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「渦虫」と「蝸牛」の三題噺後編、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

前回記事に「渦虫」と「蝸牛」を間違えた話題を書きました。
それがきっかけで、古い記憶が呼びおこされました。
「渦虫」でも「蝸牛」でもない「呉牛」は、過去記事(たとえば下の記事)に「畏友Hさん」「H氏」という名で何度か登場する、4年前に亡くなった友人の俳号でした。(私のブログには、別人のHさん、H氏、H君も登場しますので、混乱があったらお詫びします。)

自由なる友や何処を旅すらん


初盆や逢うて寂しき目覚めかな
西行も浮かれこそすれ花爛漫


西行の碑を抱くかに咲き初めし


亡き友を偲ぶ会あり燕来る


私は長いこと、早とちりでこれを「蝸牛」と錯覚し、句作の遅さをみずから嗤って「カタツムリ」に擬してそう名乗ったのだと思い込んでいました。彼の死後、大変な思い違いに気づきました。
辞書によると、「呉牛」とは、かくのごとし。

 《中国、呉の地方に多くいたところから》スイギュウの別名。


昔、ベトナム旅行で写したこの牛が、水牛でしょうか?
「呉牛喘月」という四字熟語があるそうです。

 ごぎゅう-ぜんげつ【呉牛喘月】の意味

新明解四字熟語辞典

  1. 過度におびえ恐れることのたとえ。また、疑いの心があると、何でもないものにまで恐れや疑いの気持ちをもつたとえ。暑い呉の地方の牛は月を見ても暑い太陽だと思い、喘あえぐ意から。▽「呉」は江南一帯の地。「喘」は息が切れて苦しそうに呼吸すること。「呉牛ごぎゅう、月つきに喘あえぐ」と訓読する。

彼は、悠揚迫らぬ大人の風格を備えた大らかな人物と、若い頃か傍目には見え、彼を知る誰しもが、そうしたなエピソードを語りつつ彼を偲んだものでしたが、彼自身は、みずからの繊細さ、ナイーブさを、深く自覚しておられたのかと、改めて感慨を覚えたことでした。
彼を亡くして程なく、彼を悼んで、県内外の多彩な方々が追悼文を寄せてくださり、彼の遺稿と合わせて「追悼・遺稿集」を編むことになり、その編集のお手伝いしたことがありました。自身もこんな追悼文を寄せました

 初盆に寄せて kazg
退職記念に始めた私のブログ記事から一部抜粋して、追悼の言葉とします。今年のお盆の記事です。(注2013年の記事です)
 (1)
今朝方の夢で、久しぶりにH氏と逢いました。
気心の知れた何人かの顔ぶれで、テーブルを囲んで、なにやら座談めいたことをしています。議論が白熱するというわけでもなく、沈滞するというわけでもなく、穏やかに、快い時間が過ぎていました。
いつものように、H氏は、要所要所で緩やかに発言し、気の利いた味のある意見を陳述します。それを、周りもいつもの通りに受け入れ、話題が快く展開していくのです。
「健在そうですね。これなら、また一緒に○○(地名ですが、どこだったか。)へもいけますね。」と私が言うと、周りも同感らしく一様に頷き、H氏自身も、まんざらではない様子。
もちろん私もみんなも、彼が癌で闘病の末、この4月に肺炎をこじらせて急逝した事実を重々承知した上で、そう思っているのです。通夜でも葬儀でも、さらぬ別れを惜しんだばかりなのに、こんなにあっけなく再会がかない、しかも、また以前のように、弥次喜多の旅さえもできそうだと、うれしく思っているときに、目が覚めたのでした。
そういえば、丁度お盆。彼にとっては初盆で、もうこの近くに帰ってきているのかもしれません。合掌  
初盆や逢うて寂しき目覚めかな

