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秋の吉備路の歴史散歩、の巻(2) [折々散歩]

昨日の吉備路散策の記事の続きです。
一昨日、故旧の面々とともに訪ねたのは、備中国一宮である吉備津神社で、吉備の中山の北西麓に北面しています。。同じ吉備の中山の、北東麓にある吉備津彦神社は、備前国一宮であり、両社とも、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祭神としています。その吉備津彦命に退治された鬼=温羅にまつわる伝説を、今日は話題に取り上げてみます。
現職時代、私も所属していた岡山高生研(全国高校生活指導研究会岡山支部)のHP(現在は閉鎖中)に、こんな記事がありました。温羅に関する記事を一部引用させて戴きます。

温羅太鼓(ダイジェスト)目次

1990年岡山・倉敷市で開かれた高生研第28回全国大会で,現地実行委員会が発行した情宣紙の題名が「温羅太鼓」。
「さりげなく,だが力強く」を現地スローガンに掲げ,明るく楽しいトーンを大切にとりくんだ全国大会が,岡山高生研に残した財産は何だったか?あらためて確認してみたいものです。
なお「温羅」は「うら」と読み,古代吉備の伝説上の人物。近年岡山県では,町おこしの一環として,この「温羅伝説」にスポットライトをあて,「市民参加型のまつり」として「うらじゃ」祭りが盛大に取り組まれています。
このまつりが始まったのが,1994年だそうですから,岡山高生研の「温羅太鼓」のほうが,4~5年も先輩ということになります。自慢するわけではないですが...。(2007年9月記)
No 発行年月日 主な記事
1 1989/8/2 20年ぶりの開催 来年は岡山で会いましょう 現地実行委員長の言葉

アンチ桃太郎 
温羅太鼓とは?

この情宣紙「温羅太鼓」は,岡山に伝わる温羅(うら)伝説にちなんでいる。
岡山というと「桃太郎」が思い起こされるが、温羅伝説によると桃太郎の原型は吉備の国を侵略した大和政権の吉備津彦である。「温羅」とは吉備の国の王、百済から渡来し国を豊かに拓き、乞われて王となった。
凄惨な戦いの末ついに温羅は斬首されるが,その怒りの咆哮はいつまでも続き、民人の嘆きの号泣を誘ったという。今に伝わる吉備津神社の御釜殿での鳴釜の神事をはじめたのも、この亡国の人々ではなかったのだろうか。
そして私たちも「現代の温羅」なのである。

2 1989/8/2 ようこそ岡山へ

吉備の王 温羅を探る
鯉に姿を変えて吉備津彦と戦ったが

 昔温羅(うら)という大男が百済から渡ってきて吉備の国の「鬼の城」の山頂に城を築いた。温羅は新しい学問を広め平野を耕し水路をひらき山を拓いて鉄をつくり生産は豊かに国力は大いにふるった。女子供までが敬い慕い温羅は選ばれて吉備の王となった。

侵略軍がやってくる

 一方天皇家を長とする大和政権はその頃日本全土を平定しようとしており台頭する吉備の国を討つため兵をすすめてきた。彼らは自らを吉備津彦と名乗り温羅を鬼と呼んで八方に流言を飛ばした。
 侵略軍は中山に陣を張って進軍し温羅の軍勢は鬼の城で迎え撃った。吉備津彦が矢を放つと温羅は石を投げ矢と石は空中で火花を散らし戦いはいつ果てるともしれなかった。
 この時の故事によってできた「矢喰神社」というお宮がいまだに残っておりちょうど鬼の城と吉備津彦神社の中間に建てられている。

血に染まりながら

戦いにそろそろ疲れが見え始めた頃吉備津彦が2本の矢を射たところ一本は温羅の投げた石にあたりもう一本は温羅の目を射止めた。温羅は傷つき鯉に姿を変えて血に染まった川を下った。今ではこの川を血吸川と呼び下流の地方に赤浜という地名を残している。

首を食いちぎられた

 吉備津彦は鵜に姿を変えて鯉を追い詰め温羅はとうとう首を食いちぎられた。この時のことを物語るように「鯉喰神社」というお宮がある。
温羅の首は首村の刑場にさらされたがなおもカッと目をむき真っ赤な口をあけて怒りの咆哮を続けた。その声は野越え山越え国を失った民人の嘆きの号泣をさそって幾日幾夜もとどろきわたったということである。

