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唯々駄句駄句、の巻 [折々散歩]

このブログをはじめたばかりの頃、見よう見まねで「にほんブログ村」や「人気ブログランキング」などに登録しました。はじめの頃は、そのカウントの推移をそれなりに注意してウォッチングしていましたが、最近は生地の更新そのものと、so-netブログ内の交流で手一杯で(というよりも自己充足していて)放置したままでした。最近、久しぶりにこれをクリックしてみますと、「写真ブログ」「写真日記」などのカテゴリーの他、「俳句・短歌」などというジャンルにエントリーしていたことを思い出しました。


そう言えば、毎回、指を折って、五七五(七七)をでっち上げる苦労をしていましたっけ。しだいに、これがハードルになって、ブログ更新そのものが苦痛になり、それより何より「句」そのものが作れず、非才・無能を痛感することが度重なって、いつの頃からか、「俳句・短歌」とは無縁の記事になっていました。


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初心に戻って、久しぶりに「句作」に挑んでみたのですが、、、、なんにも「降りてくる」ものがありません。とほほです。


「唯々諾々 駄句駄句(ただただだくだく)」を書き連ねます。


【節分】


福は内福は内とて豆を蒔く


「鬼は外」敢えて小声の鬼遣らい


追はれたる鬼の子雨に寒かろう


・「鬼は外」を唱えない寺社や地方もあるそうですね。鬼の身内であったり子孫であったり、あるいはまた、鬼よりも圧倒的に強い霊力を持つ寺社であったり,いろいろな事情があるようです。たとえばこの記事節分にちなんで、の巻(2017.02-03)では、こんな記事を書きました。


ところで、豆まきのかけ声について、こちらhttps://allabout.co.jp/gm/gc/220642/) に興味深い記事がありましたので引用させていただきます。

●仏立山真源寺(東京都台東区) →「福は内、悪魔外」
鬼子母神を御祭神としており、「恐れ入谷の鬼子母神」で有名。鬼子母神とは、他人の子供を襲って食べてしまう鬼神でしたが、見かねたお釈迦様が彼女の末子を隠し、子供を失う悲しみを諭します。それ以来仏教に帰依するようになり、子供の守り神となりました。
●鬼鎮神社(埼玉県比企郡嵐山町) →「福は内、鬼は内、悪魔外」
鎌倉時代の勇将・畠山重忠の館の鬼門除けとして建立したので「悪魔外」。また、金棒を持った鬼が奉納されているので「鬼は内」です。
●元興寺(奈良県奈良市) →「福は内、鬼は内」
寺に元興神(がごぜ)という鬼がいて、悪者を退治するという言い伝えがあります。
●稲荷鬼王神社(新宿区歌舞伎町) →「福は内、鬼は内」
「鬼王」として「月夜見命」「大物主命」「天手力男命」の三神を祀っています。
●天河神社(奈良県天川村) →「鬼は内、福は内」
鬼は全ての意識を超えて物事を正しく見るとされているため、前日に「鬼の宿」という鬼迎えの神事を行い、鬼を迎い入れてから節分会をします。
●金峯山寺蔵王堂(奈良県吉野郡吉野町)→「福は内、鬼も内」
全国から追われた鬼を迎い入れ、仏教の力で改心させます。
●千蔵寺(神奈川県川崎市) →「福は外、鬼は内」
厄神鬼王(やくじんきおう)という神様が鬼を堂内に呼び込み、悪い鬼に説教をして改心させ社会復帰させます。
●大須観音(愛知県名古屋市) →「福は内」のみ
伊勢神宮の神様から授けられた鬼面を寺宝としているため「鬼は外」は禁句です。
●成田山新勝寺(千葉県成田市) →「福は内」のみ
ご本尊の不動明王の前では鬼も改心するとされています。

鬼さん、いらっしゃ~い 【地域編】

●群馬県藤岡市鬼石地区 →「福は内、鬼は内」
鬼が投げた石でできた町という伝説があり、鬼は町の守り神。 全国各地から追い出された鬼を歓迎する「鬼恋節分祭」を開催している
●宮城県村田町 →「鬼は内、福も内」
羅生門で鬼の腕を斬りとった男(渡辺綱)が、この地で乳母にばけた鬼に腕を取り返されてしまったため、鬼が逃げないよう「鬼は内」という。
●茨城県つくば市鬼ケ窪 →「あっちはあっち、こっちはこっち、鬼ヶ窪の年越しだ」
あちこちで追いやられ、逃げ込んできた鬼がかわいそうで追い払うことができないため「あっちはあっち、こっちはこっち」。節分の豆まきは新春(春分)を迎える前日の厄払いであり、昔は新年を迎える前日としてとらえていたので「鬼ヶ窪の年越しだ」と言っていたそうです。
鬼を追い出すと家が困ってしまいます 【家の事情編】

