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これから気楽に寝られます、か?の巻 [折々散歩]

昨日の記事の続きです。
大逆事件(幸徳秋水事件)の連座者の中に、崎山栄と言う人物は存在しません。
念のために、作者は『わんぱく時代』の一節にこう記しています。
これで、ぼくが当年見聞きした大逆事件というもののあらましは書いたつもりである。
まえにあげた歌(引用者注「洛陽の酒徒にまじりし我が友のまゆの太さを思う秋風」という歌)で崎山を洛陽の湖徒にまじりしわが友」とうたつて「大逆事件に連坐せし」と ありのままをうたわないのは、歌の調子のために事実を作りなおした歪曲(デフォルメ)である。
詩歌であると小税であるとを問わず、文芸の作品は美と真実とのために事実を変更する自由を持つことは、新聞記事や一般の記録とはおのずからちがう。それゆえ、文学上の作品は真実ではあっても必ずしもいつも事実どおりであるとはかぎらない。 しかし読者の大部分は小説と事実とを混同している。それをうまく利用した作品もある。ところが、潔癖でもの知りの読者には小税のなかにでてくる郷土誌的なおぼえちがいや、時代史的な錯覚などをうつかり書いた場合、それがたとい瑣末なものであつてもぞんがい気になるものらしく、いちいち親切に教えてくれるのは、作者にとつて便利でありがたいものである。それらはいまにできるだけ事実に即して訂正したいと思つている。
しかしこと、大逆事件に関するかぎり、たとい裁判記録などに精通した人がいて、それを持ちだして事実と相違しているという注意や抗議があったとしても、ぼくはいっさいこれには耳をかたむけないつもりである。
理由はこうです。
そもそも大逆事件では不十分な容疑のうちに二十四人を起訴して、 その半数を絞首台にのぼし、のこりの半数を無期懲役にして獄中で病死や狂死させたという事実のほかは、こういう刑罰が加えられる理由となる事実の確証はなにもしめされなかつたというのが、今日の良識であろう。

そうして裁判の史実的記録としてのこっているものは決して歴史的の事実ではなくて、当時の裁判官たちがニ、三の事実を巨大に組み立てて、かれらの偏見が時代の先覚者たちを重刑にみちびくためにつごうよく構成したうたがいのかなりおおいすじ書きなのだから、ぼくはこれを映して厳正な史料としてはみとめないのである。
つまり事実を尊重すべき裁判官が針小棒大化した一種の創作を史的権威としてぼくの作品にのぞんでもらいたくないというのである。
事件の裁判記録そのものが、そもそも虚構に満ちているのだから、それをもって「事実」を推し量ることは適切ではないというのです。
だから大逆事件の記録ちゅうに崎山栄などという青年が見つからないのを気にするような読者があったならぱ、ぼくはその読者にむかっていいたい。裁判官たちの大逆事件には崎山はくわわっていなかった。
しかしぼくの知っている大逆事件には崎山がいた。これを信じないような素朴な読者は、いっそ大逆事件などという事実は、ぼくの言う真実以外は、ぜんぜんなかったものとかんがえたほうがよかろう。
そもそもわが崎山栄は、ぼくがわがあばら骨一本をぬいてぼくの胸中に生み、そうして真実の大逆事件という社会機構の毒蛇の口に泣きながら人身御供にささげるためにぼくが愛し育ててきた象徴的人物なのである。
「真実の大逆事件という社会機構の毒蛇」とは、幸徳秋水らが企てようとしていたとされる国家転覆計画などのことではないようです。
しからば真実の大逆事件とはなにか。当時天皇は神聖にしておかすべからずと法で定められていた。その天皇を、こともあろうに暗殺などとあるまじき不敬事を種に国民をけむにまいて、天皇を支配階級擁護の具に供し、あまつさえ天皇陛下の赤子十二人の虐殺を国家の権威を借りて断行した事件で、こういう過激な事件を醸造したときの政府とその手さきの裁判官どもこそ真実の大逆罪と、ぼくは言じている。 
鋭い告発です。
ところで、大石誠之助の友人だった詩人がもうひとりいました。与謝野鉄幹=寛です。かれは、大石をこう詩に歌っています。
誠之助の死   与謝野寛

大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し
わたしの友達の誠之助は唯一人、
わたしはもうその誠之助に逢はれない。
なんの、構ふもんか、機械に挟まれて死ぬやうな、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。

それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。

日本人で無かつた誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。

ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。

誠之助と誠之助の一味が死んだので、

忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。
おめでたう。
これまた「反語的な表現」で、愛する親友が無惨に奪われてしまった理不尽への慟哭が、胸に迫ります。
「誠之助と誠之助の一味が死んだので、/忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。/おめでたう。」
何という皮肉でしょう。このあと、絶対主義天皇制の強権支配と、とめどのない軍国化が急速に強まっていき、「忠良な日本人」にとって、気楽に眠れるどころか、堪え難い「時代閉塞の状況」(石川啄木)が、しのびよっていったのですから。

