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邂逅の不思議宿場に緑雨かな [折々散歩]

子どもの体調は急変します。ホメオスタシス(恒常性)が未熟なせいでしょうか。一昨日、「お泊まり」明けに、私を近くのJR駅までちょいと送ってくれるつもりが、運行トラブルのため遠くまでつきあうことになり、不平を漏らしていた小3と保育園年長組の兄妹が、その日、ともに高熱を出したそうです。昨日は、兄は39度超、妹も38度台だったそうです。午前中はパパが、午後はママが休暇を取ってこもりをしたり病院につれていったりしました。先んじて熱を出していた一番下の一歳児は、ほとんど回復し、退屈をもてあまして、いつものように我が家においでになりました。
そうした隙間を縫っての散歩でした。
麦畑の景色の追加です。





ケリがいました。
手前にもいます。

またまた空から威嚇されました。
ピントを合わせる余裕がありません。


タチアオイの花が、空に向かってそびえています。


今朝は、中学生と一歳児は登校・登園しましたが、小3と年長組の兄妹はお休みで、唯一フリーの私が子守りを仰せつかりました。看病がてら、隙間をみてパソコンにでも向かおうと考えていましたが、なかなか自由になりません。むろん、散歩もままなりません。


昨日の自然歴史探訪の記事の続きです。
探訪先は次の通り(昨日の記事からコピー)でした。
 ◆主な探訪先 <鳥取県智頭町>
〇上板井原集落(県指定伝統的建造物群保存地区)
六尺道に沿う塀をもたない茅畫き屋根の民家…自然と調和した集落の姿が貴重な文化遺産として注目されています。

〇智頭宿
山陰と山陽をつなぐ交通の要衝であった智頭宿。
県内最大の宿場町として栄え、石谷家住宅をはじめ

美しい格子戸の旧家、江戸時代から続く酒蔵などの町並み
レトロな洋館の公民館
明治30年頃の和風建築の町家である旧塩屋出店
白い洋館の西河克己映画記念館(入場無料)

洋風消防屯所 などの散策
〇石谷家住宅(国指定重要文化財)
古い町並みの中でもひときわ豪壮な木造建築で一般公開されています。 大正時代林業の振興や因美線の開通などに尽力した貴族院議員だった 石谷伝四郎(山林王とも呼ばれた)の邸宅を団体で見学
昨日は板井原集落について書きました。
次に訪ねた智頭宿(ちずしゅく)について、ウィキペディアにはこうあります。

 奈良時代以来の畿内と因幡を結ぶ道で江戸時代には参勤交代の道でもあった智頭往来(因幡街道)と、備前街道が合流する地にあって、両街道の宿場として栄えた歴史を持つ。 智頭往来は歴史の道百選と遊歩百選に選ばれており、沿道には社寺や町家などの古建築が現在も残る。

江戸時代には、参勤交代で江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿であり、藩主の宿泊や休憩の場となる御茶屋や奉行所、制札場が置かれていた要所だそうです。

江戸時代に大庄屋を務めた旧家で、約3000坪という広大な敷地面積に40以上の部屋数を持つという「石谷家住宅」(国指定重要文化財)を訪ねました。

智頭町観光協会のHPには、石谷家住宅についてこう紹介しています。

 重厚な大門で人々を出迎え、3000坪という広大な敷地に部屋数が40以上ある邸宅、7棟の蔵、美しい日本庭園を持つ「石谷家住宅」。石谷家は、元禄年間(1688~1704)の初期に鳥取城下から智頭に移り住み、この地で繁栄してきた旧家。江戸時代には大庄屋を務めつつ地主経営や宿場問屋を営み、明治に入ると大規模な林業を営む事業家、国政に参加する政治家としても活躍してきました。
吹き抜けの土間 
それまでは江戸時代に建築された町屋形式の家屋でしたが、林業経営の事業所としての機能を持たせるため、大正8年~昭和4年にわたり大規模な改築に着手。地元の大工・田中力蔵が設計を務め、最高の資材、最高の施工技術を用い、元の家屋の良さを生かしつつ大正・昭和の新しさを加えた屋敷形式へと変えていきました。一つの家屋の中で江戸~昭和という長い歴史の重なりを見ることができる貴重な和風建築で、2009年10月に国の重要文化財に指定されました。
 壮大なスケールを持つ主屋は2階建てで、入母屋造り桟瓦葺き。40以上という部屋数の多さは、70名ほどの従業員を抱え、林業経営にかかわる多くの人が出入りする事務所としての役割があったから。玄関に入ってまず驚くのが、赤松の巨木を使った迫力の梁組が見渡せる吹き抜けの「土間」。重厚感にあふれている上、建築にかかわった職人の心意気が感じられるようです。約14mという高い吹き抜けは、イギリス留学の経験がある田中力造が、木材の展示場や商談をする場所としての機能を有するホール風に設計したと思われ、“見せる空間”としての要素があったようです。
 屋敷の見どころは数多くありますが、特筆すべきは、智頭町出身で、日本美術院で修行した仏師・国米泰石が彫刻を施した欄間と各部屋から望む日本庭園の素晴らしい景勝。繊細な細工の彫刻は実に見事で、石谷家全景や諏訪神社をあしらったものなど、一部屋一部屋モチーフの違う欄間に注目して回るとまた違った見方ができます。(以下略)



