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白く紅く木の花匂ふ森しづか [友人]

この季節、山には白い花が映えると、アキコ夫人がおっしゃっていたとイチローさんがおっしゃいます。この日、アキコさんは、靱帯損傷の怪我が癒えきらず、山歩きは遠慮された由でした。
しからば、白い花の情報をお土産にしようという次第。
ここにも、山法師(ヤマホウシ)が花盛りでした。



ここにも白い花。



親切に説明板が設置してあります。
沢蓋気(サワフタギ)、別名綿織木(ニシゴリ)だそうです。テニスの名手も、一族でしょうか?

これも白い花。







藪手鞠(ヤブデマリ)だそうです。
剪定ばさみで整えたような風雅な樹形です。





白ばかりでなく、ピンクの花も目につきます。











あれは何だろうという話題に反応して、当て推量に「ウツギの一種かな?」と言ってみますと、サブローさんも肯いて、「県外の友人が.白いウツギは見慣れているけどピンクのは珍しいという。我が家の周りの山にもたくさんあるので、枝を切ってあげた」とのこと。

そういえば、過去に記事でも、ウツギの種類について、聞きかじりを書いていました。

卯の花を簪にアジアイトトンボ

長くなりますが、一部を再掲します。







 マクロレンズを持って深山公園に行った時、目を引かれたこの花。



「ウ
ツギの花」と表示がありましたが、そういえば、幹が空洞なので空木(ウツギ)と名づけられ、「ウツギの花」がつづまって「ウノハナ」と呼ばれるようになっ
たとか、「ウノハナ」が野山を一面に彩る季節を「卯月(ウヅキ)」=旧暦四月の異名とよぶようになった、などの知識は、耳にもし、人にも語った事があった
はずでしたが、すっかり忘れておりました。

翌日、田舎の実家に帰る途中、ちょっとだけ立ち寄った「自然保護センター」でも、あちらこちらにこの花が咲いておりました。







同じ「ウツギ」の名がつく木に、幾つもの品種があるそうですね。この紅白の色鮮やかなのは、「源平ウツギ」?---「ハコネウツギ」でよろしかったかしら?



最初に紹介した真っ白い「ウツギ」=「ウノハナ」は、ユキノシタ科だけれど、この「ハコネウツギ」はスイカズラ科タニウツギ属だそうですね。赤い花を咲かす「タニウツギ」もよく庭木などとして珍重されるそうです。

ころで、昔(結婚したばかりの二〇代の頃)、ご近所さんからウツギの株を戴いて、各地を引っ越しする度に移植に移植を重ねてきました、丈夫な木で、ほとん
ど世話もしないのに、初夏(梅雨)の頃、律儀に可愛い花を咲かせてくれていました。余りに丈夫な木なので、切り詰めるだけ切り詰めて、世話らしい世話もし
ないでいるうちに、いつの間にか枯れてしまったようです。思えば、不憫なことをしました。
今では不確かですが、それは「タニウツギ」だったでしょうか?
芭蕉の「奥の細道」に登場する「卯の花」は、冒頭の写真の真っ白いウツギの花でしょうね。




「白川の関」     奥の細道

許なき日かずかさなるまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心を
とゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。
古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良 


【解釈】
わたくし芭蕉は、旧暦の四月二十日(新暦六月七日)、那須湯本から芦野の「遊行柳」を経て更に北へと旅し、国境をめざし、そのまま奥州街道を北へ歩いて白河(白川)領に入りました。

たくしは、3月に江戸を出発しました時から、歌枕(つまり古歌に歌われた名所)としてチョー有名な「白川の関」を訪ねてみたいとずっと思っておりましたの
じゃ。とっく昔に廃止されて何百年も経っておりますから、その場所は言い伝えによるしかないのですが、このあたりだったことは間違いありますまい。 
なかなか旅に慣れることができず、気持ちばかりがはやって着かない日々を重ねるうちに、目的の白河の関にさしかかり、ようやく本腰入れて長旅を続ける心構えが定まりましたわい。
むかし、平兼盛が、「たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと(「拾遺集」)」と、何とかして関越えの感動を都の人に知らせたいと歌ったのももっともですなあ。
 
