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すもももももも、の巻(その4) [文学雑話]

梅とともにスモモの近年種に挙げられるアンズの話題の続きです。 

熊大医学部硬式庭球部の学生さんのための、格言・故事成語講座


というサイトから、こんな記事を引用させていただきます。


(その49) 牧童遥かに指さす杏花の村


清明 杜牧

清明時節雨紛紛
路上行人欲断魂
借問酒屋何処有
牧童遥指杏花村


清明(せいめい) 杜牧(とぼく)

清明(せいめい)の時節(じせつ)雨(あめ)紛紛(ふんぷん)
路上(ろじょう)の行人(こうじん)魂(こん)を断(た)たんと欲(ほっ)す
借問(しゃもん)す酒屋(しゅか)は何(いず)れの処(ところ)にか有(あ)る
牧童(ぼくどう)遥(はるか)かに指(ゆび)さす杏花(きょうか)の村(むら)


[口語訳]

春の盛りの清明の季節はよく雨が降る。好季だというのに、
今日もこぬか雨の降る中を野歩きしている。
道行くわたしの心はすっかり滅入ってしまった。
酒でも飲んで気晴らしをしようと酒屋はどこにあるかと尋ねると、
牛飼いの少年の指さすかなたに白いあんずの花咲く村が見えた。
(『自然をよむ』・NHK学園)による。

漱石の次の句は、この詩を踏まえたものといわれています。

ものいはず童子遠くの梅をさす


「遥指杏花村」。質朴そのものの牧童が指さす先をみやれば、はるか遠くにかすむ村一杯に、純白の、あるいは淡いピンクの杏の花が咲き広がっている。のどかな一幅の絵ですね。


牧童とは、牛飼いの少年を言うそうです。


これは、2002年、ベトナムで写した写真ですが、牧童のイメージを思い浮かべることができるように思えます。


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杏の花は、白居易(白楽天)をも魅了したようです。


遊趙村杏花      白居易


    趙村紅杏毎年開
    十五年來看幾迴
    七十三人難再到
    今春來是別花來


   【書下し】

    趙村の杏花に遊ぶ 白居易   
    趙村の 紅杏 毎年 開き
    十五年來 幾迴か 看る
    七十三 人 再び 到ること 難ければ
    今春 來たるは 是れ 花に別れんとして來たるなり。

【現代語訳】

趙村に 毎年紅いアンズの花が咲きひらく。
十五年このかた、何回見に来たことか。
七十三歳の人間であるこの私にとっては、再び見に来ることも難しいので、
この春、ここにやって来たのは、 花に別れを告げるためなのである。

佐藤春夫にこんな訳詩があります。


杏咲くさびしき田舎

川添ひや家おちこち

入り日さし人げもなくて

麦畑にねむる牛あり


紀映淮の原詩はこのようなものです。


 
杏花一孤村

流水数間屋

夕陽不見人

牯牛麦中宿


これに対して、河上肇が興味深いコメントを寄せています。青空文庫から引用します。


「家をちこち」はどうかと思ふ。原詩にいふ数間の屋は、三間か四間かの小さな一軒の家を指したものに相違なからう。古くは陶淵明の「園田の居に帰る」と題する詩に、「拙を守つて園田に帰る、方宅十余畝、草屋八九間」云々とあるは、人のよく知るところ。また蘇東坡の詩にいふところの「東坡数間の屋」、乃至、陸放翁の詩にいふところの「仕宦五十年、終に熱官を慕はず、年齢八十を過ぎ、久く已に一棺を弁ず、廬を結ぶ十余間、身を著けて海の寛きが如し」といふの類、「間」はいづれも室の意であり、草屋八九間、東坡数間屋、結廬十余間は、みな間数を示したものである。杏花一孤村流水数間屋にしても、川添ひに小さな家が一軒あると解して少しも差支ないが、車塵集は何が故に数間の屋を数軒の家と解したのであらうか。専門家がこんなことを誤解する筈もなからうが。


きょうの付録。


しばらく見ぬj間に、麦がずんずん生育しています。


  


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麦畑にねむる牛はいませんが、菜の花にモンシロチョウが舞っています。


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植木鉢のブルーベリーも花をつけました。


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今日はこれにて。


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