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八咫烏と八咫鏡と平家蟹とアンパンマン、の巻 [折々散歩]

今日(9月7日)付の地元紙「山陽新聞」デジタル版(さんデジ)に、こんな記事がありました。


ファジ戦周辺渋滞緩和へ啓発標語 8日に岡山の国道情報板に掲示

「サポーターの 笑顔あふれる ファジロード」―。サッカーJ2・ファジアーノ岡山のホーム戦に、マイカー以外で来場するよう呼び掛けている「ファジウォーカープロジェクト」実行委員会は8日、サポーターから募った啓発標語を岡山市内の国道の情報板で流し始める。
電車やバス、自転車、徒歩での来場を勧め、シティライトスタジアム(北区いずみ町)周辺の渋滞を緩和する狙い。昨年は実行委が標語をつくったが、問題の解決に向けてサポーターも一緒に考えてもらおうと、公募に切り替えた。


地元サッカーチーム「ファジアーノ岡山」の愛称「ファジアーノ」はイタリア語で雉(キジ)の意。雉は岡山県の県鳥で、桃太郎伝説とも縁が深い。


羽ばたくキジをイメージしたエンブレム。


http://www.fagiano-okayama.com/prg_img/img/img2017121419385696508700.png


キジをモチーフにしたマスコットキャラクタ-「ファジ丸」。


https://i0.wp.com/vif-inc.com/wp/wp-content/uploads/2013/03/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%EF%BC%882013-03-16-2.38.17%EF%BC%89.png?resize=290%2C290


それでは、こちら、JFAのエンブレムは?


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/bs/thumb/a/a1/Japan_national_team.png/200px-Japan_national_team.png


3本足の八咫烏(やたがらす)をモチーフにしたものだそうですね。


八咫烏と言えば、和歌山の熊野神社が有名です。熊野神社HPから引用します。


八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。
八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。
この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。


ところで、岡山県内でも、八咫烏をシンボルとする高校があります。


その一つは、旧制岡山中学の伝統を継ぐ朝日高校同窓会HPの記事にこうありました。


校舎に隣接する城は、いかつい黒い外観から「烏城」とよばれたが、金箔瓦が用いられていたということで「金烏城」と言い伝えられてきた(鬼瓦に金箔が貼られていたことは、発掘で確認された)。この「金烏」という言葉は、当時の知識人(教師)の脳裡に、現代人には考えにくいイメージを呼び起こしたようである。たとえば、奈良時代の悲劇の象徴であった大津皇子の辞世の詩は、「金烏臨西舎」(日は西の家屋を照らし)ではじまる。この「金烏」は太陽のことである。つまり漢文の素養のある者は、太陽の異名と受け取ったのである。

古い中国では、太陽に烏が住んでいる、或は、烏は太陽にこもっている陽の精気が凝り集まってなった「日之精」と考えられた。もっとも有名な文献は『淮南子』(えなんじ)で、この「精神訓」には、「」とある。「」は「蹲」の古文で、「うずくまる」という意味であるから、太陽の中に烏がいるという意味になる。もっとも太陽に烏が住むという発想は、もともと太陽活動の極大期にあらわれる巨大黒点にもとづくものであろうから、似たような神話は、他の地域にもみられる。

ところで、紀元前に著作された中国の古典には、特に三本足と書かれているわけではないので、二本足の普通の烏であったに違いないが、のちに古典を注釈する学者たちが、奇数を重視する易の影響をうけてか、太陽に住む烏は三本足だと主張するようになり、図像でも、三本足の烏が描かれるようになった。時期的には紀元前後、即ち、2000年ほど前のことであり、現在では、誰もが太陽に住む烏は三足烏だと考えるにいたっている。

岡山中学の校旗では、この中国の伝説がそのまま図式化された。いや、正確に言えば、僅か違う。校旗の烏はうずくまっているのではなく、飛翔しようとしているからである。校旗の作製にあたっては、したがって、烏城を校地としているから、烏をシンボルとしたという単純なものではなく、烏城から金烏城、金烏から太陽、そして太陽に住む三足烏という連想が働いたとみられるのである。

