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昨日今日の備忘メモ、の巻 [折々散歩]

書くべき題材はあるのです。

が、時間と、気力が足りません。

とりあえず、昨日。今日の備忘メモです。

昨日は午前中、内科と眼科を梯子。内科でひと月分の度の血圧の薬をもらったあと、眼科に向かいます。車で10分ほどの距離ですが、予約時間まで間があります。

時間つぶしに近くの田園地帯を歩いてみました。以前は家からここまで、時々歩いたことのあるコースです。

夜から朝に欠けて雷雨があり、明け方も雨が続くかと思われたので、防塵防滴のカメラfuji FinePix S1を車に乗せていました。

雨はすっかり上がり、秋の日が射しています。刈り入れ間近の稲穂が黄金色に輝いています。

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刈り入れの済んだエリアとのグラデーションが絵画的です。

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アオサギ。

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ダイサギ。

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コガモがやってきています。

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けたたましい鳴き声のモズ。

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トリミングします。

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午後は、退職同業者の会の所属支部で、八十五歳を迎えられた先輩の長寿をお祝いする会が開かれました。おいでくださった先輩はUさん、Iさんのお二人。

Uさんは、以前、同じ職場で長くお世話になり、その人となりは十分承知しているつもりでしたが、自己紹介がてら語られた生い立ちは、初耳の部分も多々あり、改めて歩んでこられた人生の重みを感じました。10人兄妹の一番上のお兄様は、少年の頃、陸軍演習場内の不発弾に触れた爆死された由。次兄は小学校高等科を卒業ののち、満蒙開拓青少年義勇軍の一員として志願して満州に渡られ、敗戦後、引き上げの途中亡くなられたそうです。と言っても、確かめるすべはなく、同行の帰還者の口から聞かされたというだけだそうです。

小6で敗戦を迎えられますが、自身の経験からも戦争には特別の思いがある、とおっしゃいます。きな臭い昨今、ご自身の部屋には、集会や行動のたびごとにもらって帰った金子兜太さん揮毫の「アベ政治を許さない」のポスターをはじめ、憲法まもれ、辺野古基地反対などのポスターを貼って毎日拝んでいる(笑)とのこと。

そう言えば、この夏も、炎天下の平和行進でお会いしました。(猛暑日の涙、の巻の記事の日)。またこの記事↓をはじめ、これまで話題にしてきた年金者組合の行事や行動、裁判などの場でも度々お目にかかることができます。

マクロスライド?なんのこと?---消えた傑作の巻?

そのようなわけで、ご退職後25年もの歳月を感じることなく過ごしてきましたが、改めて考えれば得難いお手本と、頭が下がります。

Iさん(女性)は、勤務地、学校種別の違いもあって、在職中面識はなかったのですが、お伺いするとこれまた歴史の重みに圧倒される半生です。僻地の小学校勤務から教職生活を始められ、長く養護学校(現在の特別支援学校)で障害児教育に携わってこられました。組合婦人部(現在の女性部)で率先して活動されたご様子を、同席の後輩女性元教師の方々が、こもごもに回想して語ってくださいました。職場での男女差別は近年に至るまで厳しく、職場ではお茶汲みが日常茶飯、退職年齢も男女差別があり、出産・育児と仕事を両立することがきわめて困難な時代、職場の民主化、退職(勧奨)年齢差別撤廃と年齢延長、出産育児休暇の拡大など、血のにじむようなたたかいの積み重ねが、昨日のことのようにありありと目に浮かびます。ところで、このiさんも、生まれは旧満州、小6で敗戦を迎え、命からがら引き揚げてこられたそうです。
会場には、少し年下ながら、旧満州からの引き揚げを体験された方が他に二人もいらっしゃいました。その中のお一人、Yさんは、最近NETなどで、中国・韓国などへの侮蔑的なヘイトが目に余る、戦争前夜、戦中の空気に酷似しているのでは、と強調されました。ぞくりと肌が寒気立つ思いがしました。
そう言えば、支部が違うこともあってその場には参加されていない、Nさん、Tさんなどからも、引き揚げのお話をうかがったことがありました。満蒙開拓の歴史が、ぐっと身近に迫ってくる思いがします。

