溶けそうな暑さすべなく空を見る [私の切り抜き帳]
◇日本よい国 きよい国 に思う、の巻
◇御国のために死ねと教えた教科書、の巻
『音楽』のつづきです。
教科書には載っていないがラジオを通して国民に歌われた歌として、何曲かを挙げておられます。その一つ。
『欲しがりません勝つまでは』 作詞・山上武夫 作曲・海沼実 どんな短い鉛筆も どんな小さい紙片(かみきれ)も 無駄にしないで使います そうです僕たち私たち 欲しがりません勝つまでは (二--四番略) これは一九四二(昭和一七)年に大政翼讃会と新聞社が大束亜戦争一周年記念に国民決意の標語を募集した時に入選したものを歌の題にした曲で、天才童謡歌手川田正子が歌つてラジオを通してよく歌われた。 これは実のところは少国民でさえ耐えているのだからと、大人に倹約質素を強制するキーワードとして活用されたといえょう。空襲警報のない日でも、ラジオから川田正子の戦時童謡が流れない日はなかったという。 |
so-netブログの大先輩落合道人様のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓ 標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年 一部を引用させていただきます。
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終わりの「ブ-ッ」は、町内会の竹槍訓練に駆り出されたゲンの父親中岡大吉が、やる気なく放屁する場面です。こうした非協力的な態度や、「こんなもので戦っても銃で攻撃されたら皆殺しにされるだけで無駄なこと」「日本は他の国と仲良くしなければならない」等の言動から、非国民と排撃されれることになります。
少女歌手川田正子は、こんな過去記事でも取り上げたことがありました。
◇桑畑の歌から始まった、の巻
導入で紹介された歌は、「汽車ぽっぽの歌」。 誰もが知っている童謡で、歌詞はこうです。
ウィキペディアの記事にはこうありました。
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◇美作は海遠けれど
栗と言えば、童謡「里の秋」が思い出されますね。
wikiには、こう記載されています。
こちらのブログに、詳しい解説がありますので、参照させていただきます。 http://blogs.yahoo.co.jp/gojukara11/2540856.html 「星月夜」の1・2番は、「里の秋」と全く同じですが、3・4番は、こうなっていたそうです。
日本が、太平洋戦争に突入する時期であったことを反映して、子どもたちに戦意の高揚を煽る内容になっていました。自らもそう固く信じて、子どもたちを戦争に 送った教師の一人として、斎藤は深い悔悟にとらえられたと言います。「教え子を再び戦場に送るまい」という、戦後教師の共通の悲願は、この作者の思いでも あったでしょう。 |
朝夕は少し涼しさを感じるようになったとはいうものの、日中は驚異的な暑さです。
テレビニュースで、インタビューを受けた人が、「もう溶けそう」なあどといっています。同じセリフがつい口をついて出てくるので、笑えます。
わけもなく空を見上げてしまいます。
さすがに夕方になると、少しはしのぎやすくなります。
2歳児の孫を自転車に乗せて、近所をぐるぐるあやして回ります。
こんな光景に出会うと、ちょっと自転車を止めて、撮影します。
先日も、2歳児を載せた自転車から、空と雲を写しました。
8月の雲と空 posted by (C)kazg
8月の雲と空 posted by (C)kazg
8月の雲と空 posted by (C)kazg
8月の雲と空 posted by (C)kazg
8月の雲と空 posted by (C)kazg
8月の雲と空 posted by (C)kazg
朝景色も少し貼っておきます。
8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg
8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg
8月の田園の朝景色 posted by (C)kazg
薄明光線(はくめいこうせん)というものがあるそうです。
ウィキペディアには、こうあります。
薄明光線(はくめいこうせん、英語: crepuscular rays)は、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象の俗称。通常とは逆に、雲の切れ間から上空に向かって光が出ることもある。おもに、地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方に見られる。世界中の人々の間で美しい自然現象と認識されており、写真撮影における人気も高い。 名称 「薄明光線」のほか、別名が多数ある。気象現象としては「薄明光線」、一般的には「天使の梯子」がよく知られている名称。 