(2)
H氏への追悼の思いは、何らか書きとめておかなくちゃと思いながら、気が進みませんでした。
初盆でもあるので、少々メモを残しておきましょう。
ちょっと昔、H氏が中心になって、「平家物語」とか「西行法師」とか「小野小町」とかにちなんだ史跡や碑を探訪する「ツアー」が何度か企画されました。伝承のみで信憑性が定かでない「史跡」もふくめて「眉唾ツアー」と彼は名づけて、老若男女を楽しませてくれました。
私は、決して熱心な参加者ではなく、冷やかし半分に、一ノ谷などを訪ねた「須磨・明石の旅」に混ぜてもらって、「明石焼き」を堪能したこととか、炎天下「小町姿見の井戸」(倉敷市)とか、「小町の墓塔」(総社市清音黒田)などの埋もれた「史跡」を、汗を拭き拭き訪ねたことなど、いくつかのシーンが細切れに思い出されるに過ぎません。その旅の企画立案者であり、ツアーコンダクターであり、解説者・チューターであったH氏が、いつも一番楽しそうでした。
運転免許を持たず、車を運転しない、というのは、地方都市の住人としては、奇特な存在でしょう。(そのくせケータイは、持ってましたよね。必ずしも、文明嫌い、便利さ嫌いというわけではないんだ。いや待てよ、懐に扇子と日本手拭い、髭剃りには日本カミソリ、布団では中山式快癒器、多羅尾伴内を気取るファッションセンス、○万円という高級帽子etc.という志向は、やはり古典派ではありますね。)
車を持たない彼の機動力は、抜群でした。20代のある週末、「国鉄」の駅ホームでバッタリ出会い、どちらへ?と聞くと、京都の歌舞伎公演を観にいく途上とか。あの年齢から、歌舞伎趣味でした。東京の歌舞伎座へもひょいと足を伸ばす。前述の歴史探訪も、必ず事前の下見(これが彼にとっては本番?)を欠かさなかったそう。
旅行や遠距離移動は、苦にならなかったようです。用務で県外に出かける機会などあれば、併せて行きたい場所に足を伸ばして来るようなことが、しばしばあったようです。私などは億劫者ですので、点と線の移動で済ませてしまうことが多く、見習いたいと常々感じることでした。
1年余り前の大腸癌の手術後の、療養と抗がん剤治療の期間も、彼は隙を見ては高野山周辺を訪ねたそうで、そのポジティブな行動力には頭が下がる思いでした。
亡くなる直前、お見舞いしたときは、酸素吸入器を自分で着けたり外したりという状態ではあったものの、「重篤な大病」という様子は見て取れず、むしろ回復も間近という風にさえ感じられる気丈さで、それに油断してついつい長居してしまいました。心には密かに、次の旅の構想が広がっていたのかもしれません。文字通り「自由」になった今頃、どのあたりを愉しく旅しているのでしょうか?
病床で、彼は、冗談めかして「遺稿集」に取りかからなければならないと言っていました。目次・構想はあらかたできていて、あとは過去の「書院」(ワープロ)のデータをパソコンの文書に変換しながら、まとめたい。が、痛み止めの注射のせいで、始終うとうとしているので、この眠気と戦ってパソコンに向かうべきか、今は体力の回復を待つべきか悩んでいると、冗談半分に漏らしていました。
私は、「とにかく今はしっかり養生して、体力回復を先行させ、肺炎の治療を成功させて、あと気長に抗がん治療に向かいましょう。気長に、ゆっくりと」等と、当たり障りのない言葉を掛けるしかなかったのですが、まさかそのあと数日にして病態が急変して、帰らぬ人になろうとは思ってもみませんでした。
思い返せば、2007年の私の脳動脈瘤手術のあと、共通の友人であるUさんと自宅に見舞いに来てくれました。見舞う側と見舞われる側が、こんな風に逆転する場面など、夢想だにしませんでした。何しろ、彼の方が2歳も若いはず。お子さんもまだ学生だし、順番が違うでしょ。と、しきりに悔やまれてなりません。
彼の直接の死因は、肺炎。その背景に、転移した肺がんがありました。
彼を見送った4月の時点では、よもや私に、同じ病名が宣告されようなどと、誰が思いつくことができたでしょうか。でも、私のは、まさしく初期でしてね、あなたの苦痛や不安に比べたら、雲泥の差なのですよ。
ただ、病気が病気だけに、侮ることなく、「終活」の心構えだけは整えておきたいのですがね。なかなか、煩悩に勝てません。たとえば、きゅっと冷えたビール!(正確には発泡酒ですがね)
終活を心に期せど酒旨し

