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夏の終わりの高知行、の巻(その5) [折々散歩]

昨日は、夏休み明けの初出勤と勇んで出かけたところ、教頭が、事務室の前で今日は行事で、授業は来週からと、気の毒そうに伝えてくださいました。

一日ぽかっと自由を得て得した気分と、一日分の賃金をロスした情けない気分が混在して、複雑な心境でした。
同じようなことをよく繰り返します。

昨日はその足ですごすごと帰宅。バアバが、発熱中の保育園児の子守をしているのを知らん振りで、遠出して遊んでくるわけにも行かなかったので。
案の定、高熱の2歳児は、機嫌が悪く、常にだっこをせがみ、「ママ、ママ」と呼び続けます。言いたいことはあるらしく、何やらしきりに言葉に出していますが、こちらには理解できません。それがもどかしいらしく、すぐに癇癪を起こします。

人間にとって、言語による意志疎通というものが、いかに高度なスキルによる相互理解・トラブル解決の技であるかを思い知らされます。家族ですらそうですから、ましてや他人、ましてや異文化の隣人においてをやというものでしょう。
先日のプチ講演でも、講師の石橋剛さんは、「言葉を伴う感性」「他者の感性を受け止める力」の大切さを強調しておられました。同感です。

今日は、午前中、自動車の点検を予約していたことをコロッと忘れていて、危うく間に合いました。その足で、かかりつけ医に寄り、いつもの薬をもらってきました。


さて、昨日までの記事で、思わせせぶりに先のばしてきた、今回の高知行の第2の目的とは?
高知が生んだ反戦詩人、槇村浩ゆかりの地を訪ねたいという「宿願」を達成することでした。
槇村浩については、これまでこんな記事を書いてきました。
◆サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◆「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻
◆槙村浩と三月一日
◆ビクトルハラをカーラジオで聞くの巻
◆もうひとつの911
◆懐かしき便り嬉しき聖夜かなの記事では、こんなことを書きました。
 もう一つの郵便物は、高知のN先輩からサークル会誌第11号が同封されたお便り。

N先輩については、去年の八月のこの記事や九月のこの記事で「Nさん」と呼んで紹介しました。

この会誌11号は、ほとんどこのN先輩が中心に編集・発行してくださっています。今号のおもな記事は、 この記事で話題にした「仲間の集い」での大先輩(1958年入学のKさん、及び1965年入学のFさん)のスピーチの記録と、各地にお住まいの同窓生の方々の近況など。

それぞれ時空を越えて、様々な感慨を喚起せずにはいられない文章でした。

巻末の「事務局だより」に、高知県生まれの詩人槙村浩(まきむらこう)の生誕100周年を記念して今年11月に出版された雑誌『ダッタン海峡』10号の紹介があり、別刷りで、雑誌『ダッタン海峡』10号の目次を印刷してくださっていました。

雑誌『ダッタン海峡』は、「ダッタン海峡——ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××革命の同志たちに——」と題する槙村浩の詩のタイトルにちなんで名付けられた雑誌のようです。高知市枡形にある「平和資料館・草の家」のこの記事  が参考になります。


このN先輩は、今回の同窓会の準備運営の中心を担ってくださいました。そして次の記事にも登場します。
◇多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻

今日のもう一つの話題は、同じく治安維持法の犠牲となった文学者槙村浩のことです。

「北の小林多喜二、南の槙村浩」と呼ばれました。

2012年5月12日付の朝日新聞高知版を紹介したWEBページにこんな記事がありました。

北の多喜二、南の槙村浩(こう)――。小説「蟹工船」の小林多喜二と並び称されるプロレタリア文学作家が、戦前の高知にいた。3年2カ月の獄中生活をへてもなお反戦の信念を貫き、精神と肉体を患って26歳で逝った。長い間、故郷高知にさえ忘れられた存在だった。6月1日の生誕100年を前に、その足跡をたどった。

