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縁は異なもの、の巻(3)高崎という地名 [あれやこれやの知ったか話]

私の居住地近くに高崎という地名があります。

地図で見ると国道30号線沿いに、玉野市側に東高崎、岡山市(旧灘崎町)側に西高崎があります。このあたりは、もともと「瀬戸の穴海」とよばれる海に浮かぶ小島が連なる地帯の一部でした。



(上の図は「岡山の風 郷土史」より借用しました。)

平成の大合併以前の旧町名に灘崎町がありましたし、縄文時代の貝塚も近くで発見されていて、そこは彦崎と呼ばれます(その話題は回を改めます)。それだけに「崎」がつく地名にはなんの不思議もないのですが、この高崎のいわれは別にあるようです。

角川日本地名大辞典33岡山県(1989年発行)をひもとくと、こう紹介されていました。







 にしたかさき 西高崎<灘崎町>

〔近代〕明治39年~現在の大字名。はじめ灘崎村、昭和24年からは灘崎町の大字。 もとは灘崎村地先の児島湾干拓地の一部。明治期以後の児島湾干拓事業は、実禄
を奉還した士族たちの授産のために企てられ、出願が、 明治11~l3年にかけて続出した。 これに対し高崎五六県令は児島湾干拓事業の必要を、 内務・農商務・大蔵の三卿に具申、内務省はオランダ人工師ムルドル氏に諮問、氏の実地調査が行われた。出資者の藤田伝三郎が独力で同20年に第1区から第8区に区別し工事期間を2期に大別,予算や期限などを調整して再出願,同22年干阪高雅知事は開墾を許可した。反対運動・水害などで連年着工は延期されたが高崎親章知事は開墾の必要性を説き藤田組に起工認可を与えた
(灘崎町史)。

藤田組は同32年第1区の起工式を挙工、 同年末に潮止め工事を完了,同33年5月から入植開始。同35年に堤防が決壊、入植者の中には生活苦から他へ転出する者もあったが、
同38年完工、 466町の沃野ができあがり、藤田農場高崎農区と名付けられた。 同39年361町5反5畝11歩を西高崎と名付けて灘崎町に編入 (児島郡誌・灘崎町史・児島湖発達史)。明治36年頃入植者50軒余,
1軒約5町の田と馬を持ち綿や麦を作るが、 奉還は土地が高く西瓜を作つた (灘崎町史)。 藤田農場高崎地区完成に伴い従来の入植者に対し会社側は、
新たに直営農を幕集。 直営農は会社の土地を耕作し月給制で会社支給の作物の裁培を行つた。 農舎はi平和通り に1~8号。水稲を作り出したのは大正期頃から。昭
和17年の高崎農場の構成は,直営農203町・小作農19 l 町・自作農兼小作農133町・自作農14町(灘崎町史)。 同21年復員者・労務者・分家組の人々は4~8号地を買い取った。同21年灘崎村荘内村普通水利組合を結成、同27年高崎土地改良区と変更。玉野市東高崎、迫川の四人新開・宮下西新開・宮下東沖新開・赤羽根新開を合わせて組合員123名で運営,、麦のほかマッシl
ュルーム・レンコン・ナスを生産、他に採卵を行った。機業も波及し、昭和27年三村ミシン工場が創業。 l同35年には川張西高崎地区簡易水道の導入で、天水生l活も減少。同36年国道30号が完成。同44年南部上水道の給水開始。同46年西高崎児董館が開館。(後略)









 ひがしたかさき 東高崎<玉野市>

〔近代〕1明治39年~現在の大字名。はじめ荘内村、昭和29年からは玉野市の大字。もとは荘内村地先の公有水面理立地。 明治38年に竣工した見島湾第一区干拓地の東部に位置する。地名の由来は,漁業保障など多くの問題を解決し着工に踏みきった県知事高崎親章を顕影して第一区を高崎農場と名付けたことによる。
同44 年の戸数3,人口は男7・女7。当初は干拓を行った藤田組の直営農場として大規模経営・機械化展業が進められていたが、 高度成長以降兼業農家が增加した。(後略)


ここに、高崎五六(いつむ=ごろく)という県令と、高崎親章(ちかあき)という知事の、二人の高崎さんが登場します。そのため、早飲み込みの私は、不確かな理解をしていましたが、この高崎の地名は、児島湾干拓の着工に踏み切った高橋親章県知事にちなむ命名のようです。