●鬼頭さん、鬼沢さん、九鬼さんなど名字に「鬼」のつく家 →「鬼は外」以外の口上が多い
鬼を追い出してしまったら、縁起が悪いです。
●伝統的な商家 →「鬼は内」
商家では鬼=大荷としてとらえ、大きな荷物が内 (家・お店)に入らないと商売繁盛につながらないため、「鬼は内」というところが多いのです。
●ワタナベさん →鬼を退治する必要がないので、「鬼は外」と言わない(豆まきもしない!?)
平安時代に渡辺綱が鬼退治をしたため、鬼たちがワタナベ一門を恐れ、子孫にも近づかなくなったという説があります。

いずれも「なるほど」ですが、前回記事でご紹介した「おにたのぼうし」もまた、「鬼は外」のかけ声をためらわせます。
おにたは黒鬼の子どもです。


おにたは、きのいい おにでした。きのうも まことくんに、なくした ビーだまを こっそり ひろってきてやりました。このまえは、にわかあめの とき、ほしものを、ちゃのまに なげこんでおきました。おとうさんの くつを ぴかぴかに ひからせておいたことも あります。でも、だれも おにたが したとは きがつきません。
まめまきの おとを ききながら、おにたは おもいました。(にんげんって おかしいな。おには わるいって、きめているんだから。おににも、いろいろ あるのにな。にんげんも、いろいろ いるみたいに。) そして、ふるい むぎわらぼうしを かぶりました。つのかくしの ぼうしです。こうして、かさっとも おとをたてないで、おにたは、ものおきごやを でていきました。


おにたは粉雪の舞う寒い路地をさまよいますが、どの家も玄関に鬼よけのひいらぎが飾られていて入ることができません。とおりかかったトタン屋根の水簿らしい家には柊も飾られて織らず、豆のにおいもしません。その家に住むお母さんは病気で伏せっており、女の子が献身的に看病していました。 おにたはお腹をすかせた女の子のために食べ物を調達し、節分であまったご馳走だと言って、差し入れします。


「あたしに くれるの?」 そっと ふきんを とると、あたたかそうな あかごはんと うぐいすいろの にまめが ゆげを たてています。おんなのこの かおが、ぱっと あかくなりました。そして、にこっと わらいました。

おんなのこが ふっと なにか かんがえこんでいます。「どうしたの?」 「もう みんな、まめまき すんだかな、と おもったの。あたしも まめまき、したいなあ。」 「なんだって?」 「だって、おにが くれば、きっと おかあさんの びょうきが わるくなるわ。」 おにたは てを だらんと さげて ふるふるっと かなしそうに みぶるいして いいました。「おにだって、いろいろ あるのに。おにだって……」 こおりが とけたように、きゅうに おにたが いなくなりました。あとには、あの むぎわらぼうしだけが、ぽつんと のこっています。


恵方巻黙して喰うは至難哉


豆撒きも兄弟げんかの種となり


・孫達は競い合って恵方巻きづくりにチャレンジし、それぞれ見事な仕上がりでした。ですが、鮭の刺身や、イクラなど、稀少な具材を、誰が沢山消費したかといったきっかけで、諍いが始まります。恵方巻き、豆撒きなど非日常の雰囲気に、テンションが高まってか、ささいなことが衝突の引き金になります。


とりあえずは、平和なればこそのこと。ささやかな幸せのあかしでもあるでしょう?


【立春】


春立てば風てきめんにやわらかく


春立つ日窓全開にドライブす


春立つや足腰の痛みやわらぎぬ


疼痛の癒ゆる道理冬果つる


・立春の朝は、未明から文字通り春の暖かさでした。クルマを走らせながらも、窓を開けてみたくなります。吹き込む風もここちよいくらいでした。


身動きしたり、道を歩いたりするだけでも、疼くほどだった身体のふしぶしの傷みが、すっかり緩和しました。「疼痛」の「疼」、「疼く」という文字を、やまいだれに冬と書くことに改めて思い至りました。それだけのことですが、理屈っぽくなって、俳句には不向きでした(汗)


理屈っぽいと言えば、毎年のように話題にしている貫之の歌が思い浮かびます。


◇木蓮のつぼみ柔らに春立ちぬ(2014-02-04)


