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希望考(2)、の巻 [折々散歩]

前回の記事の続きです。

「希望」の話題を書きかけていました。

一昨日の行事の午後は、参加者の自己紹介、近況報告を中心とした交流でした。

加齢とのつきあい、健康法、日々の生活や社会的活動など、どれも心に留めておきたい刺激やヒントが一満載でした。

中でも、S女史のご発言、「 『平成最後』というフレーズがしきりに取りざたされるなか、どちらかというと印象の薄い『平成』という時代だが、その間、身近に戦争がなかったいう点は、考えてみると、とても大きい。子どもたち、孫たちの世代も、そうであり続けられるよう、自分にできることを続けていきたい」。しみじみ胸に響きました。

また、みずからも満州からの引き揚げ者で、退職後、「中国帰国子女」への語学教室他の支援や、日中友好の運動に取り組んでおられるKさんの「いろいろな機会に、戦争の真相や友好運動の意義について語ることがあるが、一般に被害の歴史はある程度知られていても、加害の歴史、さらには抵抗の歴史についてはほとんど知られていない。相手の心情や思いには配慮しながらだが、できるだけ機会があるごとに伝えていきたいと思っている。」という言葉にも、強くうなずかされました。

これらをお聞きしながら、思い出していたことがありました。

高知在住のN先輩が、つい先日、おたよりをくださり、最新の「平和資料館草の家だより」NO142(2019年3月25日発行)を同封してくださっていました。

『平和資料館草の家』については以前もご紹介したことがありました。

「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻

槙村浩については、過去にもこんな記事を書きました。
槙村浩と三月一日
ビクトルハラをカーラジオで聞くの巻
懐かしき便り嬉しき聖夜かな
もうひとつの911

それらの記事でも紹介しましたが、高知市にある「平和資料館草の家」が、「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」を出版されるなど、槙村浩の顕彰と掘り起こしを息長く続けておられます。次のサイトに学ぶこと大でしたので、勝手にリンクを張らせていただきます。
平和資料館草の家
平和資料館・草の家 話題
【槇村浩研究のために】インターネットで反戦詩人・槇村浩に会いに…… 藤原 義一: ブログ高知

N先輩の執筆された記事を、拙ブログに紹介することについて快諾をいただきましたので、そのまま引用させていただきます。

【槇村 浩 生誕の地】

槇村浩の生誕地はどこ?

草の家常任理事  N(個人情報に配慮して、引用者がイニシャルにさせていただきました)

昨年夏、 高知市で開かれた日本母親大会 (全国大会) に県外から参加した知り合いが、 高知県立文学館発行のパンフ 『土佐れきぶん散歩』 の地図に記された 「槇村浩誕生の地」 の一帯を探したけど目印になるものを見つけることができなかった、 と残念がっていました。
確かに高知市の城西公園には立派な彼の詩碑が建っていますが、 誕生地には何もありません。 どうにかしなければと思っていました。ちょうどその年が槇村浩没後80周年にあたり、諸事業が計画されていたので、そのなかに「生誕碑建立」を入れてもらうことになりました。明治45年6月1日に「高知市廿代町八十九番屋敷Jで生まれたので、生誕地はすぐに判明すると楽観していました。 ところが、状況はまったく違っていました。
最初に、 パンフを作成した県立文学館を訪ねましたが、 前任者が作ったので詳しいことは知らないとのこと。 法務局なら分かると思い行きましたが 「昔の『番屋敷』 と現住所を対照するものはない」 と言われました。 高知市役所の地籍調査課等でも同じ説明でした。 オーテピア高知図書館の郷土資料コーナーでも目新しい知見はありませんでした。                       
これは基礎から調べていく必要があると判断し、 藩政時代の城下絵図から明治45年頃の廿代町の範囲を確定しました。 この作業で重要なポイントとなったのが、廿代町の南限になっている藩政時代からある水路でした。 治水前の蛇行していた江ノロ川の流路跡でしょう。 一方、 事情を話して協力をお願いしていた土地家屋調査士の小笠原哲輔氏から調査結果が知らされました。      
彼が法務局や市役所で土地台帳、同付属地図を調べた結果、①「八十九番屋敷」の南の境は藩政時代からある水路、②「八十九番屋敷」は当初「吉村源之助」-という人が所有していた、③明治33年頃、分割して9人に所有権が移った、④それに伴い「八十九番屋敷」も「一」から「九」までに分かれた、⑤生誕地は「一」から「九」までのどこかであり、 ピンポイントで生誕地を決めることはできない一ーということでした。
問題の水路は戦後埋め立てられて痕跡があり ません。 幸い昭和9、 10年頃の市街地図に水路が記載されていました。それと現在の地図を比較し、また地元のお年寄りの話を参考にして水路跡を比定しました。
左の地図で電車通りを横切る点線が水路跡、 太線で囲んだ部分が「八十九番屋敷」跡です。 このどこかで吉田豊道(ぺンネーム槇村浩)が生まれました。『土佐れきぶん散歩』に記された 「槇村浩誕生の地」 からは南に通り を隔てた一画です。
高知橋の南詰の緑地(市有地)に生誕碑を建てるとすると「廿代町八十九番屋敷(ここより南方約百米)で誕生」 という表現になるのではないでしょうか。