   --- --- --- --- 

(中略 槇村浩の詩「生ける銃架」の引用あり)

   --- --- --- --- 

 兵士を、銃を立てかけておく「銃架」にたとえたこの詩は、満州事変翌月の31年10月に作られた。槙村が通った高知市立第六小学校の隣にあり、戦時中の資料を展示する「平和資料館・草の家」(升形)館長の岡村正弘さん(75)は「戦争は人間を魂のない存在にしてしまうというのがこの詩の意味だと思う。槙村は鋭い感性で市民にとって戦争とはなにかという本質を見抜き、告発した」と話す。

 同館では、槙村の写真や詩集など約40点も並べる。高知の平和運動の旗手だった初代館長の西森茂夫さん(2004年没)の「遺言」だった。西森さんは亡くなる前、病床で岡村さんの手を握り、こう繰り返した。「槙村浩をやってくれ。人に知られちゃせんきに」
  草の家の学芸員、藤原(ふじ・はら)義一(よし・かず)さん(65)は、大学1年のときに槙村の詩集に出あい、「詩で戦争に反対した人がいた」ということ に驚いた。そして、「槙村みたいに生きなければと思い、人生が変わった」という。在学中はベトナム反戦運動に参加。5年前の退職を機に、槙村が通いつめた 県立図書館などで高知の戦争中の軍事施設について調べている。

 図書館の北隣、県立文学館の学芸課長津田加須子(か・ず・こ)さんは、「槙村の詩は気持ちを率直に書いている。いま読んでも、時代状況や心の葛藤が分かりやすい」と解説する。今夏から、槙村の原稿も常設展示する予定だ。

 映画会社「四国文映社」代表の馴田(なれ・た)正満さん(64)は大学時代、先輩に連れられて槙村の墓を訪れた。「厳しい弾圧下でも自分の生き方を通した姿勢に共感した」と振り返る。
  墓は平和町の丘の中腹にあるが、戦後長く忘れられていた。同郷の作家・土佐文雄が槙村の生涯を描いた小説「人間の骨」(66年)は、土佐が鎌を手に林に入 り、槙村の墓を探す場面で始まり、「孤独に耐えていた彼の墓をついに見出し」「私の目から涙がふきこぼれた」と記す。関係者らの手で69年に建てられた墓 碑には、「反戦革命の詩人 槙村浩墓」と刻まれる。

 槙村の代表作は、長編詩「間島パルチザンの歌」(32年3月)だ。中国東北部の朝鮮族が多い地域で抗日運動をする朝鮮人の思いを歌う。
(中略 「間島パルチザンの歌」の引用あり)

 この詩の碑が城西公園に立つ。槙村を慕う市民が73年に製作したが、建立できる場所が見つからず、浦戸湾に近い高知市横浜に長く置かれていた。現在地に移されたのは89年のことだ。公園は槙村が収監されていた高知刑務所の跡地でもある。

 歌碑の建立や移設にかかわった詩人で「槙村浩の会」会長の猪野(い・の)睦(むつし)さん(80)は、「長い間疎外されてきた槙村を市民の懐に抱かせてあげたくて、街の真ん中に移したのです」と言う。(竹山栄太郎)

 ◇槙村浩◇ 本名吉田豊道。1912年6月1日、高知市廿代町で生まれ、第六小学校4年のとき、その博識ぶりが地元紙に「天才児」と取り上げられ
た。旧制海南中学校では軍事教練に反対。白紙答案を出す運動を束ね、放校された。20歳を前に本格的に詩作を始め、社会主義運動にも参加。32年4月に治安維持法違反で逮捕され、3年2カ月の獄中生活を送った。非転向のまま出所したが、獄中で患った拘禁性の躁鬱(そう・うつ)病と食道狭窄(きょう・さく)症がもとで、38年9月3日に亡くなった。

 槙村浩について、私は、2014年12月24日のこの記事で、「槙村浩については、また、別の機会に触れたいと思っています。」と書きました。この約束の実行を何度か試みましたが、いつも挫けて、先延ばししてきました。
今日は少しだけ、書いてみたいと思います。

