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大和考その3、の巻 [文学雑話]

「やまと」が詠み込まれた万葉歌として、山上憶良の次の歌(巻1 63)も、容易に思い浮かびます。


いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ 


ちなみに、この歌の訓読は、「日本」と漢字表記して「やまと」と読ませるのが通例のようで、前述の「万葉集全講」でもそうなっています。一方、「作者別万葉集」では「大和」と表記されており、他の解説書にもこの例は存在します。

原文(万葉仮名)は以下の通りで、「日本」の文字が用いられています。

山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌    去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武


「学研全訳古語辞典」の解説を引用します。

[訳] さあ、諸君。早く日本へ帰ろう。御津の港の浜辺の松は今ごろ私たちを待ち遠しく思っているだろう。

鑑賞山上憶良の、遣唐使として唐に滞在中の歌。「子ども」は従者や舟子らをさす。「大伴の御津」は難波(なにわ)(=今の大阪)の港。

山上憶良は、大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡りました。唐に「日本」の国号を承認させたのが、この時だったようですから、国号「日本」を意識したうえで、「日本」と表記したというのは、十分辻褄が合います。

高市黒人にも、少し似たこんな歌があります。

いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ    巻3  280

この歌は、万葉仮名ではこう表記されています。

【原文】(高市連黒人歌二首)    去来兒等 倭部早 白菅乃 真野乃榛原 手折而将歸  

呼びかけの「いざ子ども」(「去来子等」「去来兒等」)は、羈旅の歌によく用いられる呪術的慣用句だそうです。「大和(やまと)」の漢字表記は、「倭」です。歌意から、この「やまと」は国号ではなく、地方名と考えられます。
こちらのサイトから、歌の解説をお借りします。  
千人万首  高市黒人

【通釈】さあ皆の者よ、大和へ早く帰ろう。白菅の茂る真野の榛(はん)の木の林で小枝を手折って行こう。

【語釈】◇いざ子ども 旅の同行者に対する呼びかけ。妻がこの歌に返答しているので、一行の中には妻も含まれていたか。◇白菅 カヤツリグサ科の植物。スゲの一種。◇真野 神戸市長田区真野町あたり。琵琶湖西岸の真野とする説もある。◇榛原 ハンノキ林。ハンノキはカバノキ科の落葉高木。低湿地に生える。紅葉が美しい。◇手折りて行かむ 土地の霊を身に帯びるためのまじないであろう。同時に旅の記念ともなる。

【補記】妻の答歌は、「白菅の真野の榛原往くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」

【主な派生歌】
いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さへ濡れて朝菜つみてむ(大伴旅人[万葉])
いざ子ども早く大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(山上憶良[万葉])

注 この解説では、憶良の前掲歌(巻1 63)も「大和」と表記してあります。

事典で高市黒人を調べてみると、こうありました。

持統,文武朝の万葉歌人。下級官吏として生涯を終えたらしい。『万葉集』に近江旧都を感傷した作があり,大宝1 (701) 年の持統太上天皇の吉野行幸,翌年の三河国行幸に従駕して作歌している。ほかに羇旅 (きりょ) の歌や妻と贈答した歌がある。出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

成立年代的には、憶良の前掲歌(63の歌)と、黒人の280の歌は、ほぼ同時期の作と考えられます。

前者は国号としての意識から「日本」と表記し、後者は「大和地方」をさす語である故、旧来の表記「倭」を用いた、との仮説も成り立つかも知れません。それを「やまと」と読み、「大和」と訓読表記するのは、通例の事と言えそうです。

また、黒人には、こんな歌(巻1 70)もあり、同様の考え方が可能でしょうか?

【原文】倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流   

【訓読】大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる   

しかし、こんな例はどう考えたら良いのでしょうか。

大伴旅人の歌 (巻6 956)です。

【原文】八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念

【訓読】やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ  

歌意は「わが天皇が治めていらっしゃる国は大和もここ大宰府も同じだと思う 」といったところ。「ここ=太宰府」と対比される「日本」は、国号と言うよりも、「大和地方」と考えるのが妥当ではないでしょうか?これを訓読表記する際、「日本」をあてるよりも「大和」の表記の方が、なじみそうです。


「大和(やまと)」と訓読する万葉仮名は、他にも「山常」「山跡」「八間跡」などの例が見えます。

まずは、舒明天皇の「国見の歌」(巻1 2)

 【原文】 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜●國曽 蜻嶋 八間跡能國者   (●=りっしんべん+可) 

【訓読】大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

【読み】やまとには むらやまあれど とりよろふ あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには  

 また、太宰少貳石川足人の歌(巻4 551)。作者は太宰府で大伴旅人の部下であったようです。


【原文】山跡道之 嶋乃浦廻尓 縁浪 間無牟 吾戀巻者   

【訓読】大和道の島の浦廻に寄する波間もなけむ我が恋ひまくは  

【読み】やまとじの しまのうらみに よするなみ あひだもなけむ あがこひまくは

 大宰帥の任を解かれて都に帰る大伴旅人との別れを惜しんで、太宰府の役人大典麻田連陽春が詠んだという歌(巻4  570)が見えます。


【原文】山跡邊 君之立日乃 近付者 野立鹿毛 動而曽鳴  

【訓読】大和へに君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響めてぞ鳴く 

いずれも、万葉仮名の表記如何に関わらず、「大和(やまと)」と訓読表記することに違和感は感じません。

そこで、そもそもの発端の大伴旅人の歌(巻6  967)の訓読表記について再考します。

【原文】日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞

その「日本道乃」の箇所の訓読表記の例を確かめてみますと、「倭道の」(作者別万葉集)、「大和道の」(万葉集全講)、「日本道の」など様々な文字が当てられており、わが居住地近くの歌碑の表記「大和道の」は、決して失当とは言いきれないのではないかと思えてきました。