上の文章に登場する「共通の友人であるUさん」は、Hさんの幅広い文章や作品を拾って、「遺稿集」を編集する中心をになってくださいました。厳選したものを冊子に編んだのですが、冊子に収まりきらなかったものを惜しんでCDに焼き、親しい人たちに配ってくださいました。それに触れると、改めて悲しみが蘇るので、敢えて机の片隅に放置したままにしておりました。
「呉牛」を思い出したのをきっかけに、そのCDを探ってみました。
内容は、彼が精魂込めて発行しつづけていた学級通信や、教科通信、教育研究会などで発表した実践記録や報告、文化祭等の行事に向けて、生徒はもとより職場の同僚にも熱心に発行した「啓蒙」プリント、市民相手に連続講義した「平家物語」講座の資料、教職員組合の熱心なリーダーとして活動してきた彼の本領が発揮された手書き職場新聞(後に、「書院」版も)などなど、きわめて多彩で、在りし日の面影を彷彿とさせるものばかりです。
いや、それらに耽溺するのが探索の目的ではありません。お目当ては、「呉牛」の作品が収められた冊子。彼の職場で催されていたという句会での作品を集めて、彼の手書き文字で印刷製本され発行された句集がそれです。第一集から第三集までの句集から、「呉牛」の作品がすべて、CDに収められていました。
その句集は、生前、彼からリアルタイムで見せて戴いた記憶がありましたが、正直、斜めに眺めただけで、味わうこともせぬままで、感想を伝えることも論を交わすこともないままに終わりました。
第一集に、秋を詠んだ句が掲載されています。ちょうど、これからの季節と思うにつけても、また、若かりし日の「呉牛」氏の姿がありありと脳裏に思い浮かぶに付けても、感慨ひとしおの思いにとらわれました。
1ページ分だけコピーしてご紹介します。端正な手書き文字から、その人柄が偲ばれます。


句集の片隅に、次のような小文が付されていて、彼一流の含羞がほほえましく懐かしく思われたことでした。

自他共に認める完璧主義者の彼が、締切を前に、推敲に推敲を重ねて句作に励んでいる様子が思い浮かびます。歩みののろさをカタツムリに擬して「蝸牛」と号したか、との私の錯覚も、あながち的外れではないのではと、居直ってみたりもするのです。いやいや、そう言えば、「牛」も歩みののろいものの代表格でしたか?
第三集に付された次の小文は、だめ押しの感があります。

締切の間際まで、句作に励んだ彼が、実人生においては、なぜこうも早々と完結を遂げてしまったのか。締切までにはまだまだ、存分の猶予時間があたえられていたはずではなかったか、と悔やまれてなりません。
最後にもう一句。




これはわかります。
涅槃図についての蘊蓄は、以前、彼から聞いたことがあります。
孫殿の誕生待つや誕生寺の記事で、こんなことを書いています。

 4月に亡くなったH氏が企画・引率して実施していた一連の文学史跡巡り(誰言うとなく「眉唾ツアー」と呼ばれていました)の一環として、真夏の誕生寺を訪ねました。宝物館で「八百屋お七」の振り袖をみて、数奇な縁(えにし)に感嘆したものでした。Hさんは、ついでに、宝物館に展示されている涅槃図を前に、流麗な独特の口調で、釈迦入滅にまつわる蘊蓄を語ってくれたことを、今更のように思い出します。

宝物館に収められた涅槃仏

涅槃図 には 迦様 の入滅(死) を嘆き悲しむ菩薩や仏弟子たちとともに、十二支の動物のほか、鬼や象や鶴や孔雀など様々な 鳥獣が描かれており、ムカデまでが釈迦を悼むために駆けつけたというのです。
百の足に、わらじを履いて駆けつけるのは大変だったでしょうね、いやいや、これは別の落語ネタでした。
Hさんの蘊蓄話は、なお続きます。
昔から涅槃図に猫が描かれることはなく、猫は鼠にだまされて、釈迦の死に間に合わなかった。ゆえに猫は、ネズミを恨んで仇として追いかけるようになった、というのです。
十二支に猫がいない理由と、よく似た言い伝えですね。ところ変われば品変わるで、干支に猫が出てくる国もある(ベトナムではウサギの代わりに猫が登場するようです。留学生もそう言っていました)し、お寺によっては猫が描かれる涅槃図もあるそうですね。
今日はこれにて。

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風船かずら

涅槃図に猫が書かれていない、はじめてうかがいました。書かれていない理由なんてのもおもしろいですね。
by 風船かずら (2017-09-06 20:45) 

kazg

風船かずら様
猫が描かれた涅槃図もあって、それにはまたいわれがあるようです。
それにしても、釈迦入滅を悲しみ悼むものたちが、克明に描かれていることに感心します。
by kazg (2017-09-07 08:05) 

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