天使の梯子、天使のはしご(てんしのはしご、angel's ladder) 天使の階段(angel's stairs, angel's stairway) ヤコブの梯子、ヤコブのはしご(Jacob's ladder) レンブラント光線 また、単に光芒と呼ぶこともある。 ヤコブの梯子、天使の梯子という名称は、旧約聖書創世記28章12節に由来する。この記述では、ヤコブが夢の中で、雲の切れ間から差す光のような梯子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。このことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになった。 レンブラント光線という名称は、レンブラント・ファン・レインがこれを好んで描いたことに由来する。その結果、絵画表現上においては、コントラストが強くなり、光の当たる部分と闇の部分との対比を強調され非日常的な雰囲気や宗教的な神々しさを表現することに成功した。 晩年の開高健は、しばしばテレビなどで好んで「レンブラント光線」という言葉を口にした。 宮沢賢治はこの現象を「光のパイプオルガン」と表現している。 |
「天使のはしご」「天使の階段」 「光の階段」という言葉は、聞き覚えがあります。 宮沢賢治の「光のパイプオルガン」は記憶にありませんでした。彼の詩集「春と修羅」は読んでいたはずなのですが
この詩が収められています。
三八四 告別 一九二五、一〇、二五、 おまへのバスの三連音が どんなぐあひに鳴ってゐたかを おそらくおまへはわかってゐまい その純朴さ希みに充ちたたのしさは ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた もしもおまへがそれらの音の特性や 立派な無数の順列を はっきり知って自由にいつでも使へるならば おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう 泰西著名の楽人たちが 幼齢弦や鍵器をとって すでに一家をなしたがやうに おまへはそのころ この国にある皮革の鼓器と 竹でつくった管(くゎん)とをとった けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで おまへの素質と力をもってゐるものは 町と村との一万人のなかになら おそらく五人はあるだらう それらのひとのどの人もまたどのひとも 五年のあひだにそれを大抵無くすのだ 生活のためにけづられたり 自分でそれをなくすのだ すべての才や力や材といふものは ひとにとゞまるものでない ひとさへひとにとゞまらぬ 云はなかったが、 おれは四月はもう学校に居ないのだ 恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう そのあとでおまへのいまのちからがにぶり きれいな音の正しい調子とその明るさを失って ふたたび回復できないならば おれはおまへをもう見ない なぜならおれは すこしぐらゐの仕事ができて そいつに腰をかけてるやうな そんな多数をいちばんいやにおもふのだ もしもおまへが よくきいてくれ ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき おまへに無数の影と光の像があらはれる おまへはそれを音にするのだ みんなが町で暮したり 一日あそんでゐるときに おまへはひとりであの石原の草を刈る そのさびしさでおまへは音をつくるのだ 多くの侮辱や窮乏の それらを噛んで歌ふのだ もしも楽器がなかったら いゝかおまへはおれの弟子なのだ ちからのかぎり そらいっぱいの 光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ |
きょうはこれにて。
>無職はお国の寄生虫 1942年
この発想は優生学ですね。危険極まりない、人権無視の考え方。
今回の相模原の殺人事件に通じるように感じます。
>デマはつきもの みな聞きながせ
これは最近のマスコミの姿勢に対する皮肉のようにも取れます。
一方通行の情報はデマと変わりません。
現在の一党独裁状態に似ている日本を見ていると、恐ろしくなってきます。自浄能力、自己判断能力が少ないように思います。平和とは、幸福とは何か、輸入物でない考え方が必要です。
by アヨアン・イゴカー (2016-08-11 09:17)
アヨアン・イゴカー 様
>無職はお国の寄生虫
考えれば考えるほど残酷なスローガンですね。
>一方通行の情報はデマと変わりません。
マスコミがこぞって政権が許容する報道に終始し、広報化
している状況が思われますね。
自浄能力、自己判断能力、平和とは、幸福とは何か、自前の見方考え方を、養いたいものと痛感します。
by kazg (2016-08-12 05:25)
落合道人様の
> 今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。
言い得てますね!
by momotaro (2016-08-22 16:00)
momotaro様
戴いたコメントにすぐには気づかず、失礼しました。本当におっしゃるとおりですね。
by kazg (2016-09-24 18:24)