和歌山県南紀地方を基盤とする地方紙「紀伊民報」の2013年9月27日更付コラム「水鉄砲」にこのような記事があり、興味深いので転載させていただきます。
 「大石誠之助と魚肉ソーセージ」
▼大石誠之助といえば1911(明治44)年、いまは冤罪(えんざい)とされている大逆事件に連座して死刑になった新宮の開業医である。彼が魚肉ソーセー
ジを考案したと原田信男氏が『日本の食はどう変わってきたか』(角川選書)で紹介している。 ▼新宮に生まれた誠之助は、23歳で渡米。オレゴン州立大学
で医学を修め、帰郷後、新宮で開業した。栄養学の観点から料理にも関心が深く、社会主義者の堺利彦や大杉栄らが発行していた『家庭雑誌』にしばしば投稿している。 ▼原田氏は1905年9月発行の第3巻第9号から「モック、ソーセーヂ」と題した魚肉ソーセージのレシピ記事を見つけた。試作品の紹介のつもりだったのだろうか、世間に通用するものではないと誠之助は断っている。 ▼それでも、魚肉にベーコンやハムの脂肪を混ぜたり、こしょうやセージなど香辛料を加えたりして、豚や牛の腸に詰めた本格的なものである。現代の魚肉ソーセージとは、素材や作り方が少々異なっているが、一度味わってみたい。 ▼父の大石増平は新宮でパン食や牛乳飲用を奨励したといわれ、誠之助は幼少の頃から洋食に接する環境にあった。おいの西村伊作と新宮で洋食レストラン「太平洋食堂」を開いており、洋食へのこだわりは強かったようである。 ▼いま、国民の食生活に深く関わっている魚肉ソーセージが新宮の発祥と知って、何か爽快な気持ちになるのは私だけだろうか。 (翠)
極悪非道の冷血テロリストとはまったく結びつかない、庶民性に富む人物像が浮かんできます。
この記事に登場する、おいの西村伊作は、大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家で、文化学院の創立者としても知られています。
建築家としての一面は、我が地方にも無縁ではなく、「日本基督教団 倉敷教会」の街道は、彼の設計になる物だそうです。
持ち合わせの写真がありませんので、教会のHPから画像をコピーさせていただきました。




和歌山県新宮市観光協会のwebサイトに、「大逆事件と大石誠之助」というページがあります。一部を引用させていただきます。
新宮市では平成13年、市議会で大逆事件の犠牲者たちの名誉回復と顕彰することが決議された。
新宮生まれの大石誠之助は、同志社英学校等を中退後渡米、オレゴン州立大学医科を卒業。アメリカ帰りの医師として明治29年(1,896年)新宮で開業した。誠之助は大石ドクトル、毒取る先生と呼ばれ、貧しい人からはお金を取らず、町の人からは赤ひげ先生のように感謝された。大逆事件公判開始の記事にも誠之助については「被告中の一異彩なり・・・医は仁術なりの古風を学び謝礼金のみに止めて薬料の如きは貪らざるの主意なり・・・」とある。また、「顎鬚黒く品位ありその声さへ落着いているは医を業とする大石誠之助」と報じられている。医師であるとともにクリスチャンであり、優れた文化人であった。また禄亭と号し雑俳の大家でもあった。
「米の値に太き吐息をつきながら細き煙もたたぬ貧民」
「身のもてぬ人は廓(くるわ)でもてるなり」
「恋の坂登りつめ運下り坂」などがある。
誠之助は、西村伊作の叔父にあたり、伊作も誠之助より思想的な影響を強く受けた。大逆事件では、伊作も捜査をうけた。叔父誠之助が東京に護送されたとき、オートバイで東京に向かったという激情派である。 
2001(平成13)年、遅まきながら名誉回復がなされたそうですが、国家権力のでっち上げによって奪い去られたものは、あまりに大きすぎると言わなければなりません。

「大逆事件以後」の様子を、ウィキペディアはこう概説しています。
社会主義運動はこの事件で、数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈冬の時代〉である。

徳冨蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、明治44年(1911年)1月に秋水らが処刑されてすぐの
2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。

大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A
LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。永井荷風は『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事につ
いて甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いている。

大逆事件(という名の弾圧事件)は、単に直接の犠牲となった連座者や、特定の社会思想、運動の関係者に非道な犠牲を強いただけではなくて、この事件を契機としてもたらされた長い「冬の時代」が、日本国民全体を窒息させていったのでした。

