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すもももももも、の巻(その5) [文学雑話]

桃と言えば、わが地方では、川上から「どんぶらこどんぶらこ」と流れてくる大きな桃が有名です。おばあさんが拾って帰った桃の中から生まれた桃太郎が、鬼を退治するストーリーがよく知られていますが、古来様々な桃太郎伝説が伝わっているようです。
その一端は以前この記事「 昨日は海へ、今日は山へ、の巻」でもご紹介しました。


  おばあさんは川へ洗濯に、おじいさんは山に柴刈りに出かけるのは、おなじみ桃太郎の昔話。

どんぶらこどんぶらこと、川上からおおきなサツマイモが流れてくるのは、落語のネタです。おじいさんに内緒で芋をふかして食べたおばあさんは、ついつい粗相をしてしまう。山で柴刈りをしていたおじいさんは、柴を刈らずに草刈った(臭かった)というオチ。

ところで 岡山在住の民俗学者・民話研究家立石 憲利(たていし のりとし)さん 編著の「桃太郎話」には、各地で採話した、いろいろな「桃太郎話』が収められています。(以下略)


また、こちらの記事秋の吉備路の歴史散歩、の巻(2)では、退治される鬼の側から桃太郎伝説を話題にしてみました。


吉備の中山の、北東麓にある吉備津彦神社は、備前国一宮であり、両社とも、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祭神としています。その吉備津彦命に退治された鬼=温羅にまつわる伝説を、今日は話題に取り上げてみます。
現職時代、私も所属していた岡山高生研(全国高校生活指導研究会岡山支部)のHP(現在は閉鎖中)に、こんな記事がありました。温羅に関する記事を一部引用させて戴きます。

 


1990年岡山・倉敷市で開かれた高生研第28回全国大会で,現地実行委員会が発行した情宣紙の題名が「温羅太鼓」。
「さりげなく,だが力強く」を現地スローガンに掲げ,明るく楽しいトーンを大切にとりくんだ全国大会が,岡山高生研に残した財産は何だったか?あらためて確認してみたいものです。
なお「温羅」は「うら」と読み,古代吉備の伝説上の人物。近年岡山県では,町おこしの一環として,この「温羅伝説」にスポットライトをあて,「市民参加型のまつり」として「うらじゃ」祭りが盛大に取り組まれています。
このまつりが始まったのが,1994年だそうですから,岡山高生研の「温羅太鼓」のほうが,4~5年も先輩ということになります。自慢するわけではないですが...。(2007年9月記)


No1
1989/8/2 発行
20年ぶりの開催 来年は岡山で会いましょう 現地実行委員長の言葉

アンチ桃太郎
温羅太鼓とは?

この情宣紙「温羅太鼓」は,岡山に伝わる温羅(うら)伝説にちなんでいる。
岡山というと「桃太郎」が思い起こされるが、温羅伝説によると桃太郎の原型は吉備の国を侵略した大和政権の吉備津彦である。「温羅」とは吉備の国の王、百済から渡来し国を豊かに拓き、乞われて王となった。
凄惨な戦いの末ついに温羅は斬首されるが,その怒りの咆哮はいつまでも続き、民人の嘆きの号泣を誘ったという。今に伝わる吉備津神社の御釜殿での鳴釜の神事をはじめたのも、この亡国の人々ではなかったのだろうか。
そして私たちも「現代の温羅」なのである。


No2
1989/8/2 発行
ようこそ岡山へ

吉備の王 温羅を探る
鯉に姿を変えて吉備津彦と戦ったが

昔温羅(うら)という大男が百済から渡ってきて吉備の国の「鬼の城」の山頂に城を築いた。温羅は新しい学問を広め平野を耕し水路をひらき山を拓いて鉄をつくり生産は豊かに国力は大いにふるった。女子供までが敬い慕い温羅は選ばれて吉備の王となった。

侵略軍がやってくる

一方天皇家を長とする大和政権はその頃日本全土を平定しようとしており台頭する吉備の国を討つため兵をすすめてきた。彼らは自らを吉備津彦と名乗り温羅を鬼と呼んで八方に流言を飛ばした。
侵略軍は中山に陣を張って進軍し温羅の軍勢は鬼の城で迎え撃った。吉備津彦が矢を放つと温羅は石を投げ矢と石は空中で火花を散らし戦いはいつ果てるともしれなかった。
この時の故事によってできた「矢喰神社」というお宮がいまだに残っておりちょうど鬼の城と吉備津彦神社の中間に建てられている。

血に染まりながら

戦いにそろそろ疲れが見え始めた頃吉備津彦が2本の矢を射たところ一本は温羅の投げた石にあたりもう一本は温羅の目を射止めた。温羅は傷つき鯉に姿を変えて血に染まった川を下った。今ではこの川を血吸川と呼び下流の地方に赤浜という地名を残している。

首を食いちぎられた

吉備津彦は鵜に姿を変えて鯉を追い詰め温羅はとうとう首を食いちぎられた。この時のことを物語るように「鯉喰神社」というお宮がある。
温羅の首は首村の刑場にさらされたがなおもカッと目をむき真っ赤な口をあけて怒りの咆哮を続けた。その声は野越え山越え国を失った民人の嘆きの号泣をさそって幾日幾夜もとどろきわたったということである。

