SSブログ
<

鯉のぼりの伝承、の巻 [折々散歩]

早くも四月の最終日。

明日からもう、5月です。

5月と言えば鯉のぼり。

風がないと、干物のお魚のようで、いただけません。薫風と新緑は、目に鮮やかですが。



やはり、青空の下を高く泳いでいて欲しいですね。





















この鯉のぼりの群れが泳いでいる場所は、玉野市にある「横田公園」という小さな公園ですが、数年前、私の若い友人(もと同僚)が、教えてくれた「名所」で
す。地元の方が鯉のぼりを飾ってくださり、春は桜、秋はドングリ拾いと、自然のなかで子どももたっぷり遊べる場所だそうです。

ちょっと思い出して寄ってみました。

http://park.publicmap.jp/spot/68346

↑このサイトで、地図が参照できます。




上の地図の右下に、麦飯山という山が記載されています。「むぎい山」と読むそうです。

以前、ブログを始めたばかりの頃、こんな記事を書きました。

濁りなき緑を肺に満たしてん

 戦国時代、中国地方最大勢力の毛利氏と、織田信長・羽柴秀吉方についた宇喜多氏との間で戦われた「八浜合戦」は、この地を舞台にしています。当時、麦飯山の頂上には、二つの城があったそうで、今見ても、確かに頂上が、遠目にも平らに見えるように思えます。
麦飯山城は、宇喜多直家の家臣、明石源三郎の居城で、 宇喜多家の支城でした。当時、宇喜多と毛利は同盟関係にありましたが、宇喜多は、戦局を見て織田方に寝返ります。毛利は、中国地方攻めを進めている秀吉軍
が、備前に入る前に岡山城を攻めようと考え、その拠点にするため、麦飯山城を奪おうとして攻撃を加えました。
毛利軍2万人が、山の周囲を囲み、兵糧攻めを加えたのに対し、 宇喜多の勢3千人が籠城しますが、山上には井戸がなく、麓の水源もおさえられたため、城から討って出、ふもとの八浜地区で激戦が繰り広げられました。
 城主明石源三郎は、毛利軍の侍大将荘勝資と一騎討ちで戦死。家老の田中源四郎も、戦死して落城します。一方、勝った荘勝資も、明石源三郎の家来に討たれました。

八浜合戦は、1582年。「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)から、数年後のできごとです。

その後も、わが家の方角から見た、麦飯山の写真は、これらの記事に載せています。


ところで、「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)については、さらに古いこの記事逆さ児島富士で概略を記しています。
 富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。
常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。

常山合戦案内
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。
本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、領主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。
しかし、女軍達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や広葉に囲まれて静かに眠っています。

         平成15年11月11日   玉野市教育委員会        

 「常山合戦案内」板より


この常山合戦について、常山のふもとにある豊岳山久昌寺のホームページ「豊岳山久昌寺」「常山女軍常山城と久昌寺」」という記事があり、こう書いておられます。
天正三年(1575年)六月四日、常山城(城主・上野隆徳)は総勢七千ほどの毛利勢によって完全に包囲され、落城の時がせまっていました。
そして六日の朝には総攻撃が始まり、それと同時に逃げ道には火が放たれ退路も断たれてしまいました。
 翌日早朝には城内で最後の酒宴が催され、一族いさぎよく自害しようと申し合わされたのです。
一族の自刃の修羅場が展開する中で、隆徳の妻(備中松山城主・三村元親(もとちか)の妹で名を鶴姫と伝えられています)は男に負けない武勇の持ち主で、「敵を一人も討たないでやすやす自害するのは口惜しい」と鎧を着け上帯を締め長刀を小脇に抱え、敵前におどり出ました。
それに従い『遅れてなるものか』とばかりに侍女たち三十四人がそれぞれ長刀をとり、敵の中に飛び込み、大いに奮戦しました。
しかし圧倒的多数の敵勢に対しては、彼女達はあまりにも無力で、一人また一人と討ち取られ次第に少なくなってゆきます。
奮戦の後、鶴姫は「父・三村家親から与えられたもの」と国平(くにひら)の大刀を投げ出し死後を弔って欲しいと言い残して再び城中に消えていきました。
そして、念仏を唱えたあと、口に刀をくわえ、前に倒れこむように突っ伏して、壮絶な最後を遂げたのです。
それを見届けた後、城主・上野隆徳も腹を十文字に切って果てました。

それぞれの首は、当時毛利氏を頼り、備後の鞆(浦(とものうら・現在の福山)にいた没落将軍・足利義昭(織田信長に京都から追放され
ました)のもとへ送られたということです…。(『備前児島と常山城』…北村章著・1994年山陽新聞社発行、ほか『備前軍記』『備中兵乱記』等を参照)