(中略)

 NET検索してみますと、上で引用したweb記事で紹介されている 「草の家の学芸員、藤原(ふじ・はら)義一(よし・かず)さん」が、ご自身のブログのこの記事に、槙村浩関連のネット記事へのリンク集を作っておいでです。勝手に紹介させていただきます。
さっき触れた昨年12月24日のこの記事にも書いたとおり、高知のN先輩からのお便りにより、高知市にある「草の家」が、昨年秋に「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」を発行されたことを知り、お願いして先だって手に入れました。

(中略)

 手元に届いた冊子「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」では、上の藤原義一さんも、それからわが先輩Nさんも、また、別の先輩Mさんも、それぞれ別の角度から槙村浩に光を当てる文章を寄せておられます。

冊子が配達されて、ぱらぱらと斜め読みをしているちょうどその日の夜、愛知に住む古い友人のI君から電話をいただきました。

I君は、学生時代、同じ学科、同じ専攻の一年下で、なんと、当時私の間借りしていた下宿の、隣室に入居してきて、当時ご存命だったお父様と一緒に「引っ越し挨拶」に私の部屋を覗かれたのが最初の出会いでした。

部屋には個室のバス・トイレはもとより、共同の風呂もなく、トイレは母屋のものを共同使用、洗濯機も共同使用、台所も、冷蔵庫も、エアコンも、テレビも、電 話もない、「シンプル」そのものの、昔ながらの下宿生活でしたが、それ故、ある種の共同生活に似た親密な交際が始まりました。

これを綴れば、世にあるいろいろな「青春記」の上を行く、愉快でペーソスを帯びたスリリングなドラマが生まれるはずですが、それはまたの機会に譲ります。

 同一下宿での共同生活は一年ほどで終わり、それぞれに別の下宿先やアパートに引っ越しましたが、大学・私生活を問わず、濃密な交友が卒業まで続きました。

卒業後は、住む場所も仕事も隔たって、彼は、学術書を中心とする出版業の中心的役割を得て奮闘を重ね、今は退職生活に入っています。何年かに一度、同窓会のような場で出会うレベルの頻度でのおつきあいですが、一瞬で当時に戻ります。

最近では、去年の11月、この記事で書いた出会いを楽しんだばかりです。

その彼からの、突然の電話の要件は、たまたま、 槙村浩と『ダッタン海峡10号』についてでした。

そして、きっといつか、高知市平和町の墓所にお参りをしたいねと約したことでした。

今日はここまでとし、またの機会に続きを書きたいと思います。

この記事で、愛知のI君と書いたのが、今の旅の弥次喜多散歩の相棒、ハチロークンのことです。同じホテルに宿泊しましたので、午前中、待ち合わせて宿願を果たそうと思い立ったのです。

しか~し、私はもとより、ハチロークンも、このような際の綿密な計画性は持ち合わせていないので、事前の下調べもしていません。訪ねるべき場所も経路も不明確です。

と、そんなとき、ヨシミさんから昼食の予定についてのメールが入り、渡りに船と合流し、弥次喜多+姫の珍道中と相なりました。
平和町の丘の中腹にあるという墓は、三人ともおおざっぱな位置が思いうかぶだけで、行き着く自信がありません。

帰宅後、ネット検索していると、行き方を教えてくれる動画がありました。後の祭りというものですが、、、

https://t.co/x5FmwJlirh
城西公園の碑は、ヨシミさんが以前訪ねたことがあるというので、そこを案内してもらうことになりました。

城西公園というは、1976年に移転した高知刑務所の跡地を、運動公園、チビッ子広場、野外劇場、緑化公園等の公共空間として利用したもののようです。
公園のほとりを、高知城の濠としても利用されていた江の口川が静かに流れています。のどかに悠々と泳ぐ魚影も見えます。
江の口川と言えば、以前は紙パルプ工場の廃液のために汚濁の著しい川でした。受験のために、高知駅に降り立ったとたん、悪臭に閉口した思い出があります。その後粘り強い公害反対運動の結果、現在の清流が取り戻されていることは感慨深いことでした。
その江の口川沿いの遊歩道の傍らに碑は建てられていました。





