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散ってまた咲く無窮花や野分ゆく [折々散歩]

置き換えてみればよくわかります。
ある日突然におふれが出て、これまでなじんだ姓名を名乗ることはまかりならぬ。改名せよ。たとえば山田太郎ならトム・ヤマダーノ、佐藤春子なら、ハルースカヤ・サトヴィッチなんて具合に。
抵抗して、改名手続きしない輩は、子弟を小学校にやることもまかりならぬ。なんてことになったら、冗談きついよ。ですよね。
またこんなおふれが出されたら?
今後一切、会話、及び通信には、常に公用語の○○語を用いるべし。下等言語たる日本語を用いてはならぬ。みだりにこの禁を破りたるものは、スパイと見なし断罪する。なんてこと、あり得ませんよね。
はたまた、こんなおふれ。
今後、すべからく国民は、薔薇の花を愛で、その美をたたえるべし。下劣きわまる文化伝統によって一般国民にいたるまで偏愛せる桜は、その花に妖毒を含みたること明らかなるによって、公共の施設、街路、私有地、山林原野を問わず、桜の樹は一切抜去し、その跡地にはことごとく薔薇を植栽すべきこと。これに背いて密かに桜を栽培したるもの、または、口頭、文筆、言論等において桜を賛美したるものは、罪軽からず。なんてこと、出来の悪い空想未来小説ですよね。
でもこんなことが、かつて実際にあったとしたら、口アングリではないでしょうか?

「創氏改名」という言葉を、ネット上でを検索しますと、「世界大百科事典」の以下の記述がヒットします。
世界大百科事典 内の創氏改名の言及
【皇民化政策】より
…生徒は相互に監視させられ,朝鮮語を使った友人を摘発するのが日課となった。翌39年11月には,天皇家を宗家とする家父長体制に朝鮮人を組み込むために,〈創氏改名〉に関する法律を公布,40年2月から実施された。朝鮮人はついに自分の名さえ日本式に改めねばならなかった。…
【太平洋戦争】より
…これらの日常活動は,いずれも〈内鮮一体論〉に基づくものであり,国民総力朝鮮連盟の結成は,朝鮮における天皇制ファシズムの成立を意味していた。皇民化政策のなかでも日本語の使用と創氏改名は,朝鮮人に計り知れない苦痛を与えた。1938年3月公布の朝鮮教育令により朝鮮語は随意科目とされ,学校での朝鮮語の使用が事実上禁止されたばかりでなく,43年からは〈国語普及運動〉が大々的に展開された。…
皇民化政策 は、自民族たる沖縄県民にも強要されました。
琉球文化アーカイブというサイトに、沖縄の歴史というページがあり、「ソテツ地獄」下の沖縄の記事の一節にこうあります。
 ■方言論争と皇民化教育
 日清戦争後、近代化の波の中で、沖縄でも生活風俗を大和風に改めようとする運動がありました。昭和10年代になるとこの動きは熱をおびてきて、沖縄的な名字を大和(ヤマト)風に改めたり、読み替えたりするようになりました。
 県の懸案だった標準語の励行という気運も、国家主義の高まりにともない次第に強くなっていきました。1940(昭和15)年に県当局が推進した標準語励行運動は、強制や禁止、懲罰などで厳しくすすめられたため、「方言撲滅(ぼくめつ)運動」と受け取られました。
(中略)
日本が挙国一致(きょこくいっち)体制で戦争を押し進めていた時期でもあったため、標準語励行運動はむしろ強化されていきました。沖縄戦がはじまると、「方言を使用する者はスパイとみなす」という日本軍は、県民の方言使用について厳しい圧力を加え、そのことによる悲惨な事件も沖縄戦の最中におきました。

「皇民化」の名の下に、名前を奪い、言葉を奪い、愛する花まで奪う?