鳴釜で吉凶を占う 
温羅の怒りの声が聞こえる

吉備津神社には古くから「吉凶占い」として有名な大釜がある。この吉凶占いは神主がご祈祷している間に巫女さんが大釜に火を入れて炊き大釜が熱くなってきて鳴り出すとそれは『よい運勢だ」というふうに行われるこれは「鳴釜神事」と呼ばれ,神のご託宣を受ける儀式とされている。

大釜の底に首が

昔吉備の国を征服するため吉備津彦が調停から派遣されこの地方を支配していた温羅との戦いに勝ちその首をはねた。温羅の首はさらし者にされたが何年もほえ続けた。そこで吉備津彦は温羅の首を大釜の底に埋葬することにした首はそれにもかかわらず13年もの間その地方の至る所に響くほどほえ続けた。

夢の中に温羅が

ある夜吉備津彦の夢の中に温羅が現われこういった。
「私の妻,阿曽姫にこの釜で米を炊くように伝えてください。そうすれば私は吉凶占いをして見せます。あなたはこの後神様におなりください。私はあなたの下僕となりましょう。」
 吉備津彦はこの後吉備津神社の主神として祭られておりその裏には温羅の魂を鎮めるための「お釜様」がある。

以下略

「温羅太鼓」と名付けられたこの情宣紙は、1990年8月2日までに34号が発行されています。私も、当時、情宣係の一員として、この発行のお手伝いをし、大会期間中は会場となっていたホテルの一室にとまりこんで早朝から深夜まで、一日数回発行の速報の編集に携わったことが思い出されます。また、現地実行委員会が提供する文化行事として、「温羅」とその一族に焦点を当てた群読劇にも取り組み、私も演者の末席を汚したものでした。このとりくみの中心を担ってくれたのが、当ブログでも何度か紹介済みの畏友H氏でした。その彼は、早々と文字通りの「鬼籍」に入ってしまわれました。また、現地実行委員長を勤めてくださったYさんは、この行事を「花道」としてこの年退職されましたが、ほど経ずして逝去され、またほぼ時を同じくして、敬愛するM先輩も旅立たれました。
思えば、1990年の頃は、岡山の民主的高校教育運動・文化運動が、最も輝いていた時期、従って私自身にとっても、最も幸せなりし日々であったと言えるかも知れません。
とともに、感慨深いのは、先日岡山でひらかれたの全国教育研究集会=教育のつどい」を、縁の下で支えた退職者や年配の現職者の多くが、やはり、1990年の『全国大会』を支えた現地実行委員会のメンバーと重なっていることです。



ところで、温羅の話題は、更にさかのぼります。
以前書いたこの記事から関連部分を、一部引用します。
◇昨日の「今日の暦」---「パパママバイバイ」のこと

  この事件(注:横浜米軍ジェット機墜落事件)を題材に、以前私が勤めていた高校の演劇部が、創作劇として演じたことがありました。手元の資料を探ってみると、1982年のことでした。「ハトポッポのうた」という題名で、中国大会にまで出場しています。墜落事故によって大やけどを負い、ついには息を引き取った林裕一郎君(当時3歳)がいまわの際に残した言葉が「パパママバイバイ」でしたし、弟の康弘ちゃん(当時1歳)も、「ハトポッポ」の歌を口ずさみながらあと追うようにして亡くなったのでした。「ハトポッポのうた」は、このエピソードに基づいてつけられた題名でした。
私は、当時事情により学校を離れていましたので、直接はこの演劇を観ることはできなかったのですが、手元には「鬼から鬼へ」と題する玉野高校演劇部創作脚本集(玉野高校演劇部OB会発行)という冊子がありましたので、改めてひもといてみました。若者の感受性と正義感の確かさに、深く励まされる思いがします。
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なお、冊子の「鬼から鬼へ」という標題は1979年の中国大会で優勝し、1980年の全国大会に出場した作品「鬼よさらば」と、1988年の中国大会で優勝し、1989年の全国大会に出場した作品「温羅のうら」にちなんだネーミングなのでしょう。後者は、古代吉備の国「鬼の城(きのじょう)」を本拠地とする鬼=温羅の伝説に題材を採り、平和に暮らしていた吉備王国の心優しい王が温羅(うら)であり、彼らを暴力によって滅ぼした大和朝廷の、歴史の偽造により、後に鬼に仕立て上げられたのではと問うのです。
最近、町おこしの一環として、岡山県をあげたイベントとして賑やかに取り組まれる「うらじゃ祭り」などが、まだ始まる前のことで、整備される前の荒れ山だった「鬼の城」にも登って取材したと、当事者から聞いたことでした。 

今回の吉備路散策では、温羅の根城と伝えられる鬼の城(きのじょう)も、最後の見学地として訪ねる計画でした。でも、一つ一つの見学地での滞在時間がそれぞれ長引き、今回は残念ながら割愛となりました。
造山古墳から眺めた山の山頂にぼんやり見えるのが、鬼ノ城ではないでしょうか?