この詩碑について、ウィキペディアはこのように紹介しています。
 1973年9月21日、有志による実行委員会が4年かけて集めたカンパによって高知市横浜に「槙村浩詩碑」が建てられた。代表作『間島パルチザンの歌』の冒頭の一節が刻まれている。 1989年4月22日、槙村が投獄されていた高知刑務所の跡地である高知市桜馬場の城西公園に「槙村浩詩碑」が移転。移転除幕式には横山龍夫高知市長から祝電が寄せられた。
そうです。槇村は、ここにあった高知刑務所に投獄され、その過酷な拷問がもとで心身を深く傷つけられて、26才で夭逝したのでした。
「ダッタン海峡」10号で、益善一(ますよしかず=平和・民主・革新の日本をめざす高知県の会事務局長)さんが、「槇村浩詩碑設置の経緯」と題する文章を寄せておられます。その結びの部分を引用させて戴きます。
 筆者は、学生時代の成人の日に『棋村浩詩集』を先輩からプレゼントされ、槙村作品にふれていましたし、 この時期に緑政審議会の事務局を担当していました。そういう意味でも棋村浩詩碑の設置に関われたことを誇りに思っています。
ちなみに、この益善一さんも、かの同窓会に出席しておられ、同じテーブルで歓談したことでした。
槇村の詩碑の近くには、当ブログでも何度となく紹介した、竹本源治「戦死せる教え子よ」の碑も建てられています。




「教え子を戦場に送るな」の原点です。
日中不再戦の碑も存在感をアピールしています。



そのほかにも、高知ゆかりの文化人・文学者の顕彰碑が並んでいます。
夏目漱石の門人で物理学者の寺田寅彦。

英文学者、評論家、翻訳家の馬場孤蝶の句碑。

高知から帰った後、ネット検索をしておりますと、上述の藤原義一さんのこんな記事をみつけました。
 【参考データ】 高知市内で槇村浩に会える場所
 まず、高知市升形の平和資料館・草の家です。
 槇村さんの展示のコーナーがあります。彼の作品の載った雑誌、彼の写真などを展示しています。戦後つくられた詩集もあります。
 高知県立文学館にも展示コーナーがあります。草の家にないものとしては自筆の原稿やはがきあります。槇村浩さんを紹介するA4一枚のビラも備えています。
 高知県立図書館には、槇村さん関係の本が四十一冊あります。
 彼が住んでいた長屋の所には、いま、ひろめ市場があります。
高知市の城西公園内の桜馬場所には彼の「間島(かんとう)パルチザンの歌」の詩碑があります。
 高知市平和町、通称・蛭ケ谷には彼の墓碑があります。
これまたあとの祭りですが、、「ひろめ市場」はもちろん素通りはしません。

「ひろめ市場」は、高知城から徒歩2分、日曜市が並ぶ通り沿いにあります。
オフィシャルサイトには、「ひろめ市場は、和洋中様々な飲食店約40店舗、お土産物屋さんや洋服屋さんなどの物販店約20店舗が混在する、大きな屋台村のような施設となっております。 お好きな店舗からお好みの料理を買って、お好きなお席で土佐の味をゆっくりお楽しみ下さい♪」とあります。