そんなトンデモバナシを、最近読んで驚きました。

先日から、槇村浩の話題で、連続的に登場戴いている藤原義一さんが、「あなたに贈る短歌の花束」という本を出版されています。奥付を見ると2004年6月発行とあります。実はこの本、私は、ちょっとした縁で当時贈呈を受け、パラパラめくり読みしては、本棚に収めておりました。時々手に取ることはありましたが、全巻通読はしていませんでした。

しかも、筆者の藤原義一さんと、「草の家」学芸員として槇村浩を研究されている藤原義一さんを、同一人物と理解できず、深く確かめることもなく偶然の一致に寄る同姓同名の別人と思い込んでいました。うかつなことでした。



つい最近、この本を手に取り、読み進むうちに、こんな記述に出会い、驚愕を覚えました。

 (以前、韓国旅行から)帰国したその日、イン夕ーネットを散歩していたら、日本が、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)だった時代に、日本政府が朝鮮のムクゲを抑圧したということが書いてありました。
「人類の歴史で、民族の名前で特定の植物が苛酷な受難を経験したのは、我が国(著者注・韓国)の国花であるムクゲが唯一である。
ムクゲは民族の歴史と共に民族の脈絡の中に息づいてきた花であるため、 日帝強制占領期の三十六年間には民族の受難と共に疲弊して奪われてしまうという残酷な試練を経験するしかなかった。
満州、上海、米国、欧州へ向かった独立志士たちが光復の救国精神の表象としてムクゲを掲げると、日本はこれにうろたえたあまり、ムクゲを見つけしだい燃やしてしまったり、引き抜いて無くしてしまった。
うそ
日帝は国花ムクゲを『目に血花』と呼び、見るだけで目が血走るという嘘の宣伝をし、『おでき花』と呼び、手に触れるだけでおできが出来ると言うなど、様々な話で我が民族の気概を表現するムクゲ弾圧に極悪だったのだ。
しかし、国花ムクゲに対する受難が加われば加わるほど、我が民族はよりいっそう自分たちの精神を代弁するムクゲを愛し、隠してまで守ってきた」(「韓国のホー ムぺージを日本語で読む」)
-----「読んでいただける方へ」より

さらにページを繰ると、こうありました。

 日本の天皇が朝鮮を植民地にしていたころ、 植民勢力が朝鮮人に愛されていたムクゲを抑圧したことを「読んでいただけるかたに」で書きましたが、ここで、もう少し詳しく、 そのことを書いておきます。
植えることも、話すことさえ
『金夏日歌集 無窮花』(一九七一年二月一日発行。光風社)を読みました。
著者の名前は、キム・ハイル。無窮花は、ムグンファと読むのだと思います。ムクゲのことです。
著者は一九二六年(大正十五年)、朝鮮慶尚北道・桃山洞の一貧農の家に生まれました。そして、一九三九年(昭和十四年)、十四歳のころ、すでに朝鮮から日本に渡っていた父をたずねて、母と長兄夫婦、次兄らと日本に渡ります。
彼が生まれる前の一九一〇年、日本は日韓併合で朝鮮を植民地にしていました。
「あとがき」で、ムクゲについて、こう書いています。
「日本帝国主義の侵略とその統治下においては、 朝鮮民族が限りなく愛するこの花を、自分の土地に植えることも、またこの花について話すことさえ許されなかったのです。
こうした抑圧のなかで、 無窮花はなおのこと私たち朝鮮民族の心に生きつづけ、私は幼い時から祖母や母に無窮花の美しさをひそかに聞かされてきましたが、祖国朝鮮に私が生まれ育った時代にはついに見ることができませんでした」
日本は太平洋戦争を始めました。
長兄は日本海軍の軍属としてとられ、戦死します。
著者も東京の戦災の炎をかぶり、両眼失明しました。

