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取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻 [今日の暦]

今日は何かと時間に追われる一日で、よほどブログ更新はお休みしようかと思ったのですが、「今日は何の日」の話題に一言触れないわけにはいかないと思い、取り急ぎ雑文を綴ります。
きょうは、「岡山空襲の日」です。
ウィキペディアの記事を借ります。


 岡山空襲(おかやまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)6月29日の午前2時43分から午前4時7分にかけてアメリカ軍により行われた岡山県岡山市に対する空襲。計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された(後述)。この空襲ではアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB-29およそ140機[1]が用いられ、空襲警報が出されず全くの不意打ちであったため死者が1737人にも及んだ。
6月29日には岡山市・佐世保市のほか宮崎県延岡市、福岡県門司市(現:北九州市門司区)が空襲を受け、夜には長崎県佐世保市が空襲を受けた(佐世保大空襲)。

ちょうど今、「第39回岡山戦災の記録と写真展‐空襲とわたしのまち岡山」と銘打って、岡山空襲の実相を伝える展示が、↓ここで明日まで催されています。、

岡山シティミュージアム/岡山空襲 展示室 - 岡山市

また、過去の展示の記録も見ることができます。

・2015年開催【第38回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2014年開催【第37回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2013年開催【第36回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2012年開催【第35回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2011年開催【第34回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2010年開催【第33回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2009年開催【第32回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2008年開催【第31回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2007年開催【第30回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>

・2006年開催【第29回岡山戦災の記録と写真展】(PDFデータ)>>>



岡山空襲に先立つ六月二〇日の水島空襲について、去年はこれら↓の記事を書きました。

もう一つの「今日は何の日」

四歳の目に焼きつきし夏の空
ここには、四才で水島空襲を体験されたM先輩の「手記」を紹介させていただきました。
そして、先日は、一〇才で岡山空襲・終戦を体験された方々の手記をもとにした朗読/演劇に接する機会がありました。


概略は、この記事に書きました。

沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3) 
今日は少し補足をしようと思います。
この朗読/演劇の原作は、 「操山高校五期生の会」が、約二年の月日をかけて編集発行された手記「その時10歳の私は」。





実は、ちょっとしたいきさつから、我が家の本棚に、その冊子を一冊をおあずかりしています。



というのは、この本の編集・発行の中心を担われたお一人が、同業の先輩(しかも職場も長くご一緒していただきました)の高垣章二さんで、昨年夏の同業者の作品展(この記事参照七夕雑話、

)にこの本を出展されたのですが、片付けの際に、成り行きで私にしばらく保管をゆだねられたのでした。内容を拝読するにつけ、いつかこのブログで紹介したいものと思っておりましたが、このたびの演劇/朗読の機会は、良い潮時と言うべきでしょうか。

舞台の最初のシーンは、校庭らしき広々とした場所に壇が据えられていて、そこに校長が登壇し、全員起立の子どもたちに訓話をたれる場面です。

校長役は、私も親しい同行のお仲間で、地元で演劇活動にも取り組まれているIさんでした。しっかり板について、すごみさえ感じる演技でした。

原作本の冒頭にある「出征する教師を送る」と題された手記が元になっているようです。







天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて還らじと、誓う心の勇ましさ

この歌はかっての日本陸軍の出陣の歌です。私の小学校時代のこの歡にまっわる悲しい出来事(思い出)を、お話ししようと思います。

私は父が満鉄(南満州鉄道株式会社)の技術者であった関係で中国(旧満州国)の撫順という所で生まれ、敗戦後日本に引き揚げて来ました。学校は満鉄の社員子弟のための学校でしたので、生徒は殆んど満鉄社員の子弟で仲間意識が強い集団でした。もちろん生徒は全員日本人でした。
そのような学校が昭和二十年頃から雰囲気が少し変わってきました。

