SSブログ
<

ひさびさのこれなあに?の巻 [今日の「これなあに」?]

当ブログのカテゴリーの一つに「きょうのこれなあに?」という部立てがあります。でも、最近、ふさわしい題材がなく休眠状態でした。
が、久々の「これなあに?」
今朝の散歩で出会った生き物をご紹介しておきます。








いつもの散歩道の道端でみつけました。イタチの仔のようですが、とっさには何者か判断できませんでした。


これまでも、イタチはあちらこちらで見たことがありますが、こんな赤ちゃんは初めて見ました。


ちなみに、イタチが登場する記事は以下の通り。


PCもカメラも軽快、高性能であって欲しいものですが、、の巻


また、イタチ?の巻


「これなあに?」3連発、の巻


大雪(たいせつ)やぎっくり腰の家籠り


秋めくや まれびとあまたおはしける


一間(6尺)の大イタチ?の巻


ほんの一部を再掲します。


こんななぞなぞ歌をご存じでしょうか?

いたちのたぬき
作曲・うた:栗原正巳
作詞:うちのますみ・佐藤雅彦
いたちのたぬき
かにのかとり
さんまのまぬけ
おはしのおはなし
たまごとるタマ
ふろくふとる
バナナのバトル
はちまきまきとる
きゅうりのリトル
ジュースのストロー

そのこころは、
「いたち」から「た」を抜くと「いち」
「かに」から「か」をとると「に」
「さんま」の「ま」が抜けると「さん」
「おはし」の「おは」を「なし」にすると「し」
「たまご」 の「タマ」をとると「ご」
「ふろく」の「ふ」をとると「ろく」
「バナナ」から「ば」をとると「なな」
「はちまき」の「まき」をとると「はち」
「きゅうり」の「り」をとると「きゅう」
「ジュース」の「す」をとろう。「じゅう」になるでしょ。

おみごと!座布団一枚、ですな。

おあとがよろしいようで。


二つ目のこれなあに?


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


先日の高知旅行で、街歩きをしていたところ、ある公園の片隅で、数人の人影があり、三脚に設置されたスポッティングスコープなども見えます。そばには、何人かの学生さんか研究員さんかとおぼしき出で立ちの人が、網を持ったりバケツをもったり、なにやら作業中でした。
近寄ってみると、バケツの中にはいろいろな小魚や小生物が採集されていました。


P8255360


一部を拡大します。


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


そのそばで、トレイに載せた小魚を撮影中でした。右の人影は、カメラマンさんです。


P8255358


近寄って魚種を尋ねてみますと研究員らしき方が、「シマイサキ(の稚魚)」と教えてくださいました。


「私も写していいですか?」とたずねますと、カメラを構えていた方が「遠くからならいいですが、私はメディアのカメラマンで、趣味の撮影ではないので」と、仕事モード全開。遠慮がちに遠くから写させていただきました。あいにく持ち合わせていた機材が、フォーサーズの14mmレンズ。35ミリ換算で28mmの広角レンズですので、豆粒にしか写りません。


思い切りトリミングしてみると、、、こんな可愛い姿です。


P8255358.2JPG.jpg

海水魚のようにも見えましたので、どこで採集されたのですか、と問うと、そばの川の方を示されました。


そう言えばこの公園を探して歩く途中、磯の香りも感じられる潮入川かと眺めた川に接して、この公園はありました。


P8255344


P8255343


横堀公園と表示があります。


P8255345


実はこの公園は、武市半平太(瑞山)ゆかりの「道場跡」なのです。


高知市のHPにこんな記事があります。


「武市瑞山道場跡」についてはこちら。


武市瑞山は安政2年(1855)に道場を新築し、妻の叔父である島村寿之助と共同経営で道場を開いた。午前は寿之助が槍術、午後は瑞山が剣術を教え、門人も120人を数えるに至ったという。若き日の中岡慎太郎や“人斬り以蔵”と恐れられた岡田以蔵なども武市道場の門人である。
その後、人柄と実力を買われた瑞山は、安政2年(1855)の秋以降、藩命を受けて安芸郡奉行所(現田野町)、香美郡奉行所(現香南市赤岡町)に出張し、剣術の指導にあたっている。

この碑は、当初現在地より約30mほど東北の駐車場に建てられていたが、近年に横堀公園内に移された。


P8255349


P8255348


P8255351


P8255353


武市半平太といっても、歴史音痴の私にはピンと来ません。坂本龍馬とも昵懇だった勤王の志士、というレベルの知識以外には、「月様雨が~」のセリフで思い出す月形半平太のモデルと言ったことぐらい、、。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