さらに、こんなことが行われたのだそうのです。

 朝鮮への桜の植樹
一九〇五年(明治三十八年)、日本は第二次日韓協約で大韓帝国(朝鮮)の外交権を接収し、京城(現在のソウル)に韓国統監府(長官は韓国統監)を設置しました。
一九一〇年、日本は日韓併合で大韓帝国を植民地にしていました。同年八月二十九目、目本は朝鮮にその植民地文配のための政庁・朝鮮総督府を設置しました。(韓国統監府を改組)。
(中略)
日本の植民者は、朝鮮に次々と日本の「軍国の花」 ・桜(ソメイヨシノ)の苗を植樹し、桜の名所を作っていきます。鎮海(チネ)の日本海軍の軍港には我が海軍の微章にちなみ」一九一〇年に二万本、一三年に五万本、一六年に三万本、合計十万本の苗木が植えられました(『ある日韓歴史の旅鎮海の桜』、竹国友康、朝日新聞社)。

ムクゲの記事が押収されて
第四代朝鮮総督の斎藤実の時代には弾圧一辺倒では治まらなくなって民族紙の発行を許可します。
「朝鮮日報」、「東亜日報」が創刊されました。しかし、それらは朝鮮総督府警務局が検閲しました。
(中略)
「東亜日報」は、 一九二五年十月二十一日付に「読者と記者」の欄に「錦細江山の表徴『朝鮮国花』無窮花の来歴」という記事を載せました。
「昔のことですが、大韓時代に無窮花を国花として崇め尊んだのは、どういう理由からなのですか」(東大門外ユク・チュングン)という読者の質問に答えたものです。
「今から二十五、六年前」に尹致実(ユン・チホ=開化派の政治家)が愛国歌を:創作したが、その繰り返し部分に「無窮花三千里華麗江山(ムグンファサムチョンリョガンサン)」がありました。その時、初めて「木種(クンファ)」を「無窮花」と書き出したらしい。
これと前後して島山安昌弘浩(トサナンチャンホ=独立運動家。一八七六-三八年)らが民族連動、国粋運動を展開する時、朝鮮を無窮花にたとえて「われわれの無窮花(ムグンファ) の丘は……」と演説しました。
この時を前後し、木樓(クンファ)を「ムグンファ」とはっきり使いだし、朝鮮の国花と定めたようです。
記事は、こうした説明をした後で、次のようにのべています。
「---無窮花はそれほど華麗でもなく、枝とてそれほど美しくもなく、その上、葉は密集していて趣とてないのですが、朝露を浴びて咲いては夕刻に散り、また他の花が朝咲いてタ刻に散るというふうに、絶えず咲いては散る様が、 刹那を誇って風に散るのを武士道の誇りとしている桜よりも、赤色だけを誇る英国の薔薇よりも、花房だけただ大きいだけの中国の芍薬(シャクヤク)よりも、どれほど粘り強くて堅実であり、気概があって祈願がこもっていてみずみずしくて可愛らしいことは、ほかの何ものにも比べることはできないでしょう。
それで私たちの祖先は、この朝生夕死ではあるけれど、次々と咲く木槿を無窮花と呼んで国花としたようです。
しかしいまでは、無窮花が名にし負うほどの使命を果たせず、西北道では見られぬようになり、京畿方面では心ある人たちの丘の飾りとなり、全羅道では農家の垣根として残っているだけだそうです」
この記事は、 朝鮮総督府警務局が押収しました。

ムクゲについては、過去にもこんな記事を書きました。




「無窮花」という別名は知っていましたが、苦難の歴史は知りませんでした。

近所の散歩道のムクゲです。

















台風12号は日本海に抜けた模様です。

朝の散歩写真を少しだけ掲載します。





















散歩道にはいつものアオサギ。



これは?田ヒバリ?



