遙かなるプラハの夢か杉木立 [折々散歩]
ネット検索しておりますと、翻訳家、同時通訳者、エッセイストとして名をはせた米原万里さんが、2006年5月25日、わずか50代半ばにして病を得て亡くなられてから一〇周年ということで、今年は各種のイベントやフェアが催され、注目度が増しているそうです。
米原万里公式サイトには、こんなプロフィールが掲載されています。
私などとも年齢的には同世代と言えますが、波乱万丈の人生ですね。
うかつながら、生前の彼女のご活躍を、ほとんど知りませんでした。
ゴルバチョフやエリツィンの同時通訳としての、語り草となるほどの通訳ぶりも、うっすらとした記憶しか残っていません。
スケールが大きくて機知に富み、読み始めるとその破天荒さにぐいぐいと引きつけられ、ほとんど癖になってしまいそうな、その極上の著書も、実は、没後になって初めて読んだ次第です(冷や汗)
さらにうかつなことに、彼女が米原昶さんの長女だと知ったのも、没後のことでした。
米原万里さん、ユリさん姉妹と智頭町とのつながりを示す記事が、智頭町の広報「広報ちず」2010年10月号にありました。
一部引用します。
「食べることが大好きだった」という万里さんの姿が浮かんできますし、本当のふるさとと感じる智頭への愛着がしみじみ伝わってきます。とくに「岡山で乗り換えた列車が徐々に山奥に入っていき、車窓から無数の杉の木が見え」てくるシーンは、ありありと目に浮かびます。
智頭宿・智頭街道の旅がきっかけとなって、話題はひろがるばかりで、収拾がつきません。故井上ひさしさんの「ひょっこりひょうたん島」に始まる作品鑑賞から九条の会の活動まで、話題を広げたくてうずうずしているのですが、それはのちの機会に譲ることにします。
このシリーズのしめくくりに、最後にひとこと、ウィキペディアの記事をお借りします。
おや、もう庭の紫陽花が咲いています。よくよく考えれば六月ですもの。
散歩道も、いつしか花盛り状態です。
イトトンボ。
ナミアゲハ。庭のナンテンの花に止まっています。
今日はこれにて。
米原万里公式サイトには、こんなプロフィールが掲載されています。
米原万里 1950年 4月29日、東京・聖路加病院にて、米原昶(いたる)、美智子の長女として誕生。当時、一家は大田区大岡山に間借りしていた。 1953年 1月、妹ユリ誕生。 1954年 母・美智子が営んでいたタバコ屋の立ち退き料を元手に東京・馬込に家を建てる。 1957年 4月、大田区立馬込第三小学校に入学。学芸会では1人で40分間踊りまくる。 1959年 11月、父がチェコスロバキアのプラハにあった国際共産主義運動の理論誌の編集局に派遣されることになり、一家でプラハに移住する。第三学年中退。 1960年 1月、在チェコスロバキア・8年制ソビエト大使館付属学校第二学年に編入。 1964年 11月、第七学年で中退。両親とともに帰国。 覚えたロシア語を忘れないため、両親はロシア語の本を取り扱う書店や図書館に娘たちを連れて行く。 1965年 1月、大田区立貝塚中学校第二学年に編入。 1966年 3月、同校卒業。 4月、私立明星学園高等部入学(演劇部に所属)。 1969年 3月、同校卒業。 4月、榊原舞踊学園民族舞踊科入学。 1971年 3月、同校中退。 4月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科入学。 学生運動に取り組むかたわら演劇や民族舞踊にも熱中する。 1974年 北海道大学で学んでいたユリへの葉書では建築家になりたいと書いている。 1975年 3月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。卒論は「詩人ネクラソフについて」。 4月、汐文社(出版社)入社。 1976年 3月、同社退社。 4月、東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻修士課程入学。 1978年 3月、同修士課程修了。 その後、文化学院、日ソ学院(現東京ロシア語学院)などでロシア語講師を務めるかたわら、ロシア語の通訳・翻訳の仕事を始める。 1980年 ロシア語通訳協会を仲間と設立し、初代事務局長に就任。 1981年 翻訳書、カトー・ロンブ著『わたしの外国語学習法』(創樹社・2000年ちくま学芸文庫)刊行。 1982年 父・昶亡くなる。筋萎縮性脊髄側索硬化症、享年73。 1984〜85年 TBSテレビ『シベリア大紀行』に通訳として参加。200年前にロシアを訪れた日本人、大黒屋光太夫の足跡を追う番組取材に通訳として同行のため二か月にわたって真冬のシベリアを横断。