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ムルデルの干拓堤防、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

昨日の朝散歩で、児島湾干拓第一号、第二号堤防と呼ばれる遺跡を見てきました。

一昨日書いたこの記事(ムルデルの樋門など、ご近所の干拓遺跡、の巻)でも紹介したおかやまの歴史的土木資産というhpから、児島湾開墾第一区第一号・第二号干拓堤防の記事を引用します。

 児島湾干拓第一区第一号堤防

見どころ


 江戸時代から始まった児島湾の大規模な干拓は、明治時代には政府から開発を請け負った藤田伝三郎(でんざぶろう)(1841~1912)によって事業が進められることになりました。
 初めに着工された第1区では、明治32年から翌年末に潮止(しおど)め工事が完了しました。その工事で築かれたのが第一号と第二号堤防です。軟らかい地盤の上に堤を築くことは困難を極め、藤田組の技術者が工夫を重ねてようやく成功したものです。

 第一号堤防のある加茂崎地区(玉野市)は、前面の海が干拓されておらず、完成当初の堤防がそのまま残っている貴重な場所でしたが、平成18年頃に改修されました。第二号堤防のある高崎地区(岡山市・玉野市)は、前面の海が後に干拓されたため陸地に取り残される形になりましたが、延長約2㎞の石積みの堤防跡が続く干拓地らしい風景を見ることができます。


出典:「あなたの街の近代化遺産ガイドブック」岡山県教育委



下に略地図を載せます。



石積みが破損、崩壊の危険があったためか、最近補修工事が行われ、石積み堤防の面影は残しながらもコンクリートで固定されています。































正面辺りに見える山は、麦飯山(むぎいいやま)。この山の頂には、戦国時代、毛利方の城が置かれました。







鴨川に映る麦飯山。



「角川日本地名大辞典33岡山県」から麦飯山の記事を引用してご紹介します。

 むぎいいやま 麦飯山<玉野市>

玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。



むぎいいやまじょう 麦飯山城く玉野市>

中世の山城。玉野市八浜に所在。城跡は2つ重なっている山を利用し,高い山の方に本丸・二の丸・三の丸の主要部分を設け,低い山に出丸・馬場などをおいた。弘治~文禄年間,近くの常山城主明石景行の弟の明石源三郎が在城していたといわれる。
羽柴秀吉の中国平定のとき,宇喜多氏にその先陣を命じたので,浮田忠家は毛利勢のこの城を攻めるため大軍を八浜に送った。両車は近くの大崎の柳畑の海辺で激突した。これを俗に八浜合戦という。



この辺りから、常山もごく間近に見えます。







小川に映る常山。別名児島富士と呼ばれますから、逆さ児島富士、と、以前もご紹介しました。



頂上には、戦国時代から江戸時代初めにかけて城が置かれ、上野氏・戸川氏・伊岐氏等が居城としました。

過去の記事◇逆さ児島富士の一部を再掲します。







 児島湖に常山(児島富士と呼ばれる)が映って、逆さ富士が現出します。

真夏の空がまぶしい季節です。(7/6撮影)

_igp8981.jpg

こちらは、水田に映った逆さ児島富士です。

_igp8933.jpg



富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。

常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。



常山合戦案内
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。

本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、領主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。
しかし、女軍達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や広葉に囲まれて静かに眠っています。


   平成15年11月11日   玉野市教育委員会  「常山合戦案内」板より


この鶴姫は、毛利勢によって滅ぼされた備中松山城主・三村元親の妹に当たります。



上空を舞うのはトンビでした。

このあたりでよくミサゴの漁を見るのですが、この日はお目にかかりませんでした。





この碑のある一帯が第二号堤防であるらしい。





堤防の左側が陸地、右側が海だったようです。

後の工事で、右側の一帯も干拓されて、今では広々とした田園が広がっています。

石積み堤防は、石垣として、痕跡をとどめるだけになっています。







しかしよく見ると、カキ殻などがこびりついているのは、かつて海中であった名残です。









用水路のそばに、こんな鳥がいました。



















アヒルでしょうかね?

その近くに、何かが動きます。

画面中央ですが、わかるでしょうか?





トリミングしてみます。



ちょうど魚を捕らえたところでした。



今日はここまで。
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コメント 6

gonntan

写真で説明するのは結構難しいと思いますが
写真が的確きれいでよく現場が分かりますね
by gonntan (2016-12-12 22:33) 

kazg

gonntan様
ご案内すればすぐに片付くことですのに、言葉で説明するのはやっかいで、もどかしい限りです。
by kazg (2016-12-12 23:36) 

yakko

お早うございます。
最後にカワセミに会えて良かったですね〜(^_^)
by yakko (2016-12-13 09:19) 

馬爺

小川にカワセミがいるんですね、なんだか最後に珍しいものを見ると徳をしたような感じですね。
by 馬爺 (2016-12-13 12:10) 

kazg

yakko様
はい。カメラ取り出すのにもたもたたしましたが。証拠写真が残せました、

by kazg (2016-12-13 19:43) 

kazg

馬爺様
ハイ、終わりに大きなプレゼントです。
でもシャッターを何度顔しただけで飛び去ってしまいました。しかも、望遠側180mmのレンズでしたので、心残りは否めません〔笑)
by kazg (2016-12-14 06:41) 

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