数ある中でもこの関は、奥州三関の一つに数えられ、風雅を求める人が心を寄せた場所ですじゃ。わたくしの尊崇する旅の歌人西行法師も、「白河の関屋を月の
もるかげは 人の心をとむるなりけり(「新拾遺集」)」と詠んでおりますわい。また、能因法師が、「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関
(「後拾遺集」)」と詠んだ「秋風」の音を耳に聞き、同時に、「都にはまだ青葉にて見しかども 紅葉散りしく白河の関(「千載和歌集」)」という源頼政の
歌の「紅葉」を思いながら、眼前の青葉のこずえをながめていると、実にしみじみと心が動かされることですぞ。
折しも目の前には、青葉の中に卯の花が真っ白に咲いているところに、茨が白く咲き添って、まるで雪の中を、関を越えているような心地がいたします。ホント、いろんな季節がいっぺんに楽しめるようですわい。
この関を通るとき、古人(竹田大夫国行)は(能因法師の歌に敬意を表して)冠を正し、衣装を改めたと言うエピソードが、藤原清輔の「袋草紙」に書きとめられているそうですな。わたくしら一行にはその用意もありませんので、同行の弟子、曽良がこう詠んだものでした。
やつれた旅姿の私どもは、晴れ着の持ち合わせもございませんから、せめて卯の花をかざし(=かんざし。髪飾り)にして関を通ることにいたしましょうぞ。


そういえば、『奥の細道』では、奥州平泉を訪ねた場面でも、卯の花が登場します。

「平泉」の段については、以前、この記事でも触れたことがありましたが、今回はもう少し長い引用におつきあいください。

平泉

 
三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河
なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、えぞを防ぐと見えたり。さても、義臣すぐ
つてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり。」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。
  夏草やつはものどもが夢の跡
  卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曾良 


【解釈】
   平泉
 奥州藤原氏三代の栄華も一眠りの短い間の夢のように、すっかり滅びて潰(つい)え去り、見渡せば、平泉館の大門の跡が一里ほど手前にあるわい。秀衡の住んだ館の跡は田野となって、彼が築いた金鶏山だけが当時のままの姿をとどめておる。
かくまわれた義経らの住まいであった高館に、まず登ってみると、北上川が眼下に見えるのお。これは南部地方から流れて来る大河じゃ。衣川は、忠衡の居城であった和泉が城を巡って、高館の下で北上川に流れ落ちておる。
泰衡らの住まいの跡は、衣が関の向こう、南部地方からの出入り口を固め、外敵の侵入を防ぐと見受けられる。
それにしても、義経は忠義の家来を選りすぐって、この高館にこもり、奮戦して名声を轟かせたが、それもひとときの夢と消え、その戦場のあたりは、いま、夏草が生い茂る草原となっておるわい。
国はほろびたが、山河は以前と変わらずにある。町には春が来て、草は青々と生い茂っている。」と、杜甫の「春望」の詩の一節を口ずさみ、笠を敷いて腰を下ろし、長い時間涙を落としてしまいましたよ。
その場で詠んだわたくしの句はこれです。
青々と生い茂る夏草!この野原は、昔、義経主従らが功名を求めて奮戦した末に、はかなく消えた名残の場所であることよ。

同行の弟子、曾良はこの句を詠みました。

白く咲く卯の花を見ていると、昔ここ高館で、主君義経のために白髪をふり乱して奮戦した老将兼房の姿が浮かんでくることだよ。            


これがピンクの花だったら、紅顔の若武者を連想させたかもしれませんね。

念のためにウィキペディアを参照してみますと、タニウツギについてこうありました。







 タニウツギ(谷空木、学名:Weigela hortensis)はスイカズラ科タニウツギ属の落葉小高木で、田植えの時期に花が咲くので「田植え花」としても知られる。梅雨の時期に山道を通ると新緑の中で咲くピンクの花はひときわ映えて見えるので見つけやすい。

やはり、タニウツギで正解でしょうかね?