マイナス59℃を体験。 この年(1985年)、スイスで米ソ会談が開かれ、ソ連、ゴルバチョフ書記長の会見は世界中に中継された。日本のテレビ局で同時通訳を務めた万里は、これでもう「あとには引けない」と感じ、通訳としてやっていくことを心に決める。ゴルバチョフ書記長が国内外に対する改革路線"ペレストロイカ"を打ち出したことで通訳の仕事が急激に増え、「過労死するほど働いた」という。 1986年 初めての著作『マイナス50℃の世界』(現代書館・絶版)刊行。 1989〜90年 TBS宇宙プロジェクトで通訳として活躍。 1990年 ロシアのエリツィン来日時に随行通訳を務める。 1992年 テレビの同時通訳で報道の速報性に貢献したとして、日本女性放送者懇談会SJ賞を受賞。 1995年 通訳について論じた『不実な美女か貞淑な醜女か』(1994年刊行)で第四六回読売文学賞随筆・紀行賞受賞。ロシア語通訳協会会長を務める(〜1997年) 1996年 2月、プラハ・ソビエト学校時代の級友たちの消息を追った『世界・わが心の旅-4つの国の同級生』(NHK衛星第二)が放送される。 1997年 『魔女の1ダース』(1996年刊行)第13回講談社エッセイ賞受賞。以後旺盛な執筆活動を始める。4月から翌年3月までNHK教育テレビ『ロシア語会話』の講師を務める。 2000年 12月、東京都内から鎌倉に転居。 2001年 こまつ座『父と暮せば』モスクワ公演の字幕のため全編ロシア語に翻訳。 2002年 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年刊行)で第33回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 2003年 母・美智子亡くなる。誤嚥性肺炎、享年80。時を同じくして万里に癌が見つかる。初の長編小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年刊行)で第13回Bunkamura ドゥマゴ賞受賞。解散の危機をむかえたロシア語通訳協会をたてなおすため、再度ロシア語通訳協会の会長を務める (〜06年) 2006年 5月25日、鎌倉の自宅で死去。卵巣癌、享年56。 戒名は「浄慧院露香妙薫大姉」。 受賞歴 1992年 報道の速報性に貢献したとして、日本女性放送者懇談会SJ賞受賞 1995年 『不実な美女か貞淑な醜ブ女スか』読売文学賞受賞 1997年 『魔女の1ダース 正義と常識に冷や水を浴びせる13章』講談社エッセイ賞受賞 2002年 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』大宅壮一ノンフィクション賞受賞 2003年 『オリガ・モリソヴナの反語法』Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞 |
うかつながら、生前の彼女のご活躍を、ほとんど知りませんでした。
ゴルバチョフやエリツィンの同時通訳としての、語り草となるほどの通訳ぶりも、うっすらとした記憶しか残っていません。
スケールが大きくて機知に富み、読み始めるとその破天荒さにぐいぐいと引きつけられ、ほとんど癖になってしまいそうな、その極上の著書も、実は、没後になって初めて読んだ次第です(冷や汗)
さらにうかつなことに、彼女が米原昶さんの長女だと知ったのも、没後のことでした。
奇妙なことに、妹さんのユリさんの存在の方を、早くから知っていました。作家、井上ひさしさんの再婚相手の料理研究家という肩書きで、ゴシップ的に報じられた際に、父米原昶さんの名とともにインプットされたのでした。
その井上ユリさんが、最近、姉をしのんで著作を刊行されたそうです。
出版社の書籍紹介にこうありました。
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163904542
http://hon.bunshun.jp/articles/-/4797、
プラハでのソビエト学校時代を共に過ごし、最後まで近くで看取った妹、井上ユリ氏(故・井上ひさし夫人)が綴る、姉・米原万里の思い出。 ロシア語通訳であり、その体験を生かして綴ったエッセイやノンフィクションで読売文学賞、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した米原万里氏は、食べることが大好きだった。その食べる速度の速さも量も、実は父親ゆずり。米原家の血なのか!? プラハの小学校時代、レーニンの映画を観ては一緒にじゃがいもと卵をゆでて貪り、のちに椎名誠を読んでは時間差でカツ丼を食べに走り、姉・万里の思い出はいつも食べ物と分かちがたく結びついている。プラハの黒パン、ソーセージ、鶏卵素麺、チェコの森のキノコ、父の味・母の味、「旅行者の朝食」や「ハルヴァ(トルコ蜜飴)」など、食をめぐる名エッセイの舞台裏を明かす、米原ファン垂涎の一冊。2016年5月で没後10年となる米原万里の著作を振り返りつつ、新たなエピソードを紹介するユニークな回想録。 家族の蔵出し写真も多数収録。 |