ところで、斎藤茂吉の「万葉秀歌」に、この歌に関連した記事があります。

ますらをとおもへるわれ水茎みづくき水城みづきのうへになみだのごはむ 〔巻六・九六八〕 大伴旅人
 大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に児島こじまという遊行女婦うかれめが居た。旅人が馬を水城みずき(貯水池の大きな堤)にめて、皆と別を惜しんだ時に、児島は、「おほならばむをかしこみと振りたき袖をしぬびてあるかも」(巻六・九六五)、「大和道やまとぢ雲隠くもがくりたり然れども我が振る袖を無礼なめしと思ふな」(同・九六六)という歌を贈った。それに旅人のこたえた二首中の一首である。
 一首の意は、大丈夫ますらおだと自任していたこのおれも、お前との別離が悲しく、此処ここの〔水茎の〕(枕詞)水城みずきのうえに、涙を落すのだ、というのである。
 児島の歌も、軽佻けいちょうでないが、旅人の歌もしんみりしていて、決して軽佻なものではない。「涙のごはむ」の一句、今の常識から行けば、諧謔かいぎゃくまじえた誇張と取るかも知れないが、実際はそうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戯れではない。「大丈夫ますらおとおもへる吾や」はその頃の常套語で軽いといえば軽いものである。当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目まじめにその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である。
「真袖もち涙をのごひ、むせびつつ言問ことどひすれば」(巻二十・四三九八)のほか、「庭たづみ流るる涙とめぞかねつる」(巻二・一七八)、「白雲に涙は尽きぬ」(巻八・一五二〇)等の例がある。

 

ここに引用されている966の歌には、次のような注が施されています。

右大宰帥<大>伴卿兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中有遊行女婦 其字曰兒嶋也 於是娘子傷此易別嘆彼難會 拭涕自吟振袖之歌

旅人が上京するとき、「兒嶋」という名前の遊行女婦が、涙をぬぐって袖を振り、別れを惜しんで詠んだというのです。この遊行女婦「兒嶋」は 、旅人の返歌(巻6  967)では「筑紫乃子嶋」と表記されています。「兒嶋」であれ「子嶋」であれ、肝要なのは「こじま」という女性の名が、「吉備の児島」と音が通う「こじま」であったという点でしょう。

原文はこうなっています。

【原文】倭道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈

訓読表記「大和道」やまとぢに対応するのは「倭道」でした。

ところで、たとえば、漢文表現「無礼」を、当時の古語にあてはめて、形容詞「なめし」に相当するであろうと読んだのは、後の世の研究者の知恵ですが、実際にそれが正しいかどうかは、あくまでも「?」です。事ほどさように、万葉仮名の読みは夢多きロマンを含んでいますね。

・今回の一連の記事では、柄にもなく、その作品の成立年代や作者の意識を考慮しながら、用語や用字の意味を探ろうと試みてみたのですが、不毛の努力だったかも知れません。万葉集に収められた作品は、基本的には「口承」文芸として生み出され伝えられたものが、編集者によって(漢字という外国の文字を借りて)文字化されたものです。従って、用いられた文字の取捨選択などに、作者自身の意識がそのまま反映されるものではないでしょう。

・万葉集の編集した撰者(編者)は不詳で、大伴家持が相当に重要な役割を果たしたらしいとしても、複数の編集協力者、または複数の作業スタッフが存在したようです。そのことは、万葉仮名表現の雑多性、多彩性とも無縁ではないでしょう。

・そもそも、万葉仮名は、漢字のほとんど恣意的な借用によって成り立っており、その表記には、統一的なルールが定まっているとは言えず、融通無碍とも言得るでしょう。(この話題はまた回を改めて書くかも知れません)

・そうなると、万葉仮名の使い分けが、そのまま対象物の識別を反映しているとも言い切れません。また、万葉仮名の読解は、後世の努力の蓄積によるものですが、いまだ途上と言うべきで、異見、異説の存在は、むしろ万葉集の興味尽きない魅力の源泉かもと、思い返したりしているところです。

暑くて、長時間戸外にいるこはできません。

先日、田舎に帰郷した際、畑のオニユリを写しておきました。強い日射しに負けていません。

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今朝の散歩。頭の上でシャンシャンシャンと大声で鳴いているのはクマゼミ、
ほとんどがクマゼミのように思われますが、カメラで捕らえたのはアブラゼミ。
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今では珍しいニイニイゼミ。
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今日はこれにて。

 

 

 

 

 

 

 


 

 


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momotaro

プリントアウトして理解しようとちょっとばかり努力したのですが、脳細胞が対応しませんでした。<(_ _)>
by momotaro (2018-08-16 10:47) 

kazg

momotaro様
余計なご苦労をおかけして申し訳ありませんでした。本人にも理解できません(汗)
by kazg (2018-08-18 17:56) 

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