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溶けそうな暑さすべなく空を見る [私の切り抜き帳]

おかやま人権研究センター刊行の「人権21 調査と研究」という雑誌の、2016.6(No.2429)号に掲載されている吉永隆光先生の「戦時中の国民学校教科書の実相」という文章について、先日来これらの記事で紹介させて戴いています。

◇日本よい国 きよい国 に思う、の巻 

◇御国のために死ねと教えた教科書、の巻
『音楽』のつづきです。
教科書には載っていないがラジオを通して国民に歌われた歌として、何曲かを挙げておられます。その一つ。


 『欲しがりません勝つまでは』
作詞・山上武夫 作曲・海沼実
どんな短い鉛筆も
どんな小さい紙片(かみきれ)も
無駄にしないで使います
そうです僕たち私たち
欲しがりません勝つまでは
(二--四番略)


これは一九四二(昭和一七)年に大政翼讃会と新聞社が大束亜戦争一周年記念に国民決意の標語を募集した時に入選したものを歌の題にした曲で、天才童謡歌手川田正子が歌つてラジオを通してよく歌われた。 これは実のところは少国民でさえ耐えているのだからと、大人に倹約質素を強制するキーワードとして活用されたといえょう。空襲警報のない日でも、ラジオから川田正子の戦時童謡が流れない日はなかったという。
『欲しがりません勝つまでは』という戦時標語については、過去の◇青空に背いて栗の花匂うの記事で、こんなことを書きました。

 so-netブログの大先輩落合道人様のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。

 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
 ▼
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
笑止!というよりも、痛ましささえ覚える人間喪失ぶりです。
はだしのゲンにもこんな場面がありました。


終わりの「ブ-ッ」は、町内会の竹槍訓練に駆り出されたゲンの父親中岡大吉が、やる気なく放屁する場面です。こうした非協力的な態度や、「こんなもので戦っても銃で攻撃されたら皆殺しにされるだけで無駄なこと」「日本は他の国と仲良くしなければならない」等の言動から、非国民と排撃されれることになります。
少女歌手川田正子は、こんな過去記事でも取り上げたことがありました。

◇桑畑の歌から始まった、の巻
 導入で紹介された歌は、「汽車ぽっぽの歌」。
誰もが知っている童謡で、歌詞はこうです。
汽車(きしゃ) 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
僕等(ぼくら)をのせて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
スピード スピード 窓(まど)の外
畑(はたけ)も とぶ とぶ 家もとぶ
走れ 走れ 走れ
鉄橋(てっきょう)だ 鉄橋だ たのしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
汽笛(きてき)をならし
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆかいだ ゆかいだ いいながめ
野原だ 林だ ほら 山だ
走れ 走れ 走れ
トンネルだ トンネルだ うれしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
けむりをはいて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆこうよ ゆこうよ どこまでも
明るい 希望が 待っている
走れ 走れ 走れ
がんばって がんばって 走れ
が、その元の歌詞は、こうだったと、H先輩はおっしゃいます。
 (一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
歌の題も「兵隊さんの汽車」といい、御殿場小学校教師であった作詞者が、出征する兵士を見送る内容の歌として作ったもので、戦意を鼓舞するために歌われたが、戦後、今の歌詞に改められたのだそうです。
ウィキペディアの記事にはこうありました。
1937年(昭和12年)にレコード用の童謡『兵隊さんの汽車』として世に出た。歌詞も現在のものと一部異なり、蒸気機関車(汽車)に乗って出征する兵士を見送る内容であった。
作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いており、旧陸軍の演習場があった御殿場線の御殿場駅で見た光景を歌詞にしたという。
後に川田正子の歌唱によるレコードが発売され、1945年(昭和20年)の大晦日にNHKラジオの『紅白音楽試合』(NHK紅白歌合戦の前身)で川田により この曲が歌われることになった。その際に近藤積ディレクターから終戦後の時代にあった内容への改作を依頼され、富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められた。 
ネット検索してみると、一番から三番までの歌詞はこのようだったそうです。
 兵隊さんの汽車
作詞:富原 薫
作曲:草川 信
歌唱:川田正子
制作:滝野細道
    (一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
 
    (二 )
汽車汽車 來る來る
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
窓からヒラヒラ日の丸の
旗を振ってく兵隊さん
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳

    (三)
汽車汽車行く行く
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
まだまだヒラヒラ日の丸の
旗が見えるよ汽車の窓
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳



◇美作は海遠けれど


 栗と言えば、童謡「里の秋」が思い出されますね。
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

wikiには、こう記載されています。
「1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している。」 
そして、小学校の教師だった作詞者斎藤信夫が、昭和16年、この「里の秋」のもとになる「星月夜」という作品を書いていたことも紹介されています。

こちらのブログに、詳しい解説がありますので、参照させていただきます。 
http://blogs.yahoo.co.jp/gojukara11/2540856.html

「星月夜」の1・2番は、「里の秋」と全く同じですが、3・4番は、こうなっていたそうです。
 きれいなきれいな 椰子の島 しっかり護って 下さいと 
 ああ父さんの ご武運を 今夜も一人で 祈ります

 大きく大きく なったなら 兵隊さんだよ うれしいな 
 ねえ母さんよ 僕だって 必ずお国を 護ります

日本が、太平洋戦争に突入する時期であったことを反映して、子どもたちに戦意の高揚を煽る内容になっていました。自らもそう固く信じて、子どもたちを戦争に 送った教師の一人として、斎藤は深い悔悟にとらえられたと言います。「教え子を再び戦場に送るまい」という、戦後教師の共通の悲願は、この作者の思いでも あったでしょう。