トリミングしてみると、復元された城門らしきものが見えます。

チューターのSさんによるレジュメでは、こうあります。

鬼ノ城 (標高約400m)、 朝鮮式山城、 石垣・列石・水門・土塁などあり
斉明天皇・・・白村江の戦い(663年)で百済を援助するも唐と新羅の連合軍に敗退

ただ、この山城については、書物への記述が一切なく、未だに謎に包まれているようです。
伝説によると、この山に棲む温羅は石を投げ、吉備津彦は矢を射て戦ったといいますが、その矢を置いたというのがこの「矢置き岩」だそうです。

吉備津神社の見学を終えた一行は、次に鯉喰神社(倉敷市)に向かいました。倉敷市公式観光サイト「倉敷観光web」のHP中の鯉喰神社の記事にこうありました。

 吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅(うら)が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと、温羅はついに矢尽き、刀折れて、自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。

「鯉喰神社」といい「矢喰神社」といい。「血吸川」といい「赤浜」といい、異彩を放つネーミングです。「血吸川」という、おどろおどろしい名前のいわれを、Sさんはこう解き明かしてくれました。
この地方は、古代からたたら製鉄が盛んで、そのため、鉄さびが川を赤く染めたのだろう。ガッテン、ガッテンでした。



昨日は、長女が人間ドックを受診するというので、ジイジ・バアバで一歳児の子守を恃まれました。初めは寝起きで機嫌が悪かったのか、大声で泣き叫ぶので、虐待の通報を恐れるほどでしたが、程なく機嫌がなおり、診療期間近くの公園で、楽しく遊びました。
ハトが遊び相手です。



ナデシコが咲いています。

公示日で、選挙宣伝カーの声が聞こえてきます。この選挙区では県内唯一の立憲民主党、すなわち市民と野党の共同候補が立候補しています。
今日はこれにて。



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コメント 6

majyo

さすがに kazg さんのお仲間ですから、研究熱心な方が多いですね

お孫ちゃんのこもりですが
>大声で泣き叫ぶので、虐待の通報を恐れるほどでしたが

経験ありです。小さな時ですが、奇異に見る人の目が怖かったです
泣く子と地頭には勝てないですね
by majyo (2017-10-12 16:20) 

美美

お孫ちゃんは鳩が気になるようですね。
どんなものにも興味を持つお年頃なんでしょうね(∩.∩)
by 美美 (2017-10-12 23:48) 

kazg

majyo様
>研究熱心
わたしには、歴史はどちらかというと苦手な分野で、いつもアイマイで大雑把なのですが、面々は結構細かく、突き詰めた問題意識を発揮されます。もともと「理科系」の人ですが、というより、なればこそ、、、でしょうか?

>奇異に見る人の目
ひそかな、または、あからさまな、注目を浴びますからね。
by kazg (2017-10-13 06:26) 

kazg

美美様
>鳩が気になるようですね。
長いこと、飽きもせず後ろを着いて歩きました。
公園のハトも人慣れしているようで、飛び立ちもせずちょこちょこ歩き回るので、遊び相手には良いようです。
by kazg (2017-10-13 06:29) 

momotaro

温羅伝説、いいですね、貴重ですね
戦いって、相手を悪者にして戦意を高上させますよね
アンフェアです。
momotaroなんて名乗っていられなくなりましたね!
by momotaro (2017-10-14 16:54) 

kazg

momotaro様
芥川龍之介も、平和主義者の鬼の国を突如侵攻する好戦的な桃太郎を登場させていますね。一面的に自分だけが正義であると言い張ることの不当。考えさせられます。
他方、桃太郎は正義の象徴。躊躇なく正義を掲げ、悪を懲らしめるヒーローは、やはり子どもたちには必要かと思います。お友達だけを優遇したり、陰で私腹を肥やしたりしてはいけませんが、、、。
by kazg (2017-10-14 21:46) 

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