以前書いたこんな記事を、ふと思い出しました。

散歩道のモズが思い出させたこと、の巻

ところで「もずが枯れ木で」の「兄さ」は、兵士として満州に渡りました。しかし満州に渡ったのは、兵士ばかりではありません。
「満州事変」後、「満蒙開拓団」と呼ばれる数十万人に及ぶ「移民」の一団が、「国策」として旧満州(中国東北部)に送り込まれたのでした。
「デジタル大辞泉の解説」を引用します。

まんもう‐かいたくだん【満蒙開拓団】
満州事変後、日本が満蒙地区に送りこんだ農業移民団。昭和7年(1932)に第一次移民が送り出され、昭和20年(1945)敗戦時には約32万人がいたといわれる。多くがソ連・満州国境地帯に入植し、中国人・朝鮮人の既耕地を収奪する結果となった。第二次大戦敗戦直前、ソ連の対日参戦で関東軍から置き去りにされ、多大な犠牲者を出した。満州農業移民。

ユ-チューブにこんな番組がupされており、見応えがあります。
↓NHKスペシャルの番組です。
◇満蒙開拓団 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ejMaOdvvZaw
↓ 満蒙開拓青少年義勇軍を題材にしたアニメ-ション映画満開拓と少年たちを描くアニメ-ション映画です。

◇「蒼い記憶」
https://www.youtube.com/watch?v=tCeRQm0FljM

満蒙開拓団を最も多く送り出した県は長野県で、資料によっては38、000人とも3.3000人ともされますが、送出の運動は全国に及び、岡山県からも、2900名前後が送出されたといわれます。
去年(2015年)の8月24日付地元紙「山陽新聞」に「中国・満蒙開拓団跡ツアーに同行 今も残る「美作」、消える証言者」という表題の記事が掲載されており、私の郷里「美作」にも関係するので、切り抜きして保存しています。

中国・満蒙開拓団跡ツアーに同行 今も残る「美作」、消える証言者

戦時中、旧満州(中国東北部)へ日本人移民が送り込まれた満蒙(まんもう)開拓団の足跡をたどるため、8月7日から12日まで、近現代史研究家の青木康嘉興譲館高講師(63)らの訪問団が中国黒竜江省などを巡った。戦後70年がたち、戦争を語る証言者や建造物が中国の地でも消えつつあることを実感した旅。一行に同行、現地の今をリポートする。
■ □ ■ □ ■
トウモロコシ畑が続く地平線に日が傾き始めた。日没まで時間がない。ロシア国境に近い黒竜江省の樺南県。目的地の七虎力(しちこりき)開拓団跡を目指し、近隣村民のバイクの先導でツアーバスが広野を走る。
「あった!」。諦めかけたころに、青木さんの声が上がった。道沿いの道路標識に今も残る「美作」の文字。同開拓団美作郷があった名残だ。
岡山県から入植
七虎力開拓団は、近畿中国地方から178戸626人が入植していた(西崎忠雄著「七虎力村」)。特に岡山県からの入植者が多く、美作のほか、岡山、吉備津、備前の各郷に分かれて出身地別の集落を形成していた。
今では集落ごとなくなっている所もあり、当時の場所を特定することは難しい。だが、事前に「美作の地名が残っている」と残留孤児だった中国帰国者から証言を得られたため、訪問団として初めて入る同開拓団集落の目標にしていた。
美作郷跡にある集落は、「七一村」と地名を変えたが、地元住民によると、今でも「美作(メイツォ)」の旧地名を使うという。当時、岡山出身の開拓団員が始めた水田の耕作も続いている。村の中には屋根が崩れかけたり、改修された旧開拓団家屋が3軒点在するのみだ。
旧満州の開拓団は、終戦直前に参戦したソ連軍に追われ、農地を捨てて逃げ惑い難民化した。七虎力開拓団では暴徒の襲撃や集団自決が相次ぎ、400人が死亡したとされる。
だが、村の古老・憑甲臣さん(73)は「日本人がいたことは聞いているが、当時を知る住民はもういない」と話す。
住民と交流
七虎力開拓団跡から100キロほど離れた林口県の竜爪(りゅうそう)開拓団跡も訪れた。岡山県出身者でつくる日の出郷は、ツアーに参加した小林軍治さん(72)=岡山市=の生まれ故郷だ。
「満州第六次龍爪開拓団の足跡」(船越美智子著)によると、同開拓団の在籍者は、1254人。終戦当時2歳だった小林さんは、生還者575人のうちの1人。
今でも「竜爪(ロンジャオ)」と呼ばれる村の訪問は、小林さんにとって1983年に父親と来て以来5回目。到着すると大勢の住民が集まり、開拓団時代の古い家屋に案内してくれた。
所有者の候桂英さんは終戦直後にここで生まれた集落の最長老。「昔、日本人がここにいたことしか知らない。もう戦争を起こさずに平和が続いてほしいですね」と言う。
今は日中友好協会岡山支部事務局長を務める小林さんは「気持ちよく迎えてもらい、里帰りした気分。お互い重い歴史を背負っているが、何度も交流して理解を深めたい」と顔をほころばせた。