ある日の朝、学校に登校すると学級担任が教室に来て、全員講堂に集合せよとの事、教室前の廊下に整列して識堂に行くと、上級生は全員すでに集つていました。四年生以上の生徒が全員集合すると、
校長と一人の教師が登壇し、校長の話が始まりました。

「まことにおめでたいことに、先生(校長と一緒に登壇した教師)は、お国のために出征されることとなりました。先生のご活躍を析って、本校の教師、生徒全員でお送りいたしましょう。」

そして儀式の最後に冒頭の陸軍の出陣の歌を全員で合唱し、万裁三唱しておめでたい儀式は終了しました。

教師を送る儀式は、この後度々行われ、戦争が激しくなってきたことを肌で感じることとなりました。



たまたま、昨日は、今年の作品展の展示作業日で、かの高垣章二さんも顔を見せておられ、短時間でしたがお話できる時間がありました。

岡山の小学校でも、満州の小学校ほどの儀式はなかったものの、途中で出征していく教師はあった。その後は、まだ十代の代用教員が補充した。とのことでした。

高垣さんの手記は、浦吉ゆかさんが、是非にと希望して朗読された由。最初の文章そのままではなく、朗読用に幾分加筆調整されたそうですが、手記の原文から少し引用させていただきます。







 あの日、あの炎

北の空だけ暗かった。 パラパラと幾つか燃えながら落ちてくる。一つの火がパッと幾つかに分かれて拡がり、また、拡がる。火は次々に落ち、拡がり、空を赤黒く染め、ゆっくりと落ちて来る。”あれが焼夷弾か、燃えながら落ちるんだ。何故あんなにゆっくりなんだろ〟道路わきに造られた防空壕が目に入る。慌てた母親が、私の腕を掴んで引き戻し、耳元で「そんな所に入ったら死んでしまう!」”でも空襲だよ?防空壕に入ると死ぬって?〟母の厳しい表情に思わず言葉を飲み込む。

大勢の人が、道幅いっばいに北に向かって急ぐ。”岡山に、こんなに人がいたんだ〟誰も大声では話さない。ただ急ぐ。”待てよ、あの火の弾は、頭上を通過して後ろの方に、南に流れていく。だから、北に向いて逃げてれば良いのか〟”でも、飛行機は何処かな?B29は?〟と探してみるが機影なし、爆音も聞こえない。と、またもや「何をキョロキョロしてるの!
しっかり歩きなさい!」

道の真ん中でメガホンを持つた男が「道を逃げるな!」

と怒鳴つている。服装から兵隊でも警察でもない、警防団か。”道を逃げるなって?〟「田圃に入つて散らばれ。 バラバラに逃げろ!」”そうか、そういうことか〟今度は私が母親を引っ張って田圃に降りた。

私は、家を出るとき〔あの靴〕で逃げようと決めた。 数日前くじで引き当てた新品の運動靴。 そのため靴紐を通したりと手間がかかった。手早く支度した母親が、外で待っている。っいに、「何をぐずぐずしてるの」と入つて来るや「何故そんなもの履く!」”だって、学級に二足だけ配給があったんだよ。くじで当てたんだ〟「バカね。そんな靴履いて」むっとした私は、”だったら、何を履くの!〟すかさず「長靴を履きなさい」″えっ、ナガグツ…〟と云いかけたが、逆らえる雰囲気ではない。
不承不承、長靴を履いた。

たしかに、まだ水こそ入つてはいないが、田植え前の田圃、〔あの靴〕で田圃に入る気にはならなかったろう。


こうして九死に一生を得て、避難先から戻ってくると、途中で風向きが変わったおかげか、家は奇跡的に焼け残っており、あの運動靴も無事。ところが、喜んで履いてみると、何日もしないうちに靴底が破れ、粗悪なボール紙がのぞく始末。落胆の顛末が思い出となったそうです。「運動靴一つが、どんなに貴重に思えたか、今の子どもにはわからないだろうね」と、笑っておられました。

