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幽かな糸が繋がった、の巻(最終回) [折々散歩]

この「幽かな糸」シリーズの発端となった、高知でのM君との会話は、「先の大戦で犠牲となった、300万人とも言われる日本人死者の大多数は、戦争末期に生じたもの。無謀な戦争政策を推し進め、ブレーキもなく泥沼へつき進んでいった戦争指導者の責任は改めて問われなければならない」というような文脈で、元空母乗組員であった滝本さんの、辛酸の体験の語り部活動に、話が及んだのでした。


トラック島の犠牲者も、日本各地における空襲による犠牲者も、さらには沖縄戦、ヒロシマ、ナガサキの犠牲者も、失わずとも済んだ命であったに、という恨みは拭えません。さらに、「終戦」の後も、政府の過誤によって失われた命があったことに、衝撃を覚えたのは、つい最近のことです。


二週間ほど前の、教育相談ボランティアの日、親しい知人の紹介だとして、Aさんが聞かせてくださった録音番組がありました。NHKラジオの「ラジオ深夜便」7月14日放送の 「ぼくは、妹と母を手にかけた」旧満州からの引き揚げ者・村上敏明さんという番組です。


こちらのブログ(明日への言葉) で、文字起こしをしてくださっています。


村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)

・ぼくは、妹と母を手にかけた

83歳、1946年の夏、日本に引き上げる直前指示されるままに、当時1歳だった妹と病気の母に毒薬を飲ませるという経験をしました。
長旅に耐えられないものは殺そうと誰かが決めたのか、はっきりしたことは判りません。
当時11歳だった村上さんはそのショックで前後の記憶を失ったと言います。
戦後、この出来事を覚えていた友人の小林誠さんの話を聞いて村上さんは失われていた記憶と向き合います。
2010年妹と母がなくなった旧満州を再び訪れたあと、断片的な記憶を詩に綴り徐々に人前でも語るようになりました。

詩「消え去った記憶」
「多くの人が文子を囲み見つめていた。
母が文子を抱いて飲まされた水薬、黒い瞳が僕をじーっと見つめ息を引き取った。
文子、文子だけが僕の記憶にある母の声。
衝撃に吹き閉ざされてしまった僕の記憶。」

毒の入っている水薬を僕が飲ませました。
黒い瞳が僕をじーっと見つめ、なんか語るようだがそこだけは覚えている。
そのほかのことは一切覚えていない。



中日新聞 「あの人に迫る 村上敏明 戦争の語り部」(2018年4月20日)に、 ほぼ同様の記事が掲載されています。少し長くなりますが、一部引用します。


村上敏明さん(83)は毎週金曜、関西電力京都支店前での脱原発のアピール行動に参加する。改憲阻止のための三千万人署名運動に携わり、戦争の語り部も続ける。若い人にも戦争の悲惨さを伝えたいとフェイスブックやツイッターを利用し、フォロワーは計五千四百人を超えた。その熱意は、戦後の旧満州(中国東北部)で母と妹を自らの手であやめた深い悲しみと絶望から来ている。

ポツダム宣言を受諾後の八月九日、ソ連軍が満州に侵攻を開始。私は小学五年生だったが、男手がなく「ソ連の戦闘機が飛んできたら知らせてくれ」と言われ監視要員に。中学生は火薬を詰めた竹筒でソ連兵の陣地を壊す訓練を強いられ、ソ連軍の戦車にひかれて死亡した先輩もいた。

-日本政府の棄民政策に失望した。

終戦前、ポツダム宣言受諾を決めていた日本政府は「外地に居る居留民はでき得る限り定着の方針を執る」と棄民政策を打ち出した。戦後、一挙に満州の日本人が、日本に戻ったら混乱すると思ったのだろう。

詩人の加津牟根夫(むねお)さんの「軍隊は住民を守らぬものなりし、満州を見よ、沖縄を見よ」の詩に私は「今、福島を見よ」と付け加えて発信している。敗戦後の政府も、現在の政府も都合の悪いものは、常に排除し続けているのは同じだ。

敗戦後も兵隊たちは郊外の川岸で「俺たちは負けない戦うぞ」と穴を掘っていたが、政府は棄民政策を強め、八月二十六日に大本営が「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」と発表。このころ四平にはソ連兵による威嚇のための発砲音が毎日聞こえるようになった。

(中略)