一部引用します。
智頭ゆかりの作家「米原万里展」 ロシア語通訳で作家の米原万里さんの生い立ちや作品を紹介する「米原万里展」が開催されます。 ゴスペルと共に幕を開け米原万里さんの実妹井上ユリ氏(故井上ひさし氏の妻) の講演会、11月7日にはT BSアメリカ総局長金平茂紀氏の講演会、他ジャズパンド演奏、琴とヴィオラのコラポ演奏、オカリナコンサート、朗読会と週末イベントは盛り沢山です。{中略) 外国で想う故郷の風景 米原万里 私は東京生まれですが、子どもの頃、夏休みには必ず父の生家のある智頭町で過ごしました。父の遺骨の一部は、祖父や祖母や叔父たちのそれとともに、智頭町の米原家代々の墓に納められていますし、今もわたしの本籍は智頭町にあります。 小学校三年から中学二年までの五年間、父の赴任先だったチェコのプラハに一家で移り住みました。当初は、 異国での生活に慣れるのに必死でしたが、落ち着いてくると、無性に日本が懐かしくなってきます。 日本を想う時に、真っ先に浮かぶ風景は、緑濃い杉に覆われた山々、川のせせらぎでした。そう、智頭町の風景なんですね。 日本にいる頃は何とも想っていなかったのに愛おしくてたまらなくなった。 それに、食べたくて食べたくて:夢にまで見た食べ物は、鮎寿司と松葉蟹、それにあごちくわでした。 十四歳の冬に帰国して真っ先に両親とともに智頭の祖父に会いに行きました。岡山で乗り換えた列車が徐々に山奥に入っていき、車窓から無数の杉の木が見えてきたときは、体の芯から震えが湧き起こってきて、 止まらなくなった。それはど興奮しました。これが、わたしにとっての故郷なんだ、と思いました。 (1998年12月発行鳥取NOW40号に掲載) |
「食べることが大好きだった」という万里さんの姿が浮かんできますし、本当のふるさとと感じる智頭への愛着がしみじみ伝わってきます。とくに「岡山で乗り換えた列車が徐々に山奥に入っていき、車窓から無数の杉の木が見え」てくるシーンは、ありありと目に浮かびます。
智頭宿・智頭街道の旅がきっかけとなって、話題はひろがるばかりで、収拾がつきません。故井上ひさしさんの「ひょっこりひょうたん島」に始まる作品鑑賞から九条の会の活動まで、話題を広げたくてうずうずしているのですが、それはのちの機会に譲ることにします。
このシリーズのしめくくりに、最後にひとこと、ウィキペディアの記事をお借りします。
エピソード 兄の穣は元衆議院議員相澤英之後援会の鳥取支部長を務めており、米原家内は思想信条が相反する自民、共産両党とで支持が分かれていた模様。このことについて相澤は「同じ家でも支持する政党が分かれ、自由にモノが言えるというのは、とても民主的である」と発言している。 |
おや、もう庭の紫陽花が咲いています。よくよく考えれば六月ですもの。
散歩道も、いつしか花盛り状態です。
イトトンボ。
ナミアゲハ。庭のナンテンの花に止まっています。
今日はこれにて。
2016-06-02 23:08
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米原万里さんの「食」に関するエッセイを読んだ事があります。
もう亡くなって10年ですか、早いですねぇ。
by johncomeback (2016-06-03 16:17)
私は(kazgさんはご存知のとおり)言語に興味があるので、米原万理さんの著書からたくさんのことを学び、その思想からもいろいろ影響を受けました。でも、智頭町とのつながりは全く知らなかったので「へえぇ」と思いました。
米原さんのお友達のイタリア語通訳「シモネッタ」こと田丸公美子さんの本はお読みになったことがありますか。・・・と言いながら私は1冊しか読んだことがないのですが、おもしろかったです。
by Sparky (2016-06-03 18:06)
johncomeback様
本当に。はやいものですね。
by kazg (2016-06-03 21:47)
Sparky様
「シモネッタ」さんの著書、気になっているのですが、まだ(!)読んでいません。いつか、きっと読みたいなと思います。
by kazg (2016-06-03 21:52)