久しぶりにカワセミを撮れました。

しかも目の前を、何羽か飛んで逃げました。

これは少し遠くにいたので、逃げ出す前に写せました。

しかし、光量不足です。









途中、雨が降り出したので、途中で切り上げました。一日中、雨が降ったりやんだりの天気です。

きょうはこれにて。




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コメント 14

長友

ムクゲの花は知ってましたがこのお花に
こんなに深い物語があるのを初めて
知りました。

by 長友 (2016-09-05 16:00) 

majyo

長友さんも書いていらしゃいますが、今きれいに咲いている
ムクゲ、知りませんでした
創氏改名は、こんな屈辱的な事は無いですね
by majyo (2016-09-05 16:20) 

kazg

長友様
私も、ムクゲの花が、韓国・朝鮮の方たちが大切に思う花であるとは知っていましたが、このような裏歴史には思い至りませんでした。侵略、他民族支配というのは、暴虐なものですね。
by kazg (2016-09-05 17:04) 

kazg

majyo様
自分の名前、自分の母語、美についての感性、どれもアイデンティティの根幹に関わる重要事で、決して譲ることはできません。これを、力尽くではぎ取る非道。でも、はぎ取った側には、その理不尽に気がつかない鈍感さがついてまわりますね。過去の植民地支配や侵略の過ちを認めようとしないお坊ちゃん首相と、その取り巻きがかっ歩するこの国。同時に、自国民である沖縄の民に屈辱の日々を負わして点として恥じないこの国。一体不離のメダルの裏表なのでしょうね。
by kazg (2016-09-05 17:29) 

hatumi30331

ムクゲ、咲いてるよね。^^
けっこう深い意味が・・・・
初めて知りました。

空模様は、やっぱり秋やね〜
カワセミまで登場!
いいなあ〜
カワセミ見れて。^^
by hatumi30331 (2016-09-05 19:04) 

えんや

悲哀に耐えた花なんですね「ムケゴ」うちの庭にも、近くの公園にも
咲いています。
見る目が変わりました、ありがとうです。
by えんや (2016-09-05 19:53) 

kazg

hatumi30331様
秋の気配が濃厚ですね。蒸し暑さは残っていますが、、、。
カワセミ、久しぶりです・ちょくちょく飛んで逃げる後ろ姿などは目撃したり、望遠倍率の低いレンズをつけているときに出会ったりで、画像が残りません。欲を言えば、晴れて明るいときにあいたいです。
by kazg (2016-09-06 05:45) 

kazg

えんや様
こんもりした樹形に次から次に可憐な花が咲いている様子は、地味ですが目が止まりますね。
by kazg (2016-09-06 05:49) 

馬爺

秋の気配がどんどん進んできていますね、翡翠がいるんですね、こちらでは見る事がなくなってきました。
by 馬爺 (2016-09-06 10:15) 

kazg

馬爺様
残暑のぶり返しには閉口しますが、目に映るものは、確かに秋のたたずまいを感じさせますね。翡翠はたしかにいるんですが、必ずここにあらわれるという定点を確かめられないでいます。何年か前には、おなじみの漁場がありましたが、今はそこにはあらわれないようですので。
by kazg (2016-09-06 19:42) 

美美

ムクゲのお花、家の周りにも咲いています。
お花に罪はないのに、悲しいことですね。

by 美美 (2016-09-07 17:37) 

kazg

美美様
派手ではないですが、ふと目をを引かれる花ですね。雨に濡れても、晴れた空のもとでもけなげに咲いています。
by kazg (2016-09-07 21:14) 

momotaro

まったく日本は無礼なことをたくさんやってきました。
戦後はその反省もあって、穏やかにやってきたのですけれど…
あちらにもまだ許せないという気があるでしょうし、こちらにも、「いつまでも…」と思う人がいて、またヘイトスピーチなどが出るようになりました。
皇国思想も復活していて、まだまだ反省が足りていません。
by momotaro (2016-09-16 12:06) 

kazg

momotaro様
まったく同感です。侵略などなかった、強制など気のせいだ。感謝されこそすれ、謝罪要求など身の程知らずだ、という調子ですものね。無知の上に立つ傲岸は、みっともないことです。
by kazg (2016-09-16 22:45) 

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