評論家。


岡山県生まれ。少年期を大連で過ごし、旅順高等学校に進む。戦後、東京大学国文科卒。『新日本文学』などに小説、評論を発表。1959年「無傷の論理」で芥川賞候補(この時は該当者なしだった)。その後日本民主主義文学会(当時の名称は文学同盟)に加入する。1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。



2013年10月11日に肺炎のため死去[1]。87歳没。

(中略)

郷里出身の作家でもあり、彼の作品は学生時代を中心にかなり読みました。今、本棚から取り出せる作品にこんなものがありました。また機会を改めて、紹介してみたい作品もありますが、今日は割愛します。





さて、その「読書論ノート」に、小林多喜二 『一九二八年三月十五日』について述べた部分があります。一部を引用させてください。







アカは 「ブッ殺したっていい」か 小林多喜二 『一九二八年三月十五日』





小林多喜ニは『一九二八年三月十五日』を発表するまえに、習作改作を含めて四十編の小説を書いている。にもかかわらず多喜二は、『一九二八年三月十五日』をあえて「私の処女作」と呼んでいる。むろんそれは、「初めて認められた作品という意味でなら」とことわったうえでのことだが、同時にそこには、多喜二の、プロレタリア作家としての誇らかな自己宣言を見ることがでぎるだろう。

処女作というものは一般的に、その作家のそれまでの人生経験や文学修業が、もっとも典型的に集約されているものだが、『一九二八年三九十五日』の場合も、その例外ではない。(中略)



だが、『一九二八年三月十五』は、ただたんに多喜二の処女作であるばかりでなく、当時の天皇制政府の暴圧、治安維持法に支えられた特高警察の白色テロリズム、その残虐非道な拷問の実態をあばいたという意味では、日本近代文学の「処女作」である、ともいえるだろう。

多喜ニは、この作品のモチーフについて、つぎのように述べている。



「しかも、警察の中でそれら同志に加えられている半植民地的な拷問が、如何に残忍極まるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎意(ママ)をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示を受けたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたたぎつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った」

いうまでもなく、多喜ニ『一九二八年三九十五日』のなかで、「ウン、ウンと声を出し、力を入れ」て書いた、〈三・一五〉の弾圧であり、その小樽での場合である。



一九二八年三月十五日午前三時、「小樽合同労働組合」の組合員たちは、共産党員およびそのシンパを含め、寝込みをおそわれ、何の拘引理由もなく、「帝国憲法」に照らしてさえ無法に検束される。そして、取調べ室にひとりずつ引き出される。取り調べとは、「東京からは若し何んならブッ殺したっていいツて云ってきているんだ」ということでの拷問。

この小説は十章から成っているが、その第八章が拷問の場面であり、その抽写は凄惨を極める。作品のなかで描かれている拷問は、およそ七種類に分けられる。

その第一は、裸にしてなぐることである。なぐる道具は、竹刀、平手、鉄棒、細引、あるいは細引を三本たばねたものものなどだ。 その威ガは、組合員たちのなかでもっとも頑強と思われている渡(注;リーダー格の労働者の名)でさえ、三十分も続けてやられると気を失うほどである。

(以下、克明な説明が続くが省略ーー引用者)

そしてこの作品が書かれて五年後、多喜二自らが書いたようなやり方で、ほとんど報復的に、特高警察によって虐殺されたのだ。そのときから四十七年経っているが、わたしにはそのことが、過ぎ去ってしまったこととは思えないのである。

同じく手許にある、詩人土井大介さんの著書「民主主義の思想家シリーズ 小林多喜二」(汐文社)の「序章」は、土井さん自身の次の詩から始まります。







 人びとにまもられてきた作品



あなたはまだ語りつくされていない。



二月二十日午後七時四十五分
この地上にあなたの最後の息が吸いこまれて

かっきりと四十年の歳月が過ぎ云った。

いまわたしたちがここにあつまったのは
すさまじかったあなたの死を
いつまでもおぱえておきたいから。
あなたの語りのこしたかったことを
たしかめたいから。
拷問によって断ちきられたあなたの生涯を
いつまでも伝えのこしたいから。
それはまだ語りつくされていないから。

(「同志・小林多喜二に 没後四十周年を記念して」、『文化評論』一九七三年五月号)




私は、当時、雑誌『文化評論』に掲載されたこの詩を読み、ノートに書き写したような記憶があります。現物の雑誌そのものはもはやどこかに散逸してしまいましたが、1979年発行の上述汐文社版書籍に再録されているのです。「序章」は、このように書き続けられます。







 天皇制警察が小林多喜二を殺害したのは、かれが政治の虎偽を果敢に告発し、その支配を正面から攻撃しつづげる仮借ない闘士だったことへの階級的な憎悪の結果にほかならない。侵略戦争へ急傾斜していく反動支配は、民主義的な傾向をもついっさいの動きを障害と見てとって、これと敵対した。明治憲法の偽装そのものをさえかなぐりすてて、基本的な人権をふくむ民主主義擁護の陣地に、文字どおりの殺意をもって対決し、これを根こそぎにしようとした。
小林多喜二の死は、日本の民主主義的な文学が支配勢力から虐殺という報復をうけた最初の事例であり、その尊い犠牲であった。


しかし、強権の敵意は虐殺によっても解消されることがなかった。のこされたことば、書物のすべてが抹殺の対象となった。生前から伏字のなま修を無数にうけ
しばしば発禁のあつかいをうけた多喜二の書は、その後いっさい国禁とされた。出版はおろか、持ちあるくだげで検挙、投獄の理由とされた。





けれども、しあわせなことに、いまわたしたちは完全に近い形で『定本小林多喜二全集』全十五巻を手にすることがでぎる。多喜二の書きのこしたものは、かれ
の死後十二年をますます暗澹と塗りこめた戦争と暴虐によってもついに消しさることができなかった。数知れない人びとのふところふかく、それはまもられつづ
けた。



続きはまた今度にいたしましょう。

今日の日中は穏やかなお天気で、気温も高くなりました。

ヒヤシンスが咲き揃っています。





モンシロチョウに会いました。



花から花へ。



空豆の花にも



テントウムシもいました。



辛夷(こぶし)のつぼみがほころび始めています。







おや?これなあに?





ヌートリアも水から上がってひなたぼっこ中でした。





今日はこれにて。
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コメント 4

momotaro

小林多喜二さんは忘れてはならない偉大な人です。それを書き続ける kazg さんも偉大な人です。
by momotaro (2016-03-17 06:28) 

kazg

momotaro様
はい。前段の半分は正しいです。
後段は、???ですけれど〈笑)
by kazg (2016-03-17 20:48) 

majyo

この時代に戻ることも近づく事も絶対にNOですね
by majyo (2016-03-18 13:11) 

kazg

majyo 様
まったくおっしゃるとおりと思います。聞き知った範囲で語り継ぐことも大切と思っています。それが許される間に、、.
by kazg (2016-03-19 09:22) 

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