chizu

地道な調査の積み重ねに、ただただ頭の下がる思いです。

不祥この私も、この、槇村浩生誕の地の掘り起こしの発端に、ちょっぴり噛んでいたというオハナシは、以前この記事で自慢したことがありました。(遠く観客席から応援するだけの、のんきな立場で、お恥ずかしい次第ですが)

ある新聞投稿、の巻

「高知新聞」にこんな文章を投稿しました。

高知は、学生時代を過ごした第二の故郷ですが、滅多に訪問の機会がありません。維新の志士や民権運動の史跡などどともに、夭逝の反戦詩人槇村浩(まきむらこう)ゆかりの地を、折あれば訪ねてみたいと常々思ってきました。
「思い出はおれを故郷へ運ぶ---」二〇歳の頃の作品「間島パルチザンの歌」の冒頭の一節です。「おれ」は、日本の侵略支配に抗し、身を挺して民族の独立をたたかいとろうとするパルチザンの若者であり、反戦と国際連帯の思いを込めた作者の想像が生んだ鮮烈な造形です。
高知県立海南中学校四年生の時、軍事教練反対運動を組織した彼は放校となり、縁あって、わが岡山県の私立関西中学に編入学します。異郷の地にあって、彼の胸中には故郷高知の思い出が去来したに違いありません。
自宅があったという帯屋町2丁目の「ひろめ市場」辺りや、高知刑務所跡の城西公園に建つ詩碑などは、以前も訪ね、詩人の短かすぎる青春を偲びました。市内にあるという墓地にも、いつかお参りしてみたいと思っています。
ところで、彼の生誕の地は、高知県高知市廿代町とされています。去年の夏、会合で高知を訪れたついでに、マップ頼りに界隈を散策してみました。しかし、残念ながら、案内掲示や碑の類を見つけることもできず、心を残して引き揚げたことでした。聞けば、いま貴地では、「槇村浩生誕碑」建設の気運が起こっているとの由。運動が成就し、碑完成の暁には、是非再訪してみたいと願っているところです。

それが今朝の朝刊に掲載されていると、高知市在住のN先輩が知らせて下さいました。Nさんは、文中の、「槇村浩生誕碑」建設の運動にも携わっておられます。当ブログの過去記事でも、槇村浩については何度か話題にしてきました。

ここにも書きましたように、槇村浩の代表作と言えば、まず「間島パルチザンの歌」が挙げられます。これとともに、私たちの胸を強く揺さぶる作品として「生ける銃架』という詩があります。以前この記事で紹介したことがありました。