この校旗の烏を八咫烏だという説をなす者もあるが、校旗が作製された時点では、中国文化の影響が主流であった。八咫烏は、イワレヒコ(神武天皇)が紀州から大和に侵入しようとして、熊野で前進を阻まれたときに、アマテラス(天照大神)が派遣した烏で、イワレヒコの軍を先導したと記紀にある。八咫とは大きいという意味。三本足とは書かれていないにもかかわらず、誰もが三本足というのは、これも中国の影響である。八咫烏は太陽神アマテラスのお使いであり、熊野那智大社の扇祭では、神官が八咫烏帽を被って、八咫烏になりかわって神事を執り行なうというように、背後に太陽信仰が見えることは言うまでもないが、前述のように図像的には、本校の校旗は、日本神話よりも、中国の直接的な影響をうけている。


もう一つは、旧制岡山中学校(後の朝日高校)の構内に、県立夜間定時制中学として設立された烏城高校。現在は移転して、昼間部・夜間部を設置する定時制高校となっています。以下はHP記事です。


http://www.ujo.okayama-c.ed.jp/images/koushou.gif校章のいわれ

校章には烏城の名に因みカラスが図案化されています。三本足のカラスの神話は日本にも中国にもあります。
中国の伝説では三本足の烏は太陽に住む鳥だと伝えられています。また、日本の神話では神武天皇東征の時、
熊野から大和へ入る険路の先導をした「八咫烏」(やたがらす)が三本足のカラスであったと言われています。
昔からカラスは大変頭の良い生き物として、人間と深い関わりを持った鳥でした。
烏城高校の校章は、太陽に住む三足烏がまさに飛び立とうとする姿を図案化したものです。


この八咫烏の「八咫」は大きいという意味があるようです。
ところで、続いては、同じく「八咫」がつく「八咫鏡(やたのかがみ)」のおウワサになります。


https://www.chiba-c.ed.jp/awakou/homepage/message/img/07sakuma2.jpg


上は、裁判官や裁判所の職員が身につけているバッジだそうです。銀色に輝く八角形の鏡の中心に、「裁」という文字が白く書かれています。八咫鏡をかたどったものだそうで、鏡には「真実をくもりなく映し出す」という意味が込められているのだそうです。


4年前に書いたこの記事でも、八咫鏡についても、ちょっとだけ触れました。


ギョメイギョジにまつわる漫ろ言


皇位継承のシンボルたるところの「三種の神器」=八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草那芸(草薙)之大刀(くさなぎのたち)のうち、勾玉と剣を合わせて「神璽・宝剣」といい、たとえば「大鏡」のこんな記述などによっても、天皇のアイデンティティを証明する絶対的な存在として扱われていたことが窺われます。

花山天皇の出家(大鏡)

【原文】 あはれなることは、おりおはしましける夜は藤壺の上の御局の小戸より出でさせたまひけるに、有明の月の明かかりければ、
「顕証にこそありけれ。いかがすべらむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせたまふべきやうはべらず。神璽・宝剣わたりたまひぬるは」と粟田殿のさわ
がし申したまひけるは、まだ帝出でさせおはしまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたしたてまつりたまひてければ、かへり入らせたまはむこ
とはあるまじく思して、しか申させたまひけるとぞ。
さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせたまふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃破り残して御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の「いかにかくは思し召しならせおはしますぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうでなむ」と、そら泣きしたまひけるは。


天の岩戸に隠れた天照大神の前に、彼女よりも貴い神がいるように見せるために差し出され、姿を写した鏡が八咫鏡だと伝えられています。


実物の八咫鏡は、伊勢神宮に納められ、形代(かたしろ)=レプリカが代々の天皇のもとに置かれたと言われます。


源平の合戦の際、三種の神器は、西へ西へと追われて逃げる幼帝安徳天皇とともにありましたが、ついに壇之浦の戦いで、安徳天皇とともに海中に沈んだとされます。


源氏は、水没した八咫鏡(形代)と八尺瓊勾玉(実物)を回収することに成功しましたが、草薙剣(形代)は見失ったままだとされます。


その形代の八咫鏡は、現在、皇居に安置されていることのなっていますが、それではこれはどういうことなのでしょう?


