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愛酒の日?の巻 [今日の暦]

今日は何の日?

愛酒の日


だそうですね。
こちらのページから引用します。

 酒をこよなく愛した歌人・若山牧水の1885年の誕生日。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり」と詠んだ。
関聯記念日

過去記事でも、何度か牧水(と酒)の話題に触れたことがありました。

重陽の節句あれこれ。最後は酒の話。


白玉の 歯にしみとほる 出会いかな(意味不明)


牧水余談


一番下の「牧水余談」の記事はこんな書き出しです。

 今朝方、M女史(わがブログではヨシミさんとお呼びすることもあります)から電話があり、昨日付けのブログを見たが、ちょうど昨日はヨシエさんと牧水の碑を尋ねたところだった由。(ヨシミ・ヨシエのお二方は、私のブログネタともなる種々の探訪をしばしば企画してくださる友人で、この記事をはじめ、何度か登場していただいています。)

さて、牧水が生まれた1885年(明治18年)の1月25日には北原 白秋が、翌1886年(明治19年)の2月20日には、石川啄木が生まれています。近代短歌のみならず、日本近代文学の牽引者としてそれぞれ独自の輝きを放つ彼らは、お互いに私生活上の交友もあったようです。
こちらのHPを少々参照させていただきます。
 歌人 若山牧水
早稲田の学生同士の牧水と白秋の交友がこのように描かれています。

 北原白秋を知って牧水の文学への情熱はさらに高まった。ちょうどそのおり、萬朝報の歌壇に投稿した歌が第一席に選ばれた。「明星」の与謝野晶子の選だった。
 この日は、昨夜半からしくしく痛み出した虫歯のため満足に眠れずに朝を迎えた。不快だった。だが萬朝報第一席入選はさすがにうれしく、歯痛をこらえて登校した。
 中林、北原らも新聞を見て承知していた。
 『ついにやんなすったね』
 牧水の肩をぽんとたたいて祝ってくれた。
 中林は、福岡県の出身で早稲田大学入学早早の四月十三日、教室で同じ九州出身ということで自己紹介して以来、よくつきあって、互いの下宿に行き来していた。
 名を春人、号を蘇水といった。
 後には、牧水、射水(白秋)、蘇水と並べて『早稲田の三水』と称して三人ともいささか得意気であった。。

今日は、私もささやかにお手伝いをしている「年金者組合」の地元支部の集まりがありまして、年金裁判の現状などを学習しました。上述のヨシミさんの姿もありました。会場は、以前この記事の際にも利用した音楽交差点。

ゴイサギに会う、の巻


この施設のオーナーで「コンダクター」の小松原先生が、会の終わりにご自身のピアノ伴奏でを歌唱を聴かせてくださいました。
その中の一曲が、「この道」。北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡です。

 この道はいつかきた道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ

この道はいつかきた道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる

懐かしく美しい「この道」が目に浮かび、心が洗われる気がいたしました。
きな臭く、軍靴で踏まれ、ぬかるんだアベ様御用達の「この道」は、御免被りたいものです。

北原白秋と啄木の交わりについて、北原白秋記念館のHPの、作品「邪宗門」を紹介するページにこんな記事があります。

 1909年(明治42年)3月、白秋が24歳のときに発表した処女詩集。
明治39年4月から41年末に書いた121の作品を収録しています。
「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」
白秋と親交のあった歌人・石川啄木は、この詩集を読んで、日記にこう綴っています。
二人は、当時開園したばかりの浅草の遊園地近くで、啄木は白秋の詩人としての成功を、白秋は啄木の就職を、互いに黒ビールで祝い合ったといいます。