お昼ご飯は、ここで、ハチロークンとヨシミさん、それに、多忙な春名なおあきさんも合流して、楽しく歓談しつつ土佐の味に舌鼓を打ちました。


春名なおあきさんおすすめの鰹の塩たたき.美味でした。

春名さんは午後は抜けられない公用があって(日曜ですのに忙しいこと)退席。

ちなみに春名さんのブログを拝見すると、午前中は、町内会の役員として、避難訓練、防災倉庫公園の清掃、午後は政産業労働者ユニオン四国地方本部第5回定期大会であいさつ、続いて建設中の県市一体図書館の西側の敷地をめぐって「住民の意見を聞かずに勝手に決めるな」と紛糾している問題でのシンポジウムに参加と、八面六臂の大奮闘です。

それを尻目に、優雅な旅人の私たちには、こたえられない充実のひとときでした。
きょうはここまで。
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馬爺

今晩は!
高知と言えばやはり鰹ですね、四国へは行った事がありませんので高知の桂浜等へ行ってみたいと思いますね。
車でゆっくりとお遍路の旅などやってみたいですね。
by 馬爺 (2016-09-02 19:36) 

gonntan

高知といえば、今から40年前!学生のときに友だちと訪れました。桂浜やはりまや橋には行きましたが、槇村浩さんのことももちろん知らず・・・です。「日中不再戦の碑」その意思が両国政治家と国民とに届きますように。
by gonntan (2016-09-02 21:22) 

kazg

馬爺様
鰹のたたきといえば、郷土料理で、祝いの席などに皿鉢(さわち)料理の主役として盛りつけられます。学生の頃は、下宿の大家さんにお呼ばれしたり、何か公式の宴会などでお目にかかる位で、自分で食べるには高級すぎました。大人になってから、スーパーで安売りを買って食べることはありますが、現地のものとは格段に味が違いますね。最近は、塩たたきというものが人気だそうですが、これも現地ならではです。
by kazg (2016-09-03 06:31) 

kazg

gonntan様
桂浜は雄大で、晴天の時も良し、少し荒れ気味の景色も見逃せません。
桂浜は、日本三大○○観光地とかで、どこ?どこ?と探しますね。
「日中不再戦の碑」、建立者名は「高知県民」と刻んでありました。

by kazg (2016-09-03 06:58) 

ファルコ84

言葉って簡単なようで難しいですね!
面と向かっていても
「何を言いたいのかが分かりません」と
国会の質疑応答の一幕。
言う方も聞く方もその気でなければ
通じようにもありません。
駆け引きも加わる高度なスキルです。
by ファルコ84 (2016-09-03 14:30) 

johncomeback

2年前に「ひろめ市場」でカツオの塩タタキ食べました。
by johncomeback (2016-09-03 15:12) 

hikaru-eg

鰹のたたき、ニンニクのスライスで食べた事がありますが、
塩で、一度食べてみたくなりました^^
by hikaru-eg (2016-09-03 16:57) 

kazg

ファルコ84様
>言う方も聞く方もその気でなければ
通じようにもありません。
本当に、それが最大の要所ですね。
by kazg (2016-09-03 17:02) 

kazg

johncomeback様
塩タタキ、名前には聞いていましたが、旨いものですね。
by kazg (2016-09-03 17:05) 

kazg

hikaru-eg様
塩タタキも、スライスニンニクを薬味にするのですね。
醤油、ポン酢、柚子酢などを調合したタレに、スライスニンニクや、ネギ、タマネギなどを薬味として用いるのがオーソドックス名食べ方のようです。これも旨いと思います。
我が家の方のスーパーでは、おろし生姜が薬味としてパックされていますが、やはりニンニクが好みです。
by kazg (2016-09-03 17:14) 

momotaro

日中不再戦(高知県民)はいいですね。
戦前・戦中の思想家弾圧などの悪行の謝罪や総括がなされていません。
なされないまま、再び、あの時の体制ができつつあります。
一民族に見える日本人ですが、ルーツが、DNAが、異民族ほどに異なるのですかね?
まだ同化しきっていない?
だから平和共存が難しい。
そんな気がしてきました。
by momotaro (2016-09-15 05:28) 

kazg

momotaro様
日中不再戦(日本国民)の碑も要りますね。


by kazg (2016-09-15 07:17) 

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