この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻

文章中の、槙村浩(まきむらこう)の話題も、何度か記事にしました。
◇「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻
◇里村欣二は日生の生まれ、の巻
◇槙村浩と三月一日
◇多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻
◇懐かしき便り嬉しき聖夜かな
今野(大力)が反戦詩「凍土を噛(か)む」を発表したのと同じ1932年2月、創刊の『大衆の友』に発表した詩『生ける銃架』は、進軍する兵士を生きた銃架にたとえてこう歌います。


『生ける銃架』  槙村浩
(前略)
高粱の畠を分けて銃架の影はけふも続いて行く
銃架よ、お前はおれの心臓に異様な戦慄を与へる――血のやうな夕日を浴びてお前が黙々と進むとき
お前の影は人間の形を失ひ、お前の姿は背嚢に隠れ
お前は思想を持たぬたゞ一箇の生ける銃架だ
(中略)

生ける銃架。おう家を離れて野に結ぶ眠りの裡(うち)に、風は故郷のたよりをお前に伝へないのか

愛するお前の父、お前の母、お前の妻、お前の子、そして多くのお前の兄妹(きやうだい)たちが、土地を逐(お)はれ職場を拒(こば)まれ、飢えにやつれ、歯を喰い縛(しば)り、拳(こぶし)を握(って、遠北の空に投げる憎しみの眼は、かすかにもお前の夢に通はぬのか
(中略)
生ける銃架。お前が目的を知らず理由を問はずお前と同じ他の国の生ける銃架を射×しお前が死を以て衛(まも)らねばならぬ前衛の胸に、お前の銃剣を突き刺す時背後にひゞく萬国資本家の哄笑がお前の耳を打たないのか
突如鉛色(なまりいろ)の地平に鈍い音響が炸裂(さくれつ)する砂は崩れ、影は歪(ゆが)み、銃架は×を噴いて地上に倒れる
今ひとりの「忠良(ちうりゃう)な臣民(しんみん)」が、こゝに愚劣な生涯を終えた
だがおれは期待する、他の多くのお前の仲間は、やがて銃を×に×ひ、剣を後(うしろ)に×へ自らの解放に正しい途(みち)を撰び、生ける銃架たる事を止(とゞ)めるであらう
(後略)


この頃、共青高知地区委員会のメンバーが高知市朝倉の歩兵44連隊兵舎内に侵入して上海出兵に反対する 「兵士よ敵をまちがえるな」と書いた反戦ビラを配布するが、そのビラを槇村が執筆した。と、ウィキペディアにはあります。

「被害の歴史とともに、加害の歴史、さらには抵抗の歴史に目を注がなければ」という問題意識は、至極もっともと感じます。痛ましい被害の実相を見つめ、戦争のむごさ残酷さを骨身にしみて感じ取ること、そしてそれのみならず、アジアの人々への侵略の歴史、加害の事実を正面から受け止めることの重要さは、強調したりることはありません。でも、それだけでは、未来に「希望」を抱くことは困難でしょう。「自虐史観」との悪罵に打ち克って、みずからの歩みに誇りを抱くこともためらわれるかも知れません。とすれば、私たちは、「侵略などなかった」、「日本の戦争は正しかった」、「加害と被害は常にあるのが当然で、それが戦争というもの」、、、、などといった詭弁で、「民族の誇り」を維持するしかないのでしょうか?

いえ、わが日本にも、命がけで戦争に反対し、抵抗し、真の国際連帯を追求した誇るべき先達が存在したという揺るがぬ証拠として、槇村浩の二作品、そして彼自身の生涯は、もっと光が当てられるべきではないでしょうか?人々が、特に若者が「希望」を持って未来に挑むために、それを励ます先達の足跡ほどここ強いものはないでしょう。

サクラとメジロ。

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トリミングします。

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サクラとヒヨドリ。

_K525178

祝福された春への希望を感じます?

今日はここまで。


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