浦吉ゆかさんについての話題も、興味津々でした。

高校演劇の全国大会は、県予選・中国大会を経て、翌年度行われるので、予選を勝ち抜いた有力メンバーが卒業して、新しい体制で挑むことになるのですが、玉野高校が初めて全国大会に出場したとき、浦吉さんは一年生で出場することになったとか。演目は「鬼よさらば」以前この記事で、ちょっと話題にしたことがありました。

昨日の「今日の暦」---「パパママバイバイ」のこと

こんな事を書いていました。







 手元には「鬼から鬼へ」と題する玉野高校演劇部創作脚本集(玉野高校演劇部OB会発行)という冊子がありましたので、改めてひもといてみました。若者の感受性と正義感の確かさに、深く励まされる思いがします。

P929940520130929_0035.jpg


なお、冊子の「鬼から鬼へ」という標題は1979年の中国大会で優勝し、1980年の全国大会に出場した作品「鬼よさらば」と、1988年の中国大会で優勝し、1989年の全国大会に出場した作品「温羅のうら」にちなんだネーミングなのでしょう。後者は、古代吉備の国「鬼の城(きのじょう)」を本拠地とする鬼=温羅の伝説に題材を採り、平和に暮らしていた吉備王国の心優しい王が温羅(うら)であり、彼らを暴力によって滅ぼした大和朝廷の、歴史の偽造により、後に鬼に仕立て上げられたのではと問うのです


本題に戻ります。

すべてに渡ってご紹介もし、感想なども述べたいところですが、力に余ります。印象的なシーンだけをピックアップしてみます。







 人生最悪の日一愛犬チェリ-との別れ

ある日、町内会長さんが「犬をお国のために供出してください。別れが辛いでしょうがお願いしまずと玄関にに出た母に気の毒そうに云って帰られた。

隣の部屋で間いていた私は「おかあちゃん私いやよ、いやよ」と母のひざをたたいて泣いた。母の私の背中を摩って無言で泣いていた。

我が家の愛犬チェリーは、:私の誕生祝いにと父の会社 の人が贈つてくれた生後二ヶ月位の血統書付きの茶色の柴犬だった。私と同年で一緒に育った。雌なので兄がチェリーと名付けたそうだ。家族全員に良く懷きとても利口
で、家族の誰かが帰つて門に近付くと「ヮンー、ヮンー 」と鳴いて知らせた。

「お父ちゃん、チェリーは連れ.で行かれたらどうなるの」「淑子はもう三年.生だから本当の事を教えよう。戦争で寒い北国で戦つている長隊さんの防寒服に使われるんだよ」「じゃあチェりーは殺されされるの?」「そういう事に.なるな」苦しそうに父は俯いて腕を組んだ。私は目の前が真っ暗になった。

戦争は、一〇才の子どもたちの手元から大切なものを次つぎともぎ取っていき、岡山空襲は、いわばとどめに、街を、家を、家族を、友人を焼き尽くしました。

岡山市のHPに、市内に残る戦災の遺跡というページがあり、こんな記述があります。


 昭和20年6月29日市内中心部を焦土に変えた岡山空襲。
 65年以上経った今でも被災した建築物が各地に残っています。
 現地を訪ねると、当時の惨状を思い浮かべるとともに平和の尊さを感じずにはいられません。




(右写真は『岡山市史 戦災復興編』より)
 岡山市役所の焼け跡の写真
 岡山城石山門跡の写真  

5 岡山城石山門跡(丸の内一丁目)



 



 石山門は、廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、西の丸の石垣と南側の方形の石垣の上に渡り櫓を構えた櫓門で、石垣の間が通路になっていました。
 岡山城廃城の後も残り、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により焼失してしまいました。
 石垣に残る赤茶けた焼け跡が空襲の激しさを今に伝えています。