春立ちける日詠める・紀貫之
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ

古今集の撰者の一人、紀貫之の歌です。
「春立ちける日」とは、暦の上で立春になった日、という意味。つまり今日のことです。

学研全訳古語辞典を引用します。

[訳] 夏の日の袖がぬれるまでにして手にすくった水が、冬の間凍っていたのを、立春の今日の風が解かしていることであろう。

鑑賞:季 節の推移を水の変化(水→氷→水)によって巧みに表現して、立春を迎えた喜びを詠んだもの。「むすび」は「掬(むす)び」と「結び」との、「春」は「張 る」との、「立つ」は「裁つ」との掛け詞(ことば)。「結ぶ」「張る」「裁つ」「とく(解く)」は、「袖」の縁語。末尾の「らむ」は係助詞「や」の結び で、助動詞「らむ」の連体形である。

この歌を現代語で解釈しようとすると、理屈っぽくなってしまい、歌としてはどうなの?と突っ込みたくなりますね。

そもそも、歌っている季節は春なの?夏なの?冬なの?

極めつけは、これでもかと言わんばかりの修辞や技巧。「サムイ親父ギャグ」並の言葉遊びですか?

古今集の歌風の特徴をなす、「優美・繊細・理知的」といった傾向は、大なり小なり「理屈っぽさ」と形式重視の頭でっかちに傾きがちで、貫之はといえばその歌風の推進者ですから、無理もないのですが。

でもこの歌、その鼻につく理屈っぽさと言葉遊びの を少々大目に見てやると、こめられている季節感なり歌の調べなりは、なかなか捨てたものでもなさそうです。

「立春」という知的認識がもたらす観念的・論理的連想が、情緒的・体感的な感覚を伴って心象風景となって繰り広げられ、みずみずしいといってもいい季節感を醸しているではありませんか。特に「泉の水」というピンポイントに照準を合わせて、うつりゆく季節の時間的推移が複層的に読み込まれています。

それを図式化してみると、
緑の葉のおい茂る夏のほとばしる清水の冷涼さ(=過去)
→厳しい冷え込みに泉も凍り付く真冬の冷たさ(直前)
→立春(現在)
→そよ風が氷を溶かしているであろう想像上(願望上の)情景(想像上の現在~近未来)

といった具合でしょうか?実際のその目で確かめた春ではありませんが、「立春」であるからには、今頃は、かならずや山の泉の氷も溶けて春が訪れているだろうと、心の中にはありありと、穏やかな春の訪れが「体感」されているのです。 


以上、無理矢理の、「俳句・短歌」ブログでした。


以下「写真ブログ」になります。今日は午後、憲法問題の学習会がありました。午前中、短時間散歩しました。昨日よりは少し気温が下がりましたが、今日も上天気でした。自然環境体験公園で、メジロを写しました。



自然環境体験公園のメジロ
自然環境体験公園のメジロ posted by (C)kazg 自然環境体験公園のメジロ
自然環境体験公園のメジロ posted by (C)kazg 自然環境体験公園のメジロ
自然環境体験公園のメジロ posted by (C)kazg



 自然環境体験公園のメジロ
自然環境体験公園のメジロ posted by (C)kazg 自然環境体験公園のメジロ
自然環境体験公園のメジロ posted by (C)kazg 自然環境体験公園のメジロ
自然環境体験公園のメジロ posted by (C)kazg


今日はこれにて


nice!(29)  コメント(4) 

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コメント 4

yakko

おはようございます。
メジロさん、それぞれに素敵です(^ ^)
by yakko (2019-02-06 10:29) 

momotaro

春立ちぬ 疼痛癒えて おめでとう
って、五七五に乗せてみました
というか乗っちゃいました。
鬼は外、鬼の身になると気の毒ですね、大きな声では言えませんね
鬼は内、鬼は内、福は満遍なく!
ですね、真面目に考えると
by momotaro (2019-02-06 11:54) 

kazg

yakko様
ありがとうございます。
メジロに会うと、嬉しくてパチパチ写しますが、カメラに姿をとらえるのはなかなか難しいです、、、
でも、実際に目で見るのは一瞬ですのではっきり見えませんが、写真にするとじっくり見られて楽しいです。
by kazg (2019-02-06 21:40) 

kazg

momotaro様
>春立ちぬ 疼痛癒えて おめでとう
多謝です
>鬼の身になると気の毒
アメリカ目指して歩き続ける難民の子どもの姿も目に浮かびます、、。
by kazg (2019-02-06 21:44) 

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