朝夕は少し涼しさを感じるようになったとはいうものの、日中は驚異的な暑さです。


テレビニュースで、インタビューを受けた人が、「もう溶けそう」なあどといっています。同じセリフがつい口をついて出てくるので、笑えます。

わけもなく空を見上げてしまいます。













さすがに夕方になると、少しはしのぎやすくなります。

2歳児の孫を自転車に乗せて、近所をぐるぐるあやして回ります。

こんな光景に出会うと、ちょっと自転車を止めて、撮影します。









先日も、2歳児を載せた自転車から、空と雲を写しました。


8月の雲と空

8月の雲と空 posted by (C)kazg 


8月の雲と空
8月の雲と空 posted by (C)kazg


8月の雲と空


8月の雲と空 posted by (C)kazg



8月の雲と空


8月の雲と空 posted by (C)kazg




8月の雲と空




8月の雲と空
posted by (C)kazg

8月の雲と空

8月の雲と空
posted by (C)kazg



8月の雲と空


8月の雲と空 posted by (C)kazg




朝景色も少し貼っておきます。

8月の田園の朝景色

8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg



8月の田園の朝景色


8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg



8月の田園の朝景色


8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg

薄明光線(はくめいこうせん)というものがあるそうです。

ウィキペディアには、こうあります。

 薄明光線(はくめいこうせん、英語: crepuscular rays)は、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象の俗称。通常とは逆に、雲の切れ間から上空に向かって光が出ることもある。おもに、地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方に見られる。世界中の人々の間で美しい自然現象と認識されており、写真撮影における人気も高い。
名称

「薄明光線」のほか、別名が多数ある。気象現象としては「薄明光線」、一般的には「天使の梯子」がよく知られている名称。

    天使の梯子、天使のはしご(てんしのはしご、angel's ladder)
    天使の階段(angel's stairs, angel's stairway)
    ヤコブの梯子、ヤコブのはしご(Jacob's ladder)
    レンブラント光線
    また、単に光芒と呼ぶこともある。

ヤコブの梯子、天使の梯子という名称は、旧約聖書創世記28章12節に由来する。この記述では、ヤコブが夢の中で、雲の切れ間から差す光のような梯子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。このことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになった。

レンブラント光線という名称は、レンブラント・ファン・レインがこれを好んで描いたことに由来する。その結果、絵画表現上においては、コントラストが強くなり、光の当たる部分と闇の部分との対比を強調され非日常的な雰囲気や宗教的な神々しさを表現することに成功した。

    晩年の開高健は、しばしばテレビなどで好んで「レンブラント光線」という言葉を口にした。
    宮沢賢治はこの現象を「光のパイプオルガン」と表現している。

 

 

「天使のはしご」「天使の階段」 「光の階段」という言葉は、聞き覚えがあります。 宮沢賢治の「光のパイプオルガン」は記憶にありませんでした。彼の詩集「春と修羅」は読んでいたはずなのですが

この詩が収められています。

 

三八四  告別

一九二五、一〇、二五、



おまへのバスの三連音が

どんなぐあひに鳴ってゐたかを

おそらくおまへはわかってゐまい

その純朴さ希みに充ちたたのしさは

ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

もしもおまへがそれらの音の特性や

立派な無数の順列を

はっきり知って自由にいつでも使へるならば

おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西著名の楽人たちが

幼齢弦や鍵器をとって

すでに一家をなしたがやうに

おまへはそのころ

この国にある皮革の鼓器と

竹でつくった管(くゎん)とをとった

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで

おまへの素質と力をもってゐるものは

町と村との一万人のなかになら

おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも

五年のあひだにそれを大抵無くすのだ

生活のためにけづられたり

自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは

ひとにとゞまるものでない

ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、

おれは四月はもう学校に居ないのだ

恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり

きれいな音の正しい調子とその明るさを失って

ふたたび回復できないならば

おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは

すこしぐらゐの仕事ができて

そいつに腰をかけてるやうな

そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら

いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
 

 きょうはこれにて。


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コメント 4

アヨアン・イゴカー

>無職はお国の寄生虫 1942年
この発想は優生学ですね。危険極まりない、人権無視の考え方。
今回の相模原の殺人事件に通じるように感じます。

>デマはつきもの みな聞きながせ
これは最近のマスコミの姿勢に対する皮肉のようにも取れます。
一方通行の情報はデマと変わりません。

現在の一党独裁状態に似ている日本を見ていると、恐ろしくなってきます。自浄能力、自己判断能力が少ないように思います。平和とは、幸福とは何か、輸入物でない考え方が必要です。


by アヨアン・イゴカー (2016-08-11 09:17) 

kazg

アヨアン・イゴカー 様
>無職はお国の寄生虫 
考えれば考えるほど残酷なスローガンですね。
>一方通行の情報はデマと変わりません。
マスコミがこぞって政権が許容する報道に終始し、広報化
している状況が思われますね。
自浄能力、自己判断能力、平和とは、幸福とは何か、自前の見方考え方を、養いたいものと痛感します。
by kazg (2016-08-12 05:25) 

momotaro

落合道人様の
> 今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。
言い得てますね!
by momotaro (2016-08-22 16:00) 

kazg

momotaro様
戴いたコメントにすぐには気づかず、失礼しました。本当におっしゃるとおりですね。
by kazg (2016-09-24 18:24) 

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