(中略)

満蒙開拓団 1931年の満州事変後、日本が実質的支配権を握った旧満州などに渡った農業移民団。国策によって強力に推し進められ、全国から約27万人が送り込まれたが、ソ連参戦によって逃避行と難民生活を余儀なくされ、死者が続出。残留孤児を生み出した。岡山県史によると、県出身の開拓団員は2907人。うち、死者775人、未帰還者213人。

(2015年08月24日 11時29分 更新)

記事に登場する青木康嘉氏は、同行の高校教師で、世代も近く職場のご縁も浅いと言えない間柄。長く、植民地時代の日本と中国、また韓国・朝鮮の歴史を、掘り起こす活動を続けてこられました。また、小林軍治氏も先輩同業者で、若い頃から親しくしていただいていますが、中国引き揚げ者であるというご自身の体験から、退職後は、中国残留孤児・帰国者の生活・権利の問題や日中友好の運動をライフワークとしておられます。

上は、2年前の秋に書いたブログ記事ですが、内容を忘れていました。この記事に登場する小林軍治氏は、実は今回の「長寿を祝う会」の主催者のお一人です。

蛇足ながら、この新聞j記事を書いた同行記者の名前に見覚えがあります。たぶん、(ほぼ確実に)、今から三十数年前、彼は高校生で、私の授業を2年間ほど受けている間柄です。高校時代も新聞部で辛口のコラムなどを書いていました。生徒会の活動にも社会問題研究の活動にも熱心にとりくんでいた様子を記憶しています。入社間もない頃、会って以来ですが、立派な仕事ぶり成長ぶりに、感慨を覚えたことでした。(まったくの余談です)

自分に誇るものがないせいで、友達自慢、知り合い自慢をする習癖が身につきました.余談ついでに、友達自慢をもう一つ。

愛知県在住の友人ハチロークンが こんなニュースを知らせてくれたと、ヨシミさんが教えてくれました。

松山市長選 共産系植木氏が出馬会見

10/11(木) 17:07配信

愛媛新聞ONLINE

松山市長選

松山市長選に出馬を表明し、公約を語る植木正勝氏=11日午前、市役所

任期満了に伴う松山市長選(11月11日告示、18日投開票)で、共産党中予地区委員長の植木正勝氏(66)=北梅本町=は11日、市役所で会見し、同党推薦の無所属新人として出馬を表明。「憲法を生かした暮らし・福祉を守っていく」と述べたほか、県営黒瀬ダム(愛媛県西条市)からの松山分水中止や原発ゼロなどを公約に掲げ、現職との差別化を図るとした。

愛媛新聞社

この植木正勝氏(66)は、大学同期の友人です。以前この記事夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて

でも紹介(友達自慢)したことがありました。

閉会挨拶をしているのは、高知県議米田稔氏(公人なので公表しておきましょう)。彼も同期で、教育学部中学校課程の出身。学生時代、アパートに泊めてめてもらったり、箱買いのインスタントラーメン(実家からの仕送りらしい)を食べさせてくれたりしました。「ラーメン食う?」という、独特の声音が今も耳に残っています。
英語教師への道を断念して、社会運動に身を投じ、市会議員を経て県会議員を五期勤めています。
ちなみに、7月の参議院選挙で東京選挙区から立候補して見事当選した吉良よし子さんのお父さんが、米田氏の同僚県議の吉良富彦氏。お母さんも、学生時代の年下の友人です。何も私の手柄ではないですが、テレビや新聞で注目を浴びる姿は「キラキラ」まぶしくて、我がことのように誇らしい気がします。
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もう一枚の写真。真ん中の男性は、参加者の一人で、衆院選挙・参院選挙と続けて、愛媛選挙区から出馬して落選はしたものの、得票を伸ばした植木正勝君(これまた公人なので公表しておきましょう)。彼も同期で、小学校課程出身。別項で紹介した「植木正勝が植木枝盛になるに当たっての労働の役割」の筆者です。
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同い年でも、隠居を決め込んでいる我が身が、少々後ろめたく、恥ずかしい思いが拭えません。「頑張らない!」との誓いを噛みしめ、自然体、悠々自適をモットーとしたいと考えている私ですが、世の中の望ましい変革のために日々奮闘している友人、知人、先輩方の姿を思うたびに、応分の協力、応援、献身は厭うまいと思い返しているところです。


夕方は、小学生のお迎えを頼まれていました。バアバが珍しく熱を出し、慰謝に行っているようなので、長寿を祝う会の会場から直行で小学校までお迎えに参上。帰宅早々、またまた庭のカナヘビくんにご挨拶です。兄妹がそれぞれ二匹ずつ手に持って、記念撮影です。

いつものことながら、fuji FinePix S1の描写は、精細ですね。ただ、私の技量のせいか、マクロ撮影は、しばしばピント合わせに失敗します。

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今日は、保育士の娘が仕事日で、お姑さんが昼前頃から都合が悪いとのことで、バトンタッチで我が家が託児所になりました。バアバの熱が、まだ万全ではないので、もっぱらジイジがお相手をする覚悟ですが、、、。

そしていろいろあって、お昼寝に入ってくれました。おかげで、ブログ書きが少しはかどりました。夕方暗くなるまでぐっすり眠り、機嫌よく目覚めた彼女を、既にお母ちゃんが退勤・帰宅しているアパートまで、熱がほぼ下がったバアバと二人で送り届け、今日の大仕事はオシマイです。

今日はここまで。


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アヨアン・イゴカー

>百舌が枯れ木で鳴いている
この歌で、兄さは満州へ行っていましたが、出征あるいは満蒙開拓団で、義勇兵とされたのかもしれませんね。
この記事を拝見して、改めてネットで検索し、歌詞を確認しました。子供の頃、この歌意味もよく考えずに、寂しい歌だなと感じながらも歌っていました。
by アヨアン・イゴカー (2018-10-20 22:48) 

majyo

退職教職者という縦の関係の中で、多くの戦争体験者のお話に
触れることが出来る事、貴重だと思います。
ご紹介のNHK特集やアニメーション
時間のある時に拝見します。これはありがたい
自慢できる友達がいてうらやましいです。

by majyo (2018-10-21 07:27) 

kazg

アヨアン・イゴカー様
兄が出征してもけなげに銃後を守る「軍国の弟」という設定故に、「発禁」処分にも遭わず、世に広まることができたのでしょうが、「兄さは満州に いっただよ/鉄砲が涙で 光っただ」という歌詞には、やるせない哀しみが漂っていますね。
by kazg (2018-10-22 06:23) 

kazg

majyo様
>自慢できる友達がいてうらやましいです
そうなんですね。そう考えると、ありがたいことだと身にしみて感じます。
by kazg (2018-10-22 06:25) 

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