SSブログ
<

大橋巨泉、井上ひさし、菅原文太、愛川欽也の言葉に、いま、耳傾ける時。 [折々散歩]


大橋巨泉さんの病状を伝えるニュースが、しばしば流れています。

J-CASTニュースの「テレビウォッチ」では、TVワイドショーの模様をこのように伝えています。

大橋巨泉「週刊現代」コラム最終回「安倍晋三に一泡吹かせたい。野党に投票を」

 毒舌とウイットでならしたマルチタレントの大橋巨泉(82)がいま集中治療室に入っている。20年以上続けてきた週刊現代のコラムを7月9日号で最終回とし、最後の『遺言』は「野党に投票してください」だった。

  コラム「今週の遺言」最終回は、「何時まで生きられるかわからない。休載のお詫びとこれまでのお礼、そしてボクの病状を記します」というリードで、「ボクは今ベッドの上で、女房の寿々子と弟の哲也と3人で、この原稿を作っている」と書いている。
〈中略)

  「彼は恐ろしい野望を抱き、選挙民をナメている」

   司会の夏目三久が「どうご覧になりますか」
巨泉さんらしい

龍崎孝(流通経済大教授)「このコラムの最後に、今の政治状況についてお書きになっています。その内容については読んでいただくしかないんですけれども、ギリギリの状況になっても批判の目を失わずに、さらに発信を続けていられる。われわれも学んでいかないと」と言ったが、肝心の内容には触れなかった。夏目は「巨泉さんらしい結びになってます」といったが、これでは何のことかわからない。

   巨泉はこう言っている。「最後の遺言として一つだけは書いておきたい。安倍晋三の野望は恐ろしいものです。選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせて下さい。7月の参院選挙、野党に投票して下さい。最後のお願いです」

   ネットではすでに拡散しているのだが、テレビでは触れるわけにはいかなかったか。「読んでいただくしかない」とはね。





↑画像はコチラからお借りしました。


大橋巨泉さんは、前回衆院選投票日直前の「週刊現代」コラム(2014年12月13日号「今週の遺言」)でも、こう書いておられました。

 「少なくとも3度目のがんとは戦う。しかし何と言っても3度目だし、年齢ももうすぐ81歳である。それほど長い人生が待っているとも思えない。
 何回も書いたことだが、それ程才能にも恵まれた訳でもないのに、こうして安穏な後半生を送れたのは、ボクの番組を見てくれた諸兄姉のお蔭である。まことに幸運に恵まれたと思う。ただそうした皆さんが、そしてその子孫が、不幸になるのは看過できない。どんなに優しく見えても、巧いことを言っても、安倍晋三の野望は恐ろしいものである。日本を戦争のできる国にしたいのだ。しかし彼は銃を取らない。銃をもって戦場におもむくのは、貴方の子孫です。これだけは何としても喰いとめたい。今回の選挙で勝ったら、4年の間やりたい事が出来る。それだけはストップをかけたいのだ。」
思えば巨泉さんは1934年生まれ。十一歳で終戦を迎えた「焼け跡派」世代で、先日来ご紹介している「その時十歳の私は」の方々とほぼ同世代に当たりますね。
「週刊朝日」 2015年9月18日号では、戦争についてご自身の体験に基づいてこう語っておられました。