降り始めた雨の中、矢印に沿って歩くと、印象的な洋風の建物が見えます。



上の方に写り込んだのは私の傘です。ご愛敬。



この建物は、『智頭消防団本町分団屯所』。1941年に建設された、洋風の消防屯所で、現役で活躍中の施設だそうです。火の見櫓が印象的です。昭和時代初期の消防屯所建築として貴重であり歴史的景観に寄与しているとして、2000年に国登録有形文化財に指定されたそうです。

「石谷家住宅」は、この消防屯所の真向かいにあります。









文字通り、贅を尽くした、想像を絶する豪邸です。趣向を凝らした屋内庭園、各部屋を彩る書画・美術品等々、見事というほかありませんが、思えば、あの世まで持って行くことはできなかったのですね。ふと、トルストイの民話「人にはどれだけの土地が必要か」のエピソードを思い出します。

こんなお話でしたっけ。

  小作人のパホームは一生懸命働いて、土地を増やすことに執念を燃やしていました。ある日、旅人がバキシールという遠い土地で、たった千ルーブリで 好きなだけの土地が買えるというので、パホームは、早速、下男を一人連れて 旅立ちました。

バキシール人の村長は、「好きな場所から歩き出し、土堀りでところどころ掘ってそこに目印を残し、一日で歩き回った分の土地を全部、千ルーブリで差し上げよう。ただし、日が沈む前に 出発点に帰らないと、それらはふいになる」と言いいました。

翌朝早く、パホームはパキシール人を起こし、彼らをせかして競技を始めます。空の端から太陽が踊りだすと、草原めざして歩き出し、歩いては穴を掘って、目印に芝を何段も重ねて棒を立てます。歩くにつれて、さらに土地はよくなり曲がるのが惜しいほど。振り返ると丘の上に立っているパキシール人たちが蟻のように小さく見えます。

もう このあたりで廻らないと離れすぎると思っても魅力的な土地が次々に目につき、見捨てるのが惜しいほどです。

すでに太陽は傾きかけ、丘からずいぶん離れているのに気づきます。

パホームは大急ぎでスタート地点にまかってまっすぐ進みますが、体は汗でぐっしょり、はだしの足は切り傷だらけで、休みたいけれど、日の入るまでに丘に到着するためには、それはできません。

太陽は容赦なく落ちていき、パホームは苦しかったけれど足を早めます。行けども行けども先は長く、不安に駆られてパホームは必死で走り出します。チョッキも水筒も腰にくくりつけていた靴も全て投げ捨て、ただ土堀りだけを持って。

「あぁ、俺は欲をかき過ぎた、万事おしまいだ、日の入りまでにとても帰り着けそうもない」

心臓が早鐘のように打ち、胸はふいごのように膨らみます。パホームはただ走りました。

丘の上でバキシール人が高い声で叫んでいます。パホームは最後の力を振り絞り、無理矢理足を前に進めます。

太陽が沈みかけ、突然辺りが暗くなります。

「骨折りも無駄になった」と思いましたが、丘の上ではバキシール人がわめいています。まだ丘の上では日が沈みきっていないと気がついて、丘を駆け上がりまり、前のめりに倒れながらも、ゴールの帽子を掴みます。

「やぁ、えらい!」と村長が叫びました。

「土地をしっかりお取りなさった!」

パホームの下男が駆け寄ってパホームを抱き起こそうとしましたが、彼はすでに、血を吐いて息絶えていました。

下男は土堀りでー頭から足までが入るように、きっかり3アルシンだけ、パホームのために墓穴を掘りました。そしてそこへ彼を埋めました。


1アルシンは約71cmだそうですから、2メートル余りの土地だけが、彼にとって必要だったというわけです。

広大な邸内を一通り散策するだけで、かなりの時間が過ぎ、帰りの集合時間まで残りわずか。あわただしく町並みを散策してみます。が、とても見尽くすことはできず、後に心は残ります
旧街道が一直線に伸びています・

 

 