終わりの方に紹介されている『備前児島と常山城』の著者北村章氏について、常山城と久昌寺に、こうあります。

 山陽新聞社から出版された「備前児島と常山城」という本の著者である北村章(きたむらあきら)先生は、玉野高校での私の2年先輩です。その先生が本を書かれる前に、久昌寺まで取材にいらっしゃった時、「久昌寺は、玉野市史などによれば、室町時代後期にこのへんを治めていた飯尾(いいお)代官が創った、とされていますが、やはり常山城主(であった上野氏)が創ったと思います」と言われました。

 

 

備前児島と常山城―戦国両雄の狭間で

備前児島と常山城―戦国両雄の狭間で

  • 作者: 北村 章
  • 出版社/メーカー: 山陽新聞
  • 発売日: 1994/04/02
  • メディア: 単行本


実は、この北村章氏は、わたくしとはほぼ同世代(彼がやや若いですが)の、元同僚でした。生徒指導の方法で、会議で言い争いをしたこともありました。その節は失礼しました。

ところで、先の豊岳山久昌寺「久昌通信195号」
にはこんなことも書いてありました。

 8月23日の朝日新聞の4コマ漫画・『ののちゃん』の1コマ目を見て、倒れそうになるほど驚きました。ののちゃんのお父さんの会社に来た、取引先の人(だろ
うと思います)と会社の女性とが話しています。同じ高校の同級生だったようです。「わたし、3組ですぅ」「じゃあ担任は豊岳センセ?」

 ののちゃんの作者のいしいひさいち氏は玉野高校の卒業生、うちの父・豊岳明秀は玉高の教師(昭和26~52年)でした。珍しい名字ということもあり、い
しい氏の頭の片隅に『豊岳先生』の名前が残っていたようです。全国紙に『豊岳』が登場して、いちやく『豊岳』が全国区になりました。でも、『ホウガク』と
間違えないで読める人はごくわずかでしょうけど・・・。

 

ののちゃん (全集1) (Ghibli comics special)

ののちゃん (全集1) (Ghibli comics special)

  • 作者: いしい ひさいち
  • 出版社/メーカー: 徳間書店スタジオジブリ事業本部
  • 発売日: 2004/06
  • メディア: コミック


ちなみに、私は、故豊岳明秀先生とはわずかに在職期間がずれ、直接的には面識がありませんが、お人柄は人づてにお聞きしております。

余談はさておき、常山合戦の後日談として、地元には、こんな伝承が伝わっているそうです。

 1575年6月の常山城城落の時、主、上野高徳は6歳になる末の娘「美余」を、客として城に滞在していた長谷井半之進盛之という武士に託し、ひそかに城を脱出させ
た。半之進は常山城の東に約3キロ離れた池ノ内の地にのがれ、武士を捨てて帰農し、姫を育てながら、ひっそりと暮らした。
姫は、半之進の息子半九郎実之と共に成長し、後にこの半九郎と結婚し、一男一女を得た。
この姫に男の子が生まれると、常山城主の血につながると見なされて危険であると考えた村人たちは、みんなで申し合わせ、たとえ男の子が生まれてもこれを隠
すため、鯉のぼりや絵のぼりをたてないようにしたという。その風習は、400年を経た現在も続いているとのことだ。
なお、市の重要文化財に指定されている「道清夫婦の墓」は、半九郎夫婦の墓のことである。


玉野市観光協会のホームページ

におすすめ観光コースの案内があり、「玉野歴史街道」のなかの大崎歴史コースというページに、「道清夫婦の墓」への道案内が掲載されています。

先日訪ねた四国香川の「仁尾城跡」にまつわるこんな伝承をふと思いだしますね。

二日目のお四国弥次喜多ぶらり旅

の記事を再掲します。

 仁尾城は、天正7年3月3日〈旧暦)に長曽我部元親に攻められて落城し、城主細川頼弘(諸説あり)はじめ家臣らも全滅の悲惨をこうむります。
これを悼んで、この地方では、三月三日の桃の節句〈雛祭り)を祝うことをせず、代わりに八朔の日(八月一日)に雛人形を飾るという風習が伝えられているそうです。


いくさにまつわる痛ましい伝承が、何百年も語り伝えられていることは、いくさという事実の重さ、哀しさを物語っています。新しい戦争を準備する「安保法制
(戦争法)」の強行に続いて、「明文改憲」にも狙いを定めているアベ政治。さらなる数百年、辛い伝承を繋がなくてはならないような事態は、ごめんこうむり
たいものですね。
横田公園の跡、深山公園を歩いてみましたが、めぼしい鳥には会えず、歩数を稼いだことで満足しましょう。
夕方また近くを散歩。
携行カメラはpentax01+ケンコーミラーレンズ500mm。
昨日と同じ物を、異なる機材で写してみます。
麦畑。







イトトンボ。





リングボケが、表現効果を発揮する?





こうなるると、ボケがうるさすぎます。





これもバックがうるさいですが、カラスノエンドウと一緒に写ったのはおもしろいかな。



二匹を入れるには、もっと後ろに下がらないと駄目のようです。



今日はここまで。


nice!(28)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 28

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。