岡山シティミュージアム岡山干拓物語というページにこんな解説があります。







 1880年(明治13年)、県庁職員生本傅九郎の意見を取り入れ、それらをまとめて開発しようと考えた県令高崎五六は、内務省雇工師ムルデルの意見を求めました。

翌1881年(明治14年)、ムルデルが児島湾の視察にやって来ました。ムルデルは緻密な調査をして、児島湾の干拓が可能なこと、そして岡山にとって有益であることを主張する「ムルデル工師の児島湾開墾復命書」をまとめ、内務省に提出しました。  

高崎県令はこの干拓が国の事業として行われることを望み、国家予算を期待していましたが許可されず、民間による開発へと方針を変更しました。

しかしここで、先に名乗りを上げていた会社も、資金面の失敗から干拓を引き受けることを断念。生本は関西はじめ、東京方面までも出資者を求めて走り回りました。

ここで大阪の資本家、藤田傳三郎(でんざぶろう)の登場です。生本傳九郎に会って心を動かされた藤田は、鹿島岩蔵、杉村正太郎、田中市兵衛、阿部浩の協力を得て、1884年願書を提出したのです。

その後、高崎県令と生本の転勤や阿部との行き違い、地元住民の反対運動などあり、計画は中断状態が長く続きました。

しかし、藤田は単独ででもこの干拓をやり遂げる意志を固め、1887年(明治20年)、藤田の事業として変更届を出します。

しかし県下には激しい反対運動が起こっていました。それぞれが収まり、工事が着工されるには、さらに10年の月日が必要でした。

児島湾干拓第一区

1899年(明治32年)の着工に先だって、湾内の底盤、潮流、風向き、風力、雨量 など徹底調査されました。

けれども、「まったく載荷力のない底抜け沼」のような状態のところに「荷重一間当たり一万二,三千貫以上の堤防を延々十里も築こうというわけ」で工事は、予想以上の困難をきわめました。

試験的に従来の方法で堤防を築いてみたときのようすが、『松陰本山彦一翁伝記』に書かれています。

「約六四間の築堤線の前面に松丸太杭を打ちこみ、竹シガラを揺き、堤心は土を以って築き、前面 は二割、後面は一割五分の傾斜勾配を有する土堤を築かしめた。然るに盛土が六、七分の高さに達するや俄然沈下運動を起こし、僅々三~四時間のうちに堤防全部は泥盤のうちに呑まれてしまった」

このように、想像以上の地盤の悪さに多くの失敗や苦難がありました。 

結局、丈夫な基礎工事をして、その上に石垣を築き、石灰真砂土のコンクリートなどですきまを埋める方法にたどり着き、堤防の高さは満潮時の平均より5尺(約150センチ)高くしました。

水門を築く際も軟弱な泥地に悩まされました。  

また、地盤の問題以外でも苦労はたくさんありました。期間中暴風雨に見舞われたことも3回、せっかく築いた堤防が決壊したり、コレラが流行して人夫が次々感染していったり、堤防の底から内部の水があふれだしたりと、多くの困難がありました。

それらを乗り越え、1905年(明治38年)、第一区462haが完成したのでした。

第一区は迫川地内宮川を境として、西は灘崎村へ、東は荘内村へ編入することになりました。現在の岡山市灘崎町西高崎、玉野市東高崎となっています。


我が子が小学生の頃に買い与えた「学習漫画岡山の歴史14近代産業の発達 明治時代」(山陽新聞社刊)に、こんな一コマがあります。



ここで第一区とされたあたりが、私の居住地の近辺であり、いつもの散歩道もこのあたりです。

下はみな、その散歩道で、先月の末に出会った鳥の写真ですが、入院騒ぎで紹介できないまま今日に至ってしまいました。遅ればせながら、今日の記事の賑やかしのために、掲載させていただきます。

土手道のハクセキレイ。



ジョウビタキ♂。

















ジョウビタキ♀









セッカ?





ダイサギ。











カンムリカイツブリ。

























今日はここまで。

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コメント 2

hatumi30331

ジョウビタキ、大好きですが・・・・
メッタに撮れないのです。トホホ・・・

今日は、すごく寒い!
by hatumi30331 (2016-12-10 08:20) 

kazg

ジョウビタキ、今日も会いました。
また近いうちにupしますので、ご覧くださいね。
ホント、寒いですね。
by kazg (2016-12-10 20:33) 

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