 名所案内の看板が掲示されています。

追記:観光協会のhpに、イラストマップのPDFファイルがありました。↓

http://cms.sanin.jp/photolib/chizu/3223.pdf

案内板が掲示されている近くに、カーブミラーが据えられています。



この右側のミラーに写り込んでいるお屋敷、ちょっと気になる重厚さです。



ズームレンズの最広角側で写しても全体像が収まりません。



ぐるっと周囲を巡ってみると、表札がありました。



「米原」と読めます。

広角で写すと、、、木製の看板が掲示してあります。



大きくトリミングしてみます。



「合名会社木綿屋米原総本店」と読めます。

実はこのお屋敷が、智頭産の大木を使用した重厚な造りの「米原家住宅」(非公開)であるようです。

文化庁が運営する文化遺産についての電子情報広場(ポータルサイト)「文化遺産オンライン」上のこのページに、この建築物の文化的価値が記載されています。

ところで、私はこの日まで知らなかったのですが、「石谷家住宅」を散策している時、近くにおられたN先輩から、驚愕の情報を教わったのでした。日本共産党の代議士として一九四九年に鳥取県でトップ当選し、その後紆余曲折を経て六〇年代か七〇年代に東京二区選出の代議士として活躍された米原
昶(よねはら いたる)さんの生家が、ここだというのです。

ウィキペディアの記事をお借りします。

 米原 昶(よねはら いたる、1909年2月7日 - 1982年5月31日)は日本の政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、3期)。日本共産党幹部会委員。



鳥取県八頭郡智頭町生まれ。智頭町は江戸時代から宿場町として栄え、実家は代々「もめんや」の屋号で呉服類や小間物の商いをしていた。旧制の鳥取中学(現在の鳥取西高)を経て旧制一高に入学するも、学生運動に携わったことで放校処分が下る。一高在学中より27年テーゼや社会科学研究会などを通じて日本共産党への関心を深め、弘世
哲夫の変名で地下活動をおこない、1945年、第二次世界大戦の敗戦と民主化により合法化された同党へ入党。

その後も共産党の活動を続け、1949年、第24回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から同党の公認候補として出馬しトップ当選を果たす。所謂「五〇年問題」により党内が所感派、国際派に分裂する中、再選を期して臨んだ1952年の第25回衆議院議員総選挙で落選、以後同選挙区から2度立候補するが何れも当選には至らなかった。鳥取県内の選挙区から立候補して当選した共産党国会議員は、現在に至るまで米原のみである。

1959年から1964年までの5年間、『平和と社会主義の諸問題』誌編集委員として党から派遣、家族とともにチェコスロバキア・プラハへ赴任する。1967年の都知事選挙では共産党推薦候補となるも、社会党の呼び掛けに応じ出馬を取りやめ美濃部亮吉候補に一本化する(当選者は美濃部)。

1969年、第32回衆議院議員総選挙で東京2区に転じ、17年ぶりに当選を果たす。前回に続いて共産党が躍進した1972年の第33回衆議院議員総選挙でも当選するが、1976年の第34回衆議院議員総選挙にて次点に終わる。以後は地盤を榊利夫に譲り政界からの引退を表明。

1982年5月31日、筋萎縮性側索硬化症により東京都渋谷区の代々木病院にて死去。73歳。

政歴

1949年 第24回衆議院議員総選挙 鳥取県全県区 43,654票 当選

1952年 第25回衆議院議員総選挙 鳥取県全県区 7,920票 落選

1953年 第26回衆議院議員総選挙 鳥取県全県区 6,664票 落選

1955年 第27回衆議院議員総選挙 鳥取県全県区 12,197票 落選

1969年 第32回衆議院議員総選挙 東京2区 71,357票 当選

1972年 第33回衆議院議員総選挙 東京2区 85,667票 当選

1976年 第34回衆議院議員総選挙 東京2区 65,018票 落選


旅には、思いもよらぬ邂逅があるものですね。

米原 昶さんについては、また回を改めて書くことにします。

きょうはこれにて。


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コメント 4

majyo

石谷家住宅の前の道は昔の街道でしょうか
道幅が・・・・
洋風の消防屯所で現役とはすごいです。
火事にならないようにしてほしいですね
訪ねた先の重厚なお宅が ご存じの政治家さんだったとは奇遇です

お孫さん回復されて良かったです。

by majyo (2016-05-31 22:04) 

joyclimb

青空と麦畑、気持ちの良い景色ですね^^
by joyclimb (2016-05-31 23:45) 

kazg

majyo様
この街道が、参勤交代にも使われた旧街道だったようですね。
歴史の風合いがしっかり刻まれている、趣深い場所でした。
by kazg (2016-06-01 23:06) 

kazg

joyclimb様
雨上がりのせいか、空気が澄んで、光の加減が上々でした。
by kazg (2016-06-01 23:08) 

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