  何故戦争がいけないか。戦争が始まると、すべての優先順位は無視され、戦争に勝つことが優先される。昔から「人ひとり殺せば犯罪だけど、戦争で何人も殺せば英雄になる」と言われてきた。
 特に日本国は危ない。民主主義、個人主義の発達した欧米では、戦争になっても生命の大事さは重視される。捕虜になって生きて帰ると英雄と言われる。日本では、捕虜になるくらいなら、自決しろと教わった。いったん戦争になったら、日本では一般の人は、人間として扱われなくなる。
 それなのに安倍政権は、この国を戦争のできる国にしようとしている。これまで主として反対してきたのは、われわれ戦争を体験してきた世代であったが、すでに80の坂を越え、日に日に少数になってゆく。井上ひさし、菅原文太、愛川欽也と毎年消えてゆく。この10年間で4回のがんを体験したボクも、いつ彼らの後を追ってもおかしくない。焦りは日々つのる。
 ボクらは「忠君愛国」「滅私奉公」と教わって育った。国のために命を捨てるのは当たり前と信じていた。だから特攻や人間魚雷は、崇高な行為だと思った。ところが戦後学んでみると、こうした行為を米国では、「日本人の狂気」と言って恐れていたという。
 ボクらの世代は、辛うじて終戦で助かったが、実は当時の政治家や軍部は、ボクら少年や、母や姉らの女性たちまで動員しようとしていた。11、12歳のボクらは実際に竹槍(たけやり)の訓練をさせられた。校庭にわら人形を立て、その胸に向かって竹槍(単に竹の先を斜めに切ったもの)で刺すのである。なかなかうまく行かないが、たまにうまく刺さって「ドヤ顔」をしていると、教官に怒鳴られた。「バカモン、刺したらすぐ引き抜かないと、肉がしまって抜けなくなるぞ!」
どっちがバカモンだろう。上陸してくる米軍は、近代兵器で武装している。竹槍が届く前に、射殺されている。これは「狂気」どころか「バカ」であろう。それでもこの愚行を本気で考え、本土決戦に備えていた政治家や軍人がいたのである。彼らの根底にあったのは、「生命の軽視」であったはずである。
 竹槍こそ使わなかったが、本土決戦を本気で考えているうちに、東京大空襲から広島・長崎まで、何十万人という市民の命が、無意味に失われた。そして300万人の貴重な犠牲の上に、われわれは平和を手に入れ、戦争のできない憲法のもと、70年の繁栄を享受してきた。
 いかに戦争が悪で、平和や自由が尊いか。若い人もようやくわかってくれたようだ。8月30日の大集会はインパクトがあった。こうした若者に対し、自民党の武藤貴也衆院議員が、「戦争に行きたくないので反対」というのは「利己的個人主義」と批判(※1)したのには驚いた。この人は36歳、若者である。ここにはすでに「滅私奉公」のメンタリティーが感じられる。デモの若者たちの発言は、「殺人したくないから反対」というのと同じだということがわかっていない。もう日本人は崖っぷちに立っているのだ。空気に流されやすい日本人は、戦争法制ができあがったら、後戻りできまい。何とか参議院で廃案にできないものか。それは「ハイアン!」と叫び続けることだ。継続こそが力なのである。
(webサイトはコチラ

ここで巨泉さんが名前を挙げた井上ひさし、菅原文太、愛川欽也の3人もまさに同世代。そしていずれも、平和の尊さと日本国憲法への愛を様々な場面で語ってこられました。

井上ひさしさんは、「9条の会」の呼びかけ人の一人として日本国憲法、とりわけ憲法9条の価値を広く伝えるために奮闘されました。



下の絵本は、「井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法 (シリーズ 子どもたちの未来のために)」からの抜粋です。









菅原文太さんも、晩年は、非戦の思いを語り続けました。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/210591

2014/11/01 【沖縄県知事選】~翁長雄志 うまんちゅ 1万人大集会

「政治の役割はふたつあります。ひとつは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと!」
「本土の政府と仲井真知事は、まさに戦争が起きること、戦争をすることを前提に、沖縄を考えていた。前知事は、今、最も危険な政権と手を結んだ。沖縄の人々を裏切り、公約をほごにして、辺野古を売り渡した。映画『仁義なき戦い』の最後で、『山守さん、弾はまだ残っとるがよ。一発残っとるがよ』というセリフをぶつけた。仲井真さん、弾はまだ一発残っとるがよ」
「アメリカにも、良心厚い人々はいます。中国にもいる。韓国にもいる。その良心ある人々は、国が違えど、同じ人間だ。みな、手を結び合おうよ」



2014/06/19 解釈改憲による集団的自衛権は「コペルニクス的歴史的大転換」

 「当年80歳になった。生まれる前に満洲事変、後に支那事変があった。少年時代はずっと戦争だった。立派な皇国少年の年月を過ごした。父は四人兄弟で、一番上の父の兄は一銭五厘で戦争で南洋に行き、帰ってきたときにはマラリア。死ぬまでマラリアだった。父は北海道から樺太、キスカへ。その後中支へ。23年に帰還した。三男の叔父は五輪代表にまで選ばれたが、戦争でルソン島に行ったきり帰らなかった。父は6年戦争に行っていたが、その後、脳いっ血などになり一生棒に振った。戦争だけは絶対だめだ」