P9022031


ネット上にもいろいろな情報が載せられています。


なかでも、下関市の赤間神宮に建てられているという石碑に興味深い記事があります。


碑文
維時昭和33年4月7日赤間神宮に畏くも天皇皇后両陛下行幸啓御参拝の事あり是より恰かも百日目の7月13日岡山県英田郡作東町土居新町居住の元国鉄美作河井駅長たりし春名義雄氏は予ねて郷土史研究家として知られ地元妹尾家文書系図等調査中三種神器の一つ八咫鏡の埋蔵文化財の存在を知るに及ぶや正規の手続を経て土地の伝説たりしを現実に発掘するに至る春名義雄氏は此年9月13日安徳天皇御入水の地下関壇の浦に鎮座する赤間神宮大前に奉還を誓いしに地元住民の一部より八咫の鏡所有権確認請求訴訟を提起される等紆余曲折すること二十有余年即ち昭和53年其の一切を竟り来る昭和60年5月安徳天皇八百年先帝大祭を迎うるに当り斯くも生涯を賭したる春名氏の至誠一貫の精神を永代顕彰せんとして謹しみて其由来を明らかにするものなり 昭和59年12月吉日
赤間神宮宮司 水野久直 記


要約すると、昭和33年、岡山県英田郡作東町(現美作市)土居新町に住む春名義雄氏が、地元旧家の文書の記述を頼りに、埋蔵されていた八咫鏡を発掘し、安徳天皇入水の地にある赤間神宮に奉還したものだと言います。地元住民の一部から、八咫の鏡の所有権をめぐって訴訟がおこされるなど、紆余曲折があった事も記されています。


ネット情報を頼りに補足しますと、安徳帝は、近くに仕えていた妹尾太郎兼康に鏡を手渡し、平家再興を託した。兼康は備中美作国に落ち延び、旗揚げの機会を待ったが果たさず死んだ。 兼康の末裔に当たる妹尾登代根さんは、鏡の隠し場所をしるした古文書を持っており、このことを郷土誌で知った春名さんは、鏡の隠し場所が岡山県英田郡作東町、その名も“天皇谷”と呼ばれる山中であることを登代根さんから聞き出した。
発見した鏡をどうするか、いろいろな意見が交錯したが、町民大会では、発見者の春名氏に一任することになり、春名氏は安徳帝最期の地である赤間神宮に奉還することになった。
しかし、妹尾さんは、鏡の所有権が、妹尾太郎兼康の子孫である自分に属するとして「八咫鏡所有権確認請求訴訟」を岡山地裁に起こすなど、紆余曲折があったそうです。


一説には、妹尾兼康は木曽義仲軍に敗れた平清盛の家臣で、壇ノ浦の時には生きていないので、鏡に関与できるはずがないともいい、また、兼康ではなくてその子か孫であろうとも言います。


また、まったく趣の異なる意見として、「美作後南朝」と関連づける説などもあるようで、興味が広がります。


イチローさんによると、先日メガソーラーを案内してくださった岡本さんのお父さんが、八咫鏡にお詳しく、面白いエピソードもたくさん知っておられる由。これまた興味津々です。


今日の付録。


スーパーの鮮魚コーナーでパートをしているバアバが、またまた見つけてきました。ヘイケガニです。三種の神器の行く末を目撃しているでしょうか?


P9079389


保育園児が、昨日からお熱です。


熱冷ましの冷却シートと、いかついマスクで、なにやらアニメのキャラクターのようです。


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


退屈しのぎに百円ショップに粘土を買いに行き、バアバとママと三人でアンパンマンをつくったそうです。


P9079371


今日はこれにて。


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美美

お孫ちゃんお熱下がったかな~
by 美美 (2018-09-11 11:17) 

kazg

美美様
ありがとうございます。その夜はまた高熱を出したそうですが、今は平熱に戻って。昨日から保育園にいってるようです。子どもは、熱を出すのも急ですが、直るのも早いですね。
by kazg (2018-09-11 17:46) 

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