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自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(3) [時事]

壷井栄「二十四の瞳」の一節は、敗戦時の状況をこう伝えています。


 悪夢のようにすぎたここ五年間は、大石先生をも人なみのいたでと苦痛のすえに、小さなむすこにいたわられながら、 このへんびな村へ赴任してこなければならない境遇に追いこんでいた。 わが身に職のあることを、はじめてかのじょは身にしみてありがたがった。教え子の早苗にすすめられて願書はだしてみたものの、きてゆく着物さえもないほど、生活は窮迫の底をついていった。不如意な日々のくらしは人を老いさせ、かのじょもまた四十という年よりも七、八つもふけて見える。五十といっても、だれもがうたがおう。
いっさいの人間らしさを犠牲にして人びとは生き、そして死んでいった。おどろきに見はった目はなかなかに閉じられず、閉じればまなじりを流れてやまぬ涙をかくして、なにものかに追いまわされているような毎日だった。 しかも人間はそのことにさえいつしかなれてしまって、 立ちどまり、ふりかえることをわすれ、心の奥までざらざらに荒らされたのだ。荒れまいとすれば、それは生きることをこばむことにさえなった。 そのあわただしさは、 戦いのおわったきょうからまだあすへもつづいていることを思わせた。 戦争はけっしておわったとは思えぬことがおおかった。
原爆の残虐さが、 そのことばとしての意味だけでつたえられてはいたが、 まだほんとうの惨状をしらされていなかったあの年の八月十五日、 ラジオの放送をきくために学校へ招集された国民学校五年生の大吉は、敗戦の責任を小さなじぶんの肩にしょわされでもしたょうに、しょげかえって、 うつむきがちに帰ってきた。


思えば、これらの記事で書いた「その時10歳」の方々と、ほぼ同世代ということになるでしょう。◇そのとき十歳の私は、補遺

◇取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻

◇沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3)


少し端折って読み進めます。




 あの日、しょげている大吉の心を「なにをしょげてるんだよ。 これからこそ子どもは子どもらしく勉強できるんじゃないか。 ごはんにしょ」
だが、 いつもならおおさわぎの食卓を見むきもせずに大吉はいったのだ。
「おかあさん、戦争、まけたんで。ラジオきかなんだん?」
かれは声まで悲壮にくもらしていった。
「きいたよ。でも、とにかく戦争がすんでよかったじゃないの」
「まけても」
「うん、まけても。もうこれからは戦死する人はないもの。生きてる人はもどってくる」
「一億玉砕でなかった!」
「そう。なかって、よかったな」
「おかあさん、泣かんの、まけても?」 .
「うん」
「おかあさんはうれしいん?」 '
なじるようにいった。
「ばかいわんと!大吉はどうなんじゃい。うちのおとうさんは戦死したんじゃないか。もうもどってこんのよ、大吉」
そのはげしい声にとびあがり、はじめて気がついたように大吉はまともに母を見つめた。しかしかれの心の目もそれでさめたわけではなかった。かれとしては、この一大事のときに、なおかつ、ごはんをたべようといった母をなじりたかったのだ。平和の日をしらぬ大吉、生まれたその夜も防空演習でまっくらだったときいている。灯火管制のなかで育ち、 サイレンの音になれて育ち、真夏に綿入れの頭巾をもって通学したかれには、母がどうしてこうまで戦争を憎まねばならないのか、よくのみこめていなかった。

 



すみません、またまた書きかけの記事が消失しました。ここまではバックアップしていましたので、続きの復元は次回とします。

散歩中に上空を数羽の鴨が舞いました。カメラが間に合わず、一枚だけ証拠写真です。



上のカモと同じかどうかはわかりませんが、前方の小川にカルガモの親子を見つけました。







気配を察知したのか、すたこら陸地に駆け上りました。カメラが間に合ったのは一番しんがりの親ガモの姿だけ。雛(若鳥)たちはさっさとどこかに姿をくらましてしまいました。



今日はこれにて。

 


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