ところで、いつものことながら、この散策の企画と運営をすべて取り仕切ってくださたヨシミさんから、ちょっと前、この同様の歌詞について尋ねねられたことがありました。彼女は、しばしば、ギター片手に歌声のボランティアをしておられますので、みんなでこの歌を歌う際に、歌詞が気になったということらしいです。





歌詞 『夏は来ぬ』

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて

忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の

窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ


特に、3番の「 窓近く 蛍飛びかい おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ」の歌詞の意味が、おたずねの中心でした。

そういわれるとこの歌、一番の歌詞はなじみが深く「夏は来ぬ」の「きぬ」「待てど暮らせど来ぬ人の宵待草のやるせなさ」の「こぬ」を見比べて、古典文法の説明によく使いますから。

たとえばこの記事(秋立つやなまあたたかきかぜなれど)では、こんな説明をしています。

 「来ぬ」は、「きぬ」と読みます。カ行変格活用の「来(く)」の連用形に、完了・強意の助動詞「ぬ」の終止形がついたもので、「来た。来てしまった」の意味になります。

もしこれを「こぬ」と読むと、 カ行変格活用の「来(く)」の未然形に、打消の助動詞「ず」の連体形がついたことになり、「来ない」の意味になります。


「ぬ」は連用形接続、「ず」は未然形接続の助動詞ですから。→試験に出るよ(笑)。

2番目以降の歌詞は、見たことはあったにしても、しっかりと記憶にとどめてはいないことに気づきました。おたずねの箇所などは特に、意識もしていませんでした。

とりあえずは、こんな返事を返しておきました。
 おこたりは、怠り、つまり怠けることでしょう。蛍雪の功のエピソードが踏まえられていて、蛍が学問への怠け心を諌め、叱咤激励してくれるというようなことでは?こんな歌詞があること気がつきませんでしたが。

道中、これを話題に「夏は来ぬ」談義に少々時間を費やしました。

その話題の一つ。この同様の作詞者が、佐佐木信綱であったこと。

その孫(間違えてこと言ってしまいましたが)佐佐木幸綱は、俵万智の師であったことなど。

調べてみると、佐佐木信綱の出身地鈴鹿市のHPに、佐佐木信綱記念館のページがあり、こんな記事が掲載されていました。

 明治5年6月3日、佐々木弘綱(文政11~明治24年)の長男として、信綱は現鈴鹿市石薬師町に生まれ、6歳(以下、数え年)までを過ごしました。信綱は5歳より、父弘綱から「万葉集」や西行の「山家集」の歌を暗唱するよう教えられ、6歳の時に初めて短歌を作りました。
 信綱は6歳から短歌を詠みはじめ、生涯に1万余首を作歌し、第1歌集『思草』(博文館 明治36年)から第9歌集『山と水と』(長谷川書房 昭和26年)や『佐佐木信綱歌集』(竹柏会 昭和31年)など、多くの歌集を刊行しました。また、明治30年頃より竹柏会を主宰し、機関誌『心の花』の創刊(同31年)や門人の育成・指導にあたるなど、歌人として活躍しました。
 一方、信綱は学者として、特に万葉集の研究者として、不滅の大業というべき『校本万葉集』(校本万葉集刊行会 大正13~14年)を刊行するなど、万葉集の研究と普及に尽力しました。
 そして、昭和12年4月28日、信綱は第1回文化勲章を受章しました。信綱は和歌・和歌史・歌学史の分野で認められ、66歳で受章となりました。
 このほか、信綱は忙しい著作の合間に、唱歌「夏は来ぬ」(小山作之助作曲)や童謡「すずめ雀」(滝廉太郎作曲)、軍歌、北海道から九州までの学校校歌等の作詞を多数手がけました。
 晩年は、静岡県熱海市の凌寒荘へ移り、約20年間過ごしました。この間、歌人・万葉学者としての集大成である著作物の数々や、『ある老歌人の思ひ出』(朝日新聞社 昭和28年)などの自伝をまとめました。
 昭和38年12月2日、信綱は凌寒荘にて92歳で亡くなりました。信綱はその一生を歌道と万葉集研究に捧げ、多くの業績を残しました。

■信綱は、なぜ「佐佐木」か?