月形半平太
つきがたはんぺいた

行友李風(ゆきともりふう)の戯曲。四幕。1919年(大正8)5月京都・明治座で沢田正二郎ら新国劇により初演。長州藩士の月形半平太は、茶屋に入りびたって酒と女に明け暮れている。月形は同志たちに軽挙妄動を慎んで自重せよと説くが、彼の真意を解しえなかった朋友(ほうゆう)の策略で、新撰(しんせん)組に襲われ、死して護国の鬼となるの辞世を残して息絶える。若き剣士にまつわる祇園(ぎおん)の芸妓(げいぎ)梅松と染八。恋あり剣ありの華やかな作品で、「春雨じゃ濡(ぬ)れて行こう」の台詞(せりふ)は有名である。歌舞伎(かぶき)式に下座(げざ)を用いるのをはじめとして、随所に様式的演出がみられる。新国劇の型物として『国定忠治』と双璧(そうへき)をなし、半平太の役は沢田没後、辰巳(たつみ)柳太郎から大山勝巳へと継承された。映画化も多い。[土岐迪子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例


このことから、「茶屋に入りびたって酒と女に明け暮れている」色男、というイメージがついて回りますが、実際の 武市瑞山はまじめ一方の志士で、女性関係と言えば、妻「冨子」ひとりを生涯愛した誠実な人間像が偲ばれます。


次の記事も高知市HPからです。
「武市瑞山」についてはこちら。


武市瑞山は文政12年(1829)9月27日、長岡郡吹井村(現高知市仁井田吹井)に生まれた。通称、半平太。本名は小楯、号は瑞山。瑞山と龍馬は親戚関係にあり、身分は郷士の龍馬よりも上で、上士と下士の中間にあたる白札。冷静沈着で優等生の武市と、いつも夢を語り「大風呂敷(大げさ)」と呼ばれていた龍馬は好対照だったが、一時は同じ方向に向かおうとしていた。

文久元年(1860)8月には、土佐藩同志の団結を計画して土佐勤王党を結成。勤王党員の手による吉田東洋暗殺後は土佐勤王党が台頭し、藩内で大きな力を持つようになり、栄華を極めた。しかし、隠居していた前藩主・山内容堂が土佐へ帰ってきてからは、一転して弾圧される立場となり、遂には瑞山も投獄された。龍馬が亀山社中を結成した慶応元年(1865)、瑞山は獄中で切腹させられた。享年36歳。


ウィキペディアに、武市半平太への「同時代人からの評価」が載せられていますが、中でもこれを印象深く読みました。


田中光顕 「一死君国のため脱藩した志士達は、全部土佐言葉丸だしで、オンシ、オラを使ったよ。それは、年齢の後先はなかった。身分の上下も越えて、みんなオンシ、オラだった。わたしが坂本君や中岡君にオンシが、オラがといい、坂本君も中岡君も、わたしにオンシが、オラがで話したよ。オンシ、オラが勤皇志士の合言葉であった。なつかしいのう。もっとも武市瑞山先生(半平太)は別じゃった。瑞山先生は一枚上であったので、みなが瑞山先生とか、武市先生とか呼んだ。例の墨絵の龍というのがあるだろう。瑞山先生は、墨絵の龍に似ているというので、墨龍の異名があった。それで、墨龍先生とも呼んだ。今ひとつは、アゴがうんと長かったので、アゴ先生と呼んだ。このように、瑞山先生には、必ず先生をつけて呼んで、呼び切りにしたり、オンシ、オラで話すものは一人もいなかった。陰で、噂をしてもアゴ先生といったよ。さすがに勤皇党の首領だけあって、皆が畏怖尊敬していたよ。ただ、坂本君だけは、瑞山先生の前であぐらをかいて、アゴが、アゴがと放談をやっていた。この時には、瑞山先生も顔をほころばせて、アザが、アザがとからかっていた。とにかく、瑞山先生は桁違いの大人物であった」


事前に下調べしてから現地を訪ねれば良いものを、いつもの行き当たりばったりの気まぐれ旅、見残し、心名こりは常ですが、珍しい魚にも会えてラッキーでした。

今日はこれにて。

nice!(32)  コメント(2) 

nice! 32

コメント 2

美美

シマイサキ、海から上って来たんでしょうかね。
カメラを向けていると気になりますよね(∩.∩)
by 美美 (2018-08-29 17:03) 

kazg

美美様
シマイサキ、海水と淡水が混じる河口付近などに棲息するようです。この川、すぐ先が海に通じているようで、汽水の環境なのでしょうね。
by kazg (2018-08-30 11:35) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA