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白蓮とくちなし夫人と紅い薔薇、の巻 [文学雑話]

芥川龍之介の「或阿呆の一生」は、中・高校生の私には難解でちんぷんかんぷんでした。







 一 時代



 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

この一節は印象深く、かろうじて理解できました。「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」のフレーズは「芸術は長く人生は短し」という警句とごっちゃになって私の記憶に残っています。

次の章「二母」あたりからから、もう難渋します。

事実なのか虚構なのか、現実なのか妄想なのか定めがたく、見知らぬ道で迷子になった心細さを覚えたものでした。以来読み返そうとも思わないで過ぎました。

今、久米正雄宛に書かれた冒頭文を読んでいて、少し景色が変わって見えました。

「君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。」

ああそうなのか、インデキスなしに読もうとすることは、攻略本なしにゲームに挑むようなものなのか、と納得できて、安心したのでした。あいにく私は、ゲームに挑んだことも、攻略本を手にしたこともありませんが、、、。







 三十三 英雄



 彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亜人が一人、執拗に山道を登りつづけてゐた。

 ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……

――誰よりも十戒を守つた君は

誰よりも十戒を破つた君だ。

誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上つた君は

誰よりも現実を知つてゐた君だ。

君は僕等の東洋が生んだ

草花の匂のする電気機関車だ。――

これは、高校時代の友人が抜き書きしていました。「レニン」つまり「レーニン」をさすとわかれば、腑に落ちました。芥川の、というようりも当時のインテリゲンチアの、ロシア革命革命への屈折した愛着と共感、そしてかすかなおびえの空気が感じられました。



ごく最近、というよりもまさにこの数日、偶然目にしたインデクスをヒントに、少しわかったことがありました。(すでに、広く知られた事実なのかもしれませんが)。







三十七 越し人



彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

風に舞ひたるすげ笠の

何かは道に落ちざらん

わが名はいかで惜しむべき

惜しむは君が名のみとよ。 



この「越し人」とは、芥川晩年の(精神的な)恋人、片山廣子(ペンネーム・松村みね子)をさすと言います。広子は、芥川より十四歳も年上、大きい子どももありました。

このあたりの事情については、この「小さな資料室」というHP(http://www.geocities.jp/sybrma/index.html)に詳しい考察があり、参考にさせていただきました。「リンクフリー」とありましたので、勝手ながらリンクを張って紹介させていただきます。

そのページの一部を引用します(http://www.geocities.jp/sybrma/09ryuunosuke.html)。







  吉田精一氏は、この女性をM女史として本名を出しておられませんが、この人は明治11(1878)年生まれの片山廣子(ペンネーム・松村みね子)という人で、佐佐木信綱に師事する『心の花』の歌人であり、アイルランド文学の翻訳家でもありました。旧姓吉田。東京に生まれ、東洋英和女学校を卒業、後の日銀理事片山貞次郎に嫁いで片山姓になりました。芥川が廣子と知り合った大正13年(1924)当時、芥川は32歳、廣子は46歳、未亡人になって(大正9年(1920)3月14日、夫貞次郎死去)4年を経ていました。

 堀辰雄の『聖家族』は、芥川の死と作者自身の恋愛体験を素材にした小説で、作中の細木(さいき)夫人は片山廣子(松村みね子)を、九鬼は芥川を、扁理は堀自身をモデルにして書かれたものだそうです。



また、http://www.geocities.jp/sybrma/338ryuunosuke.koshibito.htmlには、こうあります。







 「侏儒の言葉(遺稿)」の中の「わたし」の一つに、次の言葉があります。(354頁)                

又 わたしは三十歳を越した後、いつでも戀愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情 詩を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道德的にわたしの進歩し
たのではない。唯ちよつと肚の中に算盤をとることを覺えたからである。