 信綱は明治36年(32歳)、中国へ遊学をしました。
 その時に上海で名刺を作りましたが、出来上がってきた名刺は、紅唐紙(縦約24cm×横約12cm)に「佐佐木信綱」と印刷されていました。

 この名刺を見て信綱は「見た目がよい」と大変気に入り、以後の著作物などに好んで「佐佐木信綱」と使うようになりました。

さて次回は、この佐佐木信綱つながりの記事を少々書く予定です。



今日の午後、参議院選挙に向けた演説会があります。

野党統一候補の黒石健太郎さんが登場します。

日本共産党市田忠義副委員長も。

その市田さんのHPにこんな記事を見つけました。胸を打たれましたので無断で紹介させていただきます。

 母の句集に寄せて

 七十歳を過ぎてから短歌を作り始めた義父(妻の父)が、人生の証にと歌集「朝暮」を自費出版した。今年で八十八歳、米寿である。全くの偶然だが私の母も今年米寿をむかえた。けっして上手とはいえないが母は俳句を作る。
 父亡きあと、必死で働きながら私たちを育ててくれた母。なんの親孝行もせず、逆に心配ばかりかけてきた。せめてそのつぐないに句集でもと思いたち、妻や兄弟に相談したところ「それはよい、父と母の米寿を祝い、歌集と句集の出版記念会でもやろう」と話がまとまった。
イラスト  昨年夏の参議院選挙、京都市長選挙、そして今年の総選挙と知事選挙。私にとっては多忙きわまる時期であった。しかし、仕事のあいまをぬって滋賀県の実家に帰って母の作った俳句や短歌のノート、同人誌「木耳」などをもちかえった。選挙の連続で帰宅は深夜になることが多かったが、晩酌をしながら夜中に母の作品を整理するのは私の楽しみでもあった。
夜学び昼は勤めて得しお金肉など買えと送りてくれぬ
母がこんな歌を創っていたことなどまったく知らなかった。私が法律事務所や龍谷大学の図書館に勤めながら立命の二部に学び、わずかばかりの仕送りをしていた頃の歌だと思う。おもわず涙がこぼれた。
新しき学生服やピカピカの自転車届く暮れの園舎に
これは、母が幼稚園に住みこみで用務員として働いていた頃の歌である。高校一年だった私と中学一年の弟も一緒に住みこんでいた。高校を卒業して京都に就職していた兄が私に通学用の自転車を、弟には学生服を送ってくれた。とびあがって喜んだことを昨日のことのように思い出す。
我に似ず目鼻調う子に生まれ婚期来たれど嫁ぐといわず
父が死んだため、恋人との結婚を先にのばし、旭村役場(現在の五個荘町役場)につとめて一家をささえてくれていた姉のことをうたった歌である。
母は「まえがき」に「兄は弟を可愛がり、娘は父亡き後の一家を支え、文字どうり家族が肩を寄せ合って生き抜いてまいりました。」と書いている。
母のいうとおり、とくに姉と兄、そして現在滋賀県で母と一緒にくらし、世話をし てくれている弟夫婦には私自身も感謝の気持ちでいっぱいである。
いろんなことを心の中で思いめぐらしながら必死で整理した。
母はなかなか達筆だが楷書ではないし、変体仮名を使うのでノートや手紙の字は私には読みづらい。「この字はなんと読むのか」とよく母に電話をした。ふだんは、二、三ヵ月に一度ぐらいしか電話をかけないが、句集発行のおかげで月に何度も母の声を聞くことができた。
「忙しいのにすまんなあ」と恐縮しつつ、母も私の声を何度も聞いて喜んでくれている様子であった。
とにかく、ようやく一冊の本にまとめることができてホッとしている。俳句としてのできばえがどうかは素人の私にはよくわからない。季語のない句もある。本人も、「本にするようなものではない、はずかしい」といっていた。しかし、つたなくとも母にしか表現できないなにかがにじみでていて一つひとつの作品が私の胸をうつ。