また、若山牧水と啄木との交わりは、先ほどのHP 歌人 若山牧水に、こう紹介されています( 歌 の 友 石 川 啄 木 の 死)。

  初夏の 曇りの底に 桜咲き居り
       おとろへはてて 君死ににけり

  明治四十五年四月十三日、歌の友石川啄木が死去しました。
  牧水は前日雑誌のことで啄木を訪ずれました。
  啄木は病床に臥していて枕の許にあった小さな薬の箱を牧水
 に示して、「僕はこの薬を飲めば病気は治るのだが買う金がない 君貸してくれないか」と云います。
  牧水も金は持ちませんので友だちにたずね歩きましたが出来ませんでした。
  帰ってふと啄木の机の上を見ますと啄木の死後に出版された歌集 『悲しき玩具』の原稿がありましたのでその原稿を東雲堂書店に持参して二十円を借りて啄木に与えました。
  啄木は涙を流して喜びました。
  牧水は啄木の気分もよいので下宿に帰ってやすみました。
  翌朝早く啄木の夫人から危篤だとの報せが来ました。
  牧水が急いで行きますと夫人が啄木の耳許に口をあて「牧水さんが見えましたよ、わかりませんか」と呼びつづけますと奇跡
 的にも眼を開いて牧水の顔を見てにっこり笑い、昨日の金の礼を云い薬を買って飲んだことや雑誌のことなど話していましたが再び危篤に陥りました。
 牧水はすぐ医師を迎えに走り、帰って啄木の枕許を見ますと啄木の長女の京子の姿がありません。
  牧水はさがしに外に出て桜の落花でままごとをしていた京子を抱いて啄木の枕許に連れて来た時はすでに息を引きとっていました。
 そのときのことを詠んだ歌
 君が娘は 庭のかたへの 八重桜散りしを拾い うつつとも無し
 牧水は一日中独りで走り廻って啄木の葬式の準備をしました。
 夜の十時頃までは数人の通夜の客も居ましたが夜半を過ぎる頃になると啄木の枕許には啄木の父と牧水の二人でした。
 夫人は同じ胸部疾患が重いので隣室に伏していました。
 明け方近くになると啄木の父と牧水は話すことも無くなりました。
 この時、啄木の父は牧水に一筆書いた紙片をわたしました。
 牧水がそれを読みますと
  母みまかりて中陰のうちにまたその子うせければ」
  と題して
  親とりの ゆくえたづねて 子すゝめの 死出の山路を いそぐなるらむ

 とありました。
  牧水はこれを読んて、子を思う親の愛情に堪え兼ねて悲しみの余り、その日の啄木の葬儀には参列することは出来ませんでした。


石川啄木の臨終に立ち会ったのは、当時北海道室蘭の娘婿(山本千三郎)のもとに身を寄せていた父一禎(啄木とその父のこと参照)と、妻節子、幼い娘京子、そして若山牧水でした。啄木の親友であった金田一京助は、啄木危篤の報せを受けてかけつけますが、小康を保っている啄木の様子を見て、牧水に後を託して、大学での講義に向かうのですが、間もなく啄木は息を引き取ります。
明治45年(1912年)4月13日、午前9時30分のことです。
金田一京助は啄木50年忌にこんな歌を詠み、岩城之徳氏に寄せています。(岩城之徳著「石川啄木」おうふう)

 頼まれても病気の母子をいかにすべきせんすべ知らず息を詰めつつ
 友の臨終になぐさめの言葉ひとつ言へず腑甲斐なかりし身をとはに責む
 八時からの授業に若しや送れぬかといまはの友の我をいたはり
 病人のすすむるままに学校へ我が起ちたりき永久の別れ
 帰りくればもう息あらず少しの間中座をしらるこのしれ者
 悔ゆれどもとはに及ばずをこ故にあやまり暮らす生きの限りを
 病む妻と幼な子のこし何事もなきかに逝きし友の静けさ
 夢のごと時の流れて五十年きのふのごとく我のかなしき

参考サイト石川啄木 漂泊の詩人
 
「愛酒の日」ですので、久しぶりにウイスキーを買ってみました。


ちびりちびりやりながら記事を書いておりましたが、ついに酩酊し、収拾がつかなくなりました。きょうはこれにて。

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コメント 4

majyo

北原白秋は死ぬ思いで三崎へ行き、城ケ島の雨を作りました。
そんなことは昨年知りました。
牧水は旅の人、どこへ行っても立ち寄った碑があります。
おじいさんが、こちらに住んでいたのでやはり碑がありますよ
by majyo (2017-08-25 07:02) 

kazg

『城ヶ島の雨』心にしみます。
牧水の碑、「幾山河」の歌を詠んだ旅の経路日南で、こちらにもあります。
by kazg (2017-08-25 08:44) 

momotaro

啄木の最期と牧水のこと、お陰様で学習しました。
短歌は哀しみの定型誌のような気がします、楽しいのもありますけど・・・
by momotaro (2017-09-06 10:34) 

kazg

momotaro様
そう言えば、万葉の昔から恋の歌と同じくらい、心を打つ挽歌(死を悼む歌)が残されていますね。
by kazg (2017-09-06 21:03) 

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