          平成8年3月説明板設置


 岡山城天守台の写真  

9 岡山城天守台(丸の内二丁目)



 



 岡山城の天守閣は慶長2年(1597年)に竣工、その外観から烏城または金烏城とも呼ばれ、戦災前は国宝に指定されていました。
 昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色してしまいました。
 その後、天守閣は再建され、石垣も一部が修復されたものの、今も焼けて変色したままであり、空襲の激しさを伝えています。




          平成9年3月説明板設置





岡山城も、後楽園も、再建されて現在はこの静かな穏やかなたたずまいを見せていますが、むごたらしく焼け焦がされたのでした。










東京大空襲についても、この記事(昨日の「今日の暦」ーーー3月10日のえとせとら)をはじめ何度か話題にしたことがありますし、イラク、シリア等への空爆のニュースにも、爆撃に焼かれる子どもたちのことが思われてなりません。大昔つくっていたhpの更新履歴に、こんな事を書きました。


  2003.2.15 トップページと作品のページを多少更新しました。

それにしても、イラク・朝鮮半島情勢は、人類史を逆戻りさせる愚劣さです。「ならず者国家」を成敗する先頭を、一番のならず者が突っ走るの図。泣くに泣けず笑うに笑えぬ出来損ない笑劇に、どこまでつきあわねばならないのでしょうか?

「空爆」は、民衆の側から見れば、「空襲」です。逃げまどう民衆を念頭に入れないアメリカの視点は、ベトナム以来変化なしということか?「戦場」が常に自国の外にあったアメリカにとって、逃げまどう民衆の姿はイマジネーションの限界の外にあるのかもしれません。

では、日本の姿勢はどうなの?「悪い政府」の統治下であろうがなかろうが、各地の大空襲とヒロシマ・ナガサキの辛酸を嘗めた日本の民衆の視座からは、「空爆やむなし」の結論は、生まれる余地のないもの。にもかかわらず、NATO傘下のヨーロッパ諸国に比べてさえもふがいない追随三昧。嘆かわしい限りです。



2003.2.26 フランスのリベラシオン紙のコラムは、ブッシュを裸の王様にたとえたと言います。前々からそう思ってました。「王様は裸だよ」の声を、率直に伝えてあげる方が忠義かつ親切というものでしょうに。「お美しい」「お似合いでげす」のおべっかを、自分ばかりか周囲にも強要する幇間(太鼓持ち)の罪は如何?リンク集を緊急編成しました。



2003.4.20 ブッシュさん、3歳児をひねりつぶして、「勝った勝った」と誇っても、誰も腹でケーベツするだけ。ただ、手のつけられない乱暴者のやることだから、顔をしかめて黙って見ているまでのこと。

でも、ブッシュさんは気づいているのかしら?あなたに突如「ならず者国家」の烙印をおされ、第2第3のイラクとしての標的にさらされるおそれを感じている国々が、このイラク戦から何を学ぶか?について。

「力こそ正義」という、ブッシュ流の新しい(実は西部開拓時代以前の未開野蛮な)むき出しの力の政策の前では、国連中心の国際秩序を誠実に遵守することは愚挙であり、ましてや国連査察に誠実に応じたり、大量破壊兵器の廃棄など馬鹿正直に実行するなどもってのほか。細菌兵器、化学兵器、核兵器、無差別テロ攻撃・・・いずれをとわず、物量に勝るアメリカに「軍事的」に対抗する道すなわち無限の軍拡の連鎖、憎悪と報復の連鎖への道をひた走るしかない、と、向こう見ずな破滅的な決意を促したに違いないことを。

ブッシュ=アメリカをジャイアンに喩えた人がいました。ジャイアンは、自分のコンサ-トを誰もが歓迎しているに違いないと信じているのでしょうね。メーワクに感じながら、「いや」と言い出せないのは、ジャイアンに正義が存するからではなく、彼の腕力をはばかる故であることは、誰もが知っています。知らぬはジャイアン一人でしょう、かわいそうなジャイアン。