片山廣子(松村みね子)は、38歳で出したその第一歌集「翡翠(カワセミと読みます)」に



空ちかき越路の山のみねの雪夕日に遠く見ればさびしき



の歌に始まる「軽井沢にてよみける歌十四首」という連作を掲載しています。

芥川が、大正14年(1925)3月1日発行の雑誌『明星』第6巻第3号に発表した「越びと 旋頭歌二十五首」は、これと対応する相聞歌(恋の贈答歌)となっています。

二十五首の冒頭にはこんな歌が置かれています。



あぶら火のひかりに見つつこころ悲しも

み雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ



「越路のひと」が誰をさすかは明白です。



彼女の文学的才気を高く評価し、精神的に強く惹かれた芥川は。彼女を「クチナシ夫人」と呼んだそうです。

クチナシといえばなんと言っても渡哲也が歌った「くちなしの花」の甘く薫る白い清楚なイメージが秀逸です。







 いまでは指輪も まわるほど

やせてやつれた おまえのうわさ

くちなしの花の 花のかおりが

旅路のはてまで ついてくる

くちなしの白い花

おまえのような 花だった

でも、芥川の命名は、そういうことではなかったようで、「くちなしや鼻から下がすぐに顎」という落語のネタとさして変わらぬ地口(言葉遊び)のたぐいであったようです。つまり、クチナシは、口がないと洒落て、「悪口を言わない人」とほめたのだそうです。人柄を彷彿とさせるエピソードです。

庭のクチナシは、まだつぼみです。









さて、佐佐木信綱つながりでご登場いただいた片山廣子は、すでに我われと旧知の間柄にあるもう一人の人物ともつながります。同じ東洋英和女学院の卒業生で、15歳年下の村岡花子です。彼女も又、柳原白蓮の紹介で佐佐木信綱の門人となった縁で廣子と出会います。高等科在学中の彼女に児童文学への道を薦めたのは、アイルランド文学翻訳家でもあった廣子だといわれます。そのころ、彼女は毎週のように廣子の家を訪ねて本を借り、文学を志すきっかけとなりました。







 片山廣子さんが私を近代文学の世界へ導き入れて下さった。そうして、その世界は私の青春時代を前よりももっと深い静寂へ導き入れるものであった。けれどもこの静かさは、以前のような、逃避的な、何者をも直視しない、正面からぶつかって行かない「精神的無為」の静かさではなくして、心に深い疑いと、反逆と、寂寥をたたえた静かさであり、内面的には非常に烈しい焔を燃やしながら、周囲にその烈しさを語り合う相手を持たないことから来る沈黙であった。『改訂版生きるということ』より「静かなる青春」(村岡花子)


 1926年5月、花子は、自宅に設立した青蘭社書房の最初の童話集「紅い薔薇」(あかいばら)を刊行します。その前書きにこう書いています。







 「おかあさん――お噺(は なし)してちやうだい」今年七つになる私の子は明暮れに、かう言うては私の許(もと)へ飛んで参ります。

また、そのころ白蓮に送った手紙に、こう書いています。







 この間お持たせするのを忘れた『紅い薔薇』を今おめにかけます、

 私は相変わらず子供のオハナシを書いています。

 香織ちゃんにもどうぞ『紅い薔薇』の中の噺を聴かせて上げてちょうだい。

 うちの坊やには、この中のものはみんな幾度も幾度も話して聴かせたのよ。

 私の坊やは私の原稿の校閲掛りです。

 『童話集紅い薔薇』と銘打って出たこの本はつまり坊やと私の幸福な生活の反映なのです。

 どうぞあなたもこの本を可愛がってやって下さい。

 私の坊やが喜んで聴き、おさない心ながらに感激もし、共鳴もし、笑いもしたもの、きっとあなたの香織ちゃんにも、そして世の中の大勢のお子さんたちにも、 よいたましいの糧となると信じております。

 「まあ花ちゃんが大した気焔をはくこと」とあなたお笑いになりますか? 

 気焔じゃありません、これは信念なのよ、

 信念が無けりゃ、仕事は出来ないじゃありませんか。

しかし、数えで7歳、満5歳のひとり息子、道雄 さんは、その9月、疫痢に冒されて急逝してしまいます。

その悲しみから立ち直るきっかけとなったのは、廣子から贈られたマーク・トウェイン作”The Prince and the Pauper"だったといいます。後に『王子と乞食』として翻訳出版されたこの本は、花子にとって記念碑的な作品となっています。

種松山公園の紅い薔薇の写真です。













ついでに、黄色い薔薇も。











信綱の門人シリーズ、まだ続きます。

今日はこれにて。

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コメント 2

hatumi30331

クチナシ、咲いて来たね〜♪
1階の花壇のクチナシの香りが11階まですることがあります。
良い匂い。^^
by hatumi30331 (2016-06-14 17:21) 

kazg

hatumi30331 様
クチナシの甘い芳香、格別ですね。
by kazg (2016-06-15 05:34) 

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