母思い汲み置きくれし水槽の水一滴も無駄に使はず 
迫りくる積乱雲におびえつつ車引く足いとどせかるる
はじめに書いたように母は幼稚園の用務員として、住み込みで働いて私たちを育て、学校へかよわしてくれた。園児たちが手を洗ったりするための水槽に、手おしポンプでくみ出した水をいっぱいためるのが、毎朝の私と弟の仕事であった。母が病気のときは学校を休んで、少し離れた小学校へリヤカーをひいて給食をとりにいったこともあった。
この頃の園児たちが、二十年、三十年たった今も、時々嫁ぎ先から郷里にもどってくると母に「お元気ですか」「長生きしてくださいね」と激励にきてくれるそうである。
母は自分の子はもちろん、人の子も自分の子供のようにかわいがった。そして自分も貧乏をしているのに、困っている人をみるとじっとしておられない性格である。
人間にも動物にも自然にたいしても、――この世のすべてにやさしく、あたたかい。それが俳句にも短歌にもにじみでているように思う。
病む足も忘れ夕餉の一刻はギターに合せ我も唄えり
百万の富よりなお尊きは母子団欒(まどい)の夕餉一刻
食後の団らんの際に母から教わったことは多い。昔から小説や歌をはじめ本を読むのが好きであった。大変なロマンチストでもある。学校で習ったことよりも母から聞いた昔話や故事、ことわざの方をいまもよく覚えている。「人間万事塞翁が馬」だとか「燕雀何んぞ鴻鵠の志を知らんや」などということばはたしか幼い頃、学校で学ぶより早く母に教わったように思う。
母はまた「影をしたいて」「国境の町」など藤山一郎や東海林太郎の歌が大好きで、よく一緒に唄ったものである。
気が弱く涙もろいが、正義感が強く、まがったことがきらいなのも母の特徴である。
私が竜大の図書館をやめ日本共産党の専従活動家になったとき「なにもお前がせんとうにたたなくとも」と当初はしぶっていたが、いまでは心から応援してくれている。
まだまだ反共風土の根強い滋賀県の田舎で「忠義さんはどこにお勤めですか」と近所の人に聞かれて「日本共産党です」というのは、はじめはいいづらかったにちがいない。しかし今は、「なんにも息子は悪いことはしていない。人のため、世のためにがんばっている」と胸をはってのべているそうである。
私は実に多くのことを母から学んだように思う。兄にも姉も弟もおそらく同じ気持ちだと思う。
あらためて心から「ありがとう、お母さん」といいたい。
米寿とはいっても現在の平均寿命から考えればそんなに年老いたわけではない。大西良慶さんの例もある。いつまでも元気で長生きして俳句をつくりつづけてほしいし、子や孫たちを見守ってほしい。
そしてこんどは白寿を記念して第二の句集をもう一度みんなでつくってみたいと思う。
               1990年5月     市田 忠義 
(この文章は、市田志ん句歌集「幾山河」のあとがきとして書いたものです。なお母は、1993年6月、89歳で亡くなりました)

今日はここまで。
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コメント 2

yakko

こんにちは。
大変 勉強になりました(_ _)
by yakko (2016-06-11 14:53) 

kazg

yakko様
イエイエ、お恥ずかしいです(汗)
by kazg (2016-06-11 21:52) 

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