そして、ジャイアンの正義は、彼の腕力を上回る力(ドラエモン由来の)によってついえ去るしかないのです。ジャイアン少年は、心底、真の友情を求めながら、たまたま他を圧する腕力と粗暴さを備えていたが故に、怯えと追従と憎しみをもって遇されるしかなかったのです。もしも彼が、平凡な腕力の少年であったなら、その純朴な個性はより好ましい輝きを増し、周囲から真に愛され、好ましい友情を獲得できたに違いないのに・・・。

リンカーンの国、ホイットマンを生んだ国、民衆愛と寛容な民主主義の伝統ある朗らかなアメリカが、なぜこんなにも野蛮で狭量なふるまいしかできないのでしょうか。ベトナム戦争への苦い反省も忘れたかのように。ソ連、東欧の自滅をへて、対立軸を失い、「一人勝ち」してしまったことの不幸なのでしょうか?ジャイアンの不幸、孤独との相似が、なにやら真実味を帯びてきました。

これを引用しながら、2013年秋のオバマよ!お前もジャイアンか!の記事ではこう続けて書いています。

 一方、アメリカは、オバマの登場で、人権と民主主義の方向に劇的に舵を切る大刷新が果たされるかと、世界中が期待しました。社会保険制度、医療制度の改善の分野では、たしかに大きな胎動を感じます。

でも、大量破壊兵器である化学兵器を使ったとして、シリアへの空爆に走る姿は、やはりジャイアンでした。「オバマよ、お前もか?」です。


さらに、アメリカCIAによる盗聴の標的が「友人」たちにまで向けられていたことに、激しい怒りが集中しています。


一方、我らが安倍さんは、アメリカのシリア空爆方針を受けて、8月28日の記者会見で、こう述べました。


「日本政府としては、シリアにおいて化学兵器が使用された可能性が極めて高いと考えています。化学兵器の使用はいかなる場合でも許されるものではありません。シリア情勢の悪化の責任は、人道状況の
悪化を顧みないアサド政権にあることは明らかであります。日本政府は、事態の改善のため国際社会と緊密に連携していきます。 」


そして、記者の質問に対しても、たびたび「国際社会との連携」を口にしました。



も、その国際社会はというと、国連は、ロシアと中国の反対で、武力行使に賛同することはなく、アメリカが頼りにしていたイギリスも、議会が武力介入を否決
し、ドイツも米国に協力せず、「国際社会」は総じてイラク空爆に批判的です。その状況の下で、国際社会と連携するとは、アメリカにきっぱりNOということ
でしょうが。日本はやっぱり、性懲りもなくスネ夫を演じるのでしょうかね。



そして、戦争法(安保法制)強行前夜の昨年夏、

ジャイアンとスネ夫に関する覚え書き、の巻

の記事でこう書きました。

 このころは、「安倍さん」と、漢字で表記していました。これまた感慨深いです。

引用だらけのつぎはぎ記事ですが、ひとまず、これにてオシマイ。
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majyo

各地に空襲の日があります。
そして多くの方が亡くなっています。一般人ですね
風化させてはいけないと思います
天に変わりて不義を討つは 子供の頃から耳慣れています
今なら不義はどこなんでしょう?
一億火の玉の精神は、絶対にNOです
岡山空襲の写真は、貴重ですね

by majyo (2016-06-30 20:21) 

kazg

majyo様
日本全国に、本当に身近なところに空襲の傷跡をはじめとする「戦争遺跡が」残っているのですね。数十万人とも100万人以上とも言われる死傷者の一人ひとりに人生があり、生き延びた一人ひとりにも人生がある。これを、実感的に踏まえた上で、戦争と平和の論を立てなければならないのに、アベ一族のそれは、軽すぎますね。
by kazg (2016-07-01 22:09) 

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