(満州の財界有志の動きもあって、ようやく日本引き揚げが実現したが) 四平の日本人会幹部が中国の関係者と協議を重ね、「栄養不良で病弱の子供は列車の旅で大変になるから殺すように」と、指示を出したようだった。

詳細は思い出せないが、自宅には母と二人の弟、医者、お坊さんがいて、僕に恐らく何かを指示した。僕は母が胸に抱いていた一歳の芙美子の小さな口に毒入りの水をスプーンで注いだ。瞬間、芙美子は目を見開き僕をじっと見て、そのまま息を止めた。その顔は「お兄ちゃん何をするの」と、にらみつけ必死に訴えているようだった。まだ、言葉は発しなかったが、苦しそうな目だけは、今でもはっきりと思い出す。
(中略)


引き揚げ窓口の日本人会が病弱の子を殺すことをどこで決めたかの記録はない。妹は戸籍に記載されておらず、妹の死を知るのは私と弟と(親友の)小林君だけだった。
ショックのためか、妹を殺した後の記憶がないが、小林君は三十六年後に再会した時、開口一番「お母さんどうしてる」と聞いてきた。「なぜ」と聞くと、「君のお母さんは妹さんをあやめた数日後、引き揚げで僕の家の前を通った時に歩かず荷車に乗り、僕らに手を合わせていた」。小林君は「君は泣きじゃくり『妹を殺した』と話していた」と四平での出来事も語った。
七月下旬から八月七日にかけて母は動けなくなり、葫蘆(ころ)島港(現遼寧省)近くの病院に入院した。数日後、薬を飲ませていた私に、いつもと違う白い薬が医師から手渡された。母の口に流し込むと、母はすぐに白い泡を吹き息を引き取った。当時、回復の見込みがない病人には、青酸カリが処方されていた可能性が高いと、後に知らされた。


この記事を読んでいて、何気なく末尾の執筆者署名に気がつきました。


◆インタビューを終えて

市民活動で活躍する医師の竹内由起子さん(43)から「すごい人がいる」と村上敏明さんを紹介された。

「戦争は絶対だめ」と繰り返し、太い眉の下のつぶらな瞳の奥に揺るぎない意志が見え隠れするようで圧倒された。

愛する母や妹をあやめたことへの罪の意識を背負い、長い沈黙を続けたが、政治の進む方向に危機感を募らせ「今こそ言わねば」と、二〇一〇年に「四平小学校同窓会記念誌」で満州での自らの体験を記し、それ以降、積極的に語るようになった。不思議と毎晩見ていた悪夢を見なくなったという。

「残りの人生で、芙美子や母が『きちんと戦争を語り尽くして』と言いたかったのかな」

村上さんの心のバトンを私たちが引き継いでいかなければ。

(望月衣塑子)
 


あの(モリカケ問題や、レイプ被害告発の伊藤詩織さんの事件をめぐって、ジャーナリスト精神を発揮して望月さんではないですか。


思いがけなくも、幽かな糸があれこれ繋がった気がしたのでした。


【今日の付録】


これなあに1


郷里の家のイチジクの葉に、珍しいチョウがとまっています。


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トリミングすると、、、イシガケチョウ(イシガキチョウ)?



これなあに2


物干し竿にいるのは?


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アマガエルです。




これなあに3


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胡麻の花です。


古里の山、故郷の川、、、


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これなあに4


電線に止まっているのは?


トンビでした。



これなあに5


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これはフヨウ?


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今日はこれにて。


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コメント 4

majyo

ラジオ深夜便のこの記事にあるもの
後に聴きました。記憶を無くすほどショックだったことでしょう
ドイツが降伏した時、日本も降伏していたら東京大空襲、広島、長崎
沖縄も死者が出なかったと何かで聴きました。
それについては、裁かれる人がいて当然です
満州逃避行は多くの悲劇を生みましたね

by majyo (2018-09-20 07:21) 

kazg

majyo様
記憶を失うほどのショック。想像して余りあります。
満州からの引き揚げ者は、同業の先輩の中にも多いです。
by kazg (2018-09-21 12:07) 

風船かずら

戦争で何が起こるか、知らないと戦争への道を許してしまいますね。
by 風船かずら (2018-09-24 22:04) 

kazg

風船かずら様
無知の怖さですね。知識の欠如、それ以上に想像力の欠如も、怖ろしいと思います。
by kazg (2018-09-27 19:24) 

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