亡くなる半年前、6月12日に東京・日比谷で開かれた「戦争をさせない全国署名提出集会」ではこう演説しています。

 ■菅原文太さんの演説
「戦争というのは、いろいろ政治家含めて言っているけど、言ってみれば暴力です。暴力映画をしきりに撮ってきた私が言うのもなんだけど(苦笑)、あれは架空の話で、皆さんに楽しんでもらう以外の意図は全くありませんでした。
私は昭和8年生まれですから、戦争が始まったのは小学校2年生のとき。始まった次の年、親父が40過ぎで戦争に持ってかれました。帰ってきたのが、6年後の戦争が終わった昭和23年だったかな。親父の弟は、赤紙で戦地に向かってそれっきり帰ってきません。フィリピンから一通の手紙が届いたっきり、どこに転じたのか、どこで死んだのか、餓死だったのか弾に当たって死んだのか、未だにわかりません。
親父の兄の長男は戦地から帰ってきたけど、生涯マラリアに苦しめられて死にました。うちの親父も帰ってきたけど、その後の暮らしは生涯を棒に振りました。戦争はよくないんですね。戦争は絶対にやめなきゃダメです。
もし(戦争に向けた動きが)始まったら、みなさん命をかけましょう!私は、もう80だから(命は)惜しくない。といって、命をかけましょうと言ったって、一人で走っていって当たっても、あまり意味はない。そんなことより、皆さん一緒に戦争反対の気持ちを、今日そして明日、明後日で終わらずに。これから皆さん、子供も孫もおられるでしょう。皆さん一緒に戦い続けましょう」



また菅原さんと「トラック野郎」を共演した愛川欽也さんも。

「憲法と社会問題を考えるウェブマガジン」=マガジン9インタビュー 「愛川欽也さんに聞いた」でこう語っています。

愛川 そうですか。先日、江戸東京博物館のイベントで講演しましたが、圧倒的に年齢が上の人が多かったです。500人入るホールに600人以上いらっしゃってくれて、盛況でしたけれどつい言っちゃいましたよ。「みなさんと一緒に(戦争体験や疎開体験を持ったまま)僕たちは死んでいくのかね」って(笑)。
 戦時中の話や憲法について、僕はずいぶんとテレビやラジオやいろんなところで話をしてきました。しかし今、話を聞いてくれる人はもはや少数派だと思っています。淋しいけれどしょうがない。僕みたいに、(戦争や憲法について)しゃべっているタレントはいないでしょう。僕もみなさんに聞かれるから、本音や体験を語り続けてきただけなんですが。でもそのしゃべっている僕が肌で感じているのは、つくづく少数派になったなあ、ということ。
 今の風潮だと、憲法改定について国民投票をやったところで、半分以上が改憲に賛成しちゃうんでしょうね。その時の自分の虚脱感を考えるとね、ぞっとします。だからといって、しゃべるのをやめるわけではないですけれどね。
編集部 どうか、これからもどんどんお話ししていってください。愛川さんのように、長い間戦争や憲法について語っている著名人の方は、非常に少ないようですね。実はこのコーナーでも、いろんな方にインタビューをお願いしているのですが、「政治の話はちょっと」と断られることが多いので。
愛川  そのことなんですよ、僕が言っているのは。20年ぐらい前は、スタジオでも憲法や政治の話はよく出ていましたよ。それが今はまったく話をしない。聞いてもこない。中には“改憲反対”とはっきり言う方もいますが、稀有な存在ですよ。20代や30代のテレビタレントに、尋ねてごらんなさい。何も言わないでしょう、たぶん。
編集部  愛川さんが、今のような憲法観をお持ちになったのは、いつからですか?
愛川  中学2年の時です。担任の岡田隆吉先生に「平和憲法と民主主義」を教えてもらってから70歳になる今まで、僕の座標は一度もぶれたことありません。意固地ではなくて。
 岡田先生は、戦地から引き揚げてきた復員兵でした。先生は、民主主義の国でいちばん大切にしなければならないのは憲法だ、といつも話していました。その憲法に「戦争放棄」と書いてある。これはうれしかったですよ。だってそれまでは、兵隊さんになる教育だったのが、戦争放棄で軍隊放棄でしょう。そして主権在民とある。この国にはじめて、主権在民という歴史が刻まれたわけです。これは素晴らしいことなのだと、先生は僕たちに上手に教えてくれたのですね。
 戦時中の辛い体験と岡田先生に教えてもらったことが、今の僕の、憲法を守り続けたいという考え方の基になっているのです。
編集部  あえて今の若い人へ伝えたいことは?
愛川  戦後60年、この憲法があったから、日本がまがりなりにも自分の国の利益のために、よその国と戦争をしなかった。侵略もしなかった。だからこそ今、平和ボケと言われようとも、若い人たちがマアマアのんきに暮らせていけているんです。憲法9条はその基本なのですよ。だからこれを無くすのはもったいないし、ずっと大事にしてもらいたい。
 戦争というのは、一番弱い者のところに、ダメージを与えるようにできているのです。だから、この憲法による幸せの恩恵についてじっくり考えて、守っていかないと未来は危ないよ、と言いたいのです。