今から五年前、大逆事件死刑執行100年にあたって、日弁連がつぎのような会長(当時)談話を発表しています
  大逆事件死刑執行100年の慰霊祭に当たっての会長談話

1910年(明治43年)、明治天皇の殺害を計画したとして幸徳秋水ら26名が刑法73条の皇室危害罪=大逆罪(昭和22年に廃止)で大審院に起訴された。大審院は審理を非公開とし、証人申請をすべて却下した上、わずか1か月ほどの審理で、1911年(明治44年)1月18日、そのうち2名について単に爆発物取締罰則違反罪にとどまるとして有期懲役刑の言渡しをしたほか、幸徳秋水ら24名について大逆罪に問擬し、死刑判決を言い渡した。死刑判決をけた24名のうち12名は翌19日特赦により無期懲役刑となったが、幸徳秋水を含む残り12名については、死刑判決からわずか6日後の1月24日に11名、翌25日に1名の死刑の執行が行われた。いわゆる大逆事件である。本年は死刑執行から100年に当たる。

幸徳秋水らが逮捕、起訴された1910年(明治43年)は、同年8月に日本が韓国を併合するなど絶対主義的天皇制の下帝国主義的政策が推し進められ、他方において、社会主義者、無政府主義者など政府に批判的な思想を持つ人物への大弾圧が行われた。そのような政治情勢下で発生した大逆事件は、戦後、多数の関係資料が発見され、社会主義者、無政府主義者、その同調者、さらには自由・平等・博愛といった人権思想を根絶するために当時の政府が主導して捏造した事件であるといわれている。戦後、大逆事件の真実を明らかにし、被告人となった人たちの名誉を回復する運動が粘り強く続けられた。


死刑執行から50年の1961年(昭和36年)1月18日、無期懲役刑に減刑された被告人と、刑死した被告人の遺族が再審請求を行い(棄却)、1990年
代には死刑判決を受けた3人の僧侶の復権と名誉回復がそれぞれの宗門で行われ、2000年(平成12年)12月には幸徳秋水の出生地である高知県中村市(現在、四万十市)が幸徳秋水を顕彰する決議を採択、2001年(平成13年)9月には犠牲者6人を出した和歌山県新宮市が名誉回復と顕彰を宣言する決議を採択した。
また、当連合会は、1964年(昭和39年)7月、東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔を建立し、大逆事件で12名の死刑執行がなされたことへの慰霊を込め、毎年9月、当連合会と地元町内会の共催で慰霊祭を開催してきた。


政府による思想・言論弾圧は、思想及び良心の自由、表現(言論)の自由を著しく侵害する行為であることはもちろん、民主主義を抹殺する行為である。しか
も、裁判においては、上記のとおり、異常な審理により実質的な適正手続保障なしに、死刑判決を言い渡して死刑執行がなされたことは、司法の自殺行為にも等しい。大罪人の汚名を着せられ、冤罪により処刑されてしまった犠牲者の無念を思うと、悲しみとともに強い怒りが込み上げてくる。


当連合会は、大逆事件を振り返り、その重い歴史的教訓をしっかり胸に刻むとともに、戦後日本国憲法により制定された思想及び良心の自由、表現(言論)の自由が民主主義社会の根本を支える極めて重要な基本的人権であることを改めて確認し、反戦ビラ配布に対する刑事弾圧や「日の丸」・「君が代」強制や、これに対する刑事処罰など、思想及び良心の自由や表現(言論)の自由を制約しようとする社会の動きや司法権を含む国家権力の行使を十分監視し続け、今後ともこれらの基本的人権を擁護するために全力で取り組む所存である。また、政府に対し、思想・言論弾圧の被害者である大逆事件の犠牲者の名誉回復の措置が早急に講じられるよう求めるものである。
2011年(平成23年)9月7日
日本弁護士連合会 会長 宇都宮 健児
この談話が「大逆事件を振り返り、その重い歴史的教訓をしっかり胸に刻むとともに、戦後日本国憲法により制定された思想及び良心の自由、表現(言論)の自由が民主主義社会の根本を支える極めて重要な基本的人権であることを改めて確認」と強調していることは、「いつか来た道」への歩みをいそぐアベ政治の強権的な手法が際だっている現在、ますます切実に胸に響きます。

「悠々自適」から始まった「大逆事件」シリーズは、これでひとまず終わりです。

昨日の雨が上がり、快晴になりました。
この記事(今年も、深山公園でミヤマホオジロを見た、の巻)以来、ほとんど2ヶ月ぶりに深山公園へ行ってみました。
水鳥の数が格段に減っています。


ヒドリガモのようです。






コガモも激減しています。



アイガモが通過。























寝る子とネコ。

「ネコ」の語源は「寝子」という俗説がありますが、、このネコもうたた寝中?



赤い椿のおびただしい落花の傍らに、ちょっと怪奇なネコです。







ツツジが花盛りです。



真っ赤なツツジが目を引きます。











今日はここまでです。
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momotaro

大逆事件はあまりにも重い、国家が二度と起こしてはならない大犯罪です。
そんな国家が、再来しつつある・・・
冗談ではありません、断固拒否しなければ・・・の思いが募ります
by momotaro (2016-05-05 05:50) 

kazg

momotaro様
>国家が二度と起こしてはならない大犯罪
全くその通りですね。
断固拒否です。
by kazg (2016-05-06 09:51) 

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