この記事のインタビューを担当した評論家の鈴木耕さんは、
愛川欽也
さん、さようなら|風塵だより#027 | マガジン9


という追悼文を寄せています。

「僕は1934年、 昭和9年の生まれでね、 戦争の時に秋田へ疎開していたんだょ。 それでね、 ずいぶんといじめられたなあ。 僕が使う東京弁が癪に障ったんだろうけど、 ほんとぅに辛かった。 それに、 いつでも腹を空かせていたし、 いやあ、 もうあんな思いはしたくないね、 絶対に。
だからばくは、 戦争だけは何が何でも反対なんだ。 冗談じゃないよ、憲法を変えて、 また戦争ができるようにするなんて。
戦争が終わって、 新しい憲法の話を聞いたときは嬉しかったなあ。 岡田隆吉先生って、 まだ名前もお顔も憶えている。 岡田先生が教えてくれた『平和憲法と民主主義』、あれがぼくの原点だね」
愛川さんの 「反戦平和」 の強固な意志は、 このころに根差したものだという。体験に裏打ちされた意志。それは多分、 『トラツク野郎』でコンビを組んだ菅原文太さんとも共通する。
「戦争を知ろうとしない子供たち」 が、 「強い日本を取り戻す」 などと喚き立てるのに、 我慢ならなかったのだろう。
 いまごろおふたりは、 久しぶりに会つて、 この国の行先を憂えているのかもしれない。





七月に入りました。きょうは、梅雨の晴れ間の31℃。朝の散歩も大変な暑さでした。








ひまわりが満開です。



トノサマバッタ。



ウチワヤンマ。







ナミアゲハ。







なにもかも、夏の風情です。

今日はこれにて。



nice!(35)  コメント(8)  トラックバック(2) 

nice! 35

コメント 8

hatumi30331

大橋巨泉さん・・・・
最後まで信念を貫くンやね!
さすがです。

この選挙、真剣に考えなきゃね!

風景は夏!
今朝、セミの声が・・・
まだ一匹でしたが、鳴いてました。
梅雨明けも近そうやね。
我が家の朝顔は・・・ツルだけ伸びて花の蕾が全くないけどね。へへ;
by hatumi30331 (2016-07-02 15:35) 

majyo

大橋巨泉さん、最後に病床で書かれたのですね
少し前に知り、ショックでした
前から心配していましたが、もう言わずにいられないのでしょう
井上ひさし、菅原文太、愛川欽也さん
彼等に報いるために
最後まで頑張らなくてはなりませんね
by majyo (2016-07-02 19:39) 

kazg

hatumi30331様
セミの声、こちらでも聞きました。
文字通り、夏間近ですね。
by kazg (2016-07-02 19:50) 

kazg

majyo様
本当におっしゃるとおりです。
by kazg (2016-07-02 19:51) 

えんや

学びたいですね、戦争に反対の先輩たちのおもい、、、。
選挙に生かしましょう。
by えんや (2016-07-02 19:59) 

cyoko1112

こんばんはチョコ君です。
コメントありがとうございました。
巨泉さんのメッセージ
>。「最後の遺言として一つだけは書いておきたい。安倍晋三の野望は恐ろしいものです。選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせて下さい。7月の参院選挙、野党に投票して下さい。最後のお願いです」
菅原文太さんのメッセージ
>もし(戦争に向けた動きが)始まったら、みなさん命をかけましょう!
皆さん一緒に戦争反対の気持ちを、今日そして明日、明後日で終わらずに。これから皆さん、子供も孫もおられるでしょう。皆さん一緒に戦い続けましょう」

こころに沁みる重たい言葉ですね!!
戦争できる国に変えようとしているアベ政権。
なんとしても打倒アベ!!

倉敷のお近くなんですね。
今度行く時はよろしく!!

by cyoko1112 (2016-07-02 22:26) 

kazg

えんや 様
自分が経験していないことは想像力に依るしかありません。体験を語り伝え、継承することが大切ですね。
by kazg (2016-07-03 06:22) 

kazg

cyoko1112 様
>こころに沁みる重たい言葉
本当にその通りですネ。
倉敷は隣接地です。是非またお越しください。
by kazg (2016-07-03 06:26) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 2

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。