鳴釜で吉凶を占う
温羅の怒りの声が聞こえる

吉備津神社には古くから「吉凶占い」として有名な大釜がある。この吉凶占いは神主がご祈祷している間に巫女さんが大釜に火を入れて炊き大釜が熱くなってきて鳴り出すとそれは『よい運勢だ」というふうに行われるこれは「鳴釜神事」と呼ばれ,神のご託宣を受ける儀式とされている。

大釜の底に首が

昔吉備の国を征服するため吉備津彦が調停から派遣されこの地方を支配していた温羅との戦いに勝ちその首をはねた。温羅の首はさらし者にされたが何年もほえ続けた。そこで吉備津彦は温羅の首を大釜の底に埋葬することにした首はそれにもかかわらず13年もの間その地方の至る所に響くほどほえ続けた。

夢の中に温羅が

ある夜吉備津彦の夢の中に温羅が現われこういった。
「私の妻,阿曽姫にこの釜で米を炊くように伝えてください。そうすれば私は吉凶占いをして見せます。あなたはこの後神様におなりください。私はあなたの下僕となりましょう。」
吉備津彦はこの後吉備津神社の主神として祭られておりその裏には温羅の魂を鎮めるための「お釜様」がある。

(以下略)


「温羅太鼓」と名付けられたこの情宣紙は、1990年8月2日までに34号が発行されています。私も、当時、情宣係の一員として、この発行のお手伝いをし、大会期間中は会場となっていたホテルの一室にとまりこんで早朝から深夜まで、一日数回発行の速報の編集に携わったことが思い出されます。また、現地実行委員会が提供する文化行事として、「温羅」とその一族に焦点を当てた群読劇にも取り組み、私も演者の末席を汚したものでした。このとりくみの中心を担ってくれたのが、当ブログでも何度か紹介済みの畏友H氏でした。その彼は、早々と文字通りの「鬼籍」に入ってしまわれました。また、現地実行委員長を勤めてくださったYさんは、この行事を「花道」としてこの年退職されましたが、ほど経ずして逝去され、またほぼ時を同じくして、敬愛するM先輩も旅立たれました。(以下略)


その畏友H氏の命日が間近であることを、つい先日友人との会話で気づかされました。H氏への追悼の思いは、これらの記事に書きました。


初盆や逢うて寂しき目覚めかな


自由なる友や何処を旅すらん


思い返せば、私の2007年の脳動脈瘤手術のあと、共通の友人であるU氏と自宅に見舞いに来てくれました。見舞う側と見舞われる側が、こんな風に逆転する場面など、夢想だにしませんでした。何しろ、彼の方が2歳も若いはず。お子さんもまだ学生だし、順番が違うでしょ。と、しきりに悔やまれてなりません。
彼の直接の死因は、肺炎。その背景に、転移した肺がんがありました。
彼を見送った4月の時点では、よもや私に、同じ病名が宣告されようなどと、誰が思いつくことができたでしょうか。でも、私のは、まさしく初期でしてね、あなたの苦痛や不安に比べたら、雲泥の差なのですよ。
ただ、病気が病気だけに、侮ることなく、「終活」の心構えだけは整えておきたいのですがね。なかなか、煩悩に勝てません。たとえば、きゅっと冷えたビール!(正確には発泡酒ですがね)
終活を心に期せど酒旨し


話をモモに戻します。


そう言えばこんな記事を書いたこともありました。
キジにまつわる悔しい記事の巻


ところで、キジは、日本の国鳥でもあり、岡山県の「県鳥=県民の鳥」です(岩手県の県鳥もキジだそうですね)。
郷土の民話、桃太郎の伝説にも登場しますからね。
ちなみに、岡山県の木はアカマツ、岡山県の花はモモの花だそうです。
モモは県の名産品ですし、川上からドンブラコと流れてくることも、珍しくはないかも知れません。
ご存じ「吉備団子」は、岡山の銘菓ですし、桃太郎伝説は、県民にとっておなじみです。

それでは県民の動物は、サルとイヌかというと、そういうわけでもないようです。
以前は、岡山県の「県民の鳥」はホトトギスでした(1964年に
決定)が、ホトトギスの托卵性(ほかの鳥の巣に卵を産み付けて育てさせる)の習性が、「ずるい」「がめつい」という悪イメージにつながるなどの理由から、
県民投票によって、1994年からキジに変更したのだそうです。


岡山後楽園そばの旭川畔に、桃の実を差し上げてたつ男の子は、


「水辺のももくん」。1989年に岡山市制100周年を記念して設置されたそうです。


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川上から流れてきた桃から生まれた桃太郎鬼を退治するストーリーは、しかし比較的新しい脚色であるらしく、古くは、桃を食べたおばあさんとおじいさんが若返り、そのおかげで赤ちゃんが生まれたという若返り伝説であったようです。


桃はそのように、回春、不老長寿の薬としても尊ばれたようです。ウィキペディアにはこうあります。


中国において桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれている。桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなる。桃の実は長寿を示す吉祥図案であり、祝い事の際には桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子・壽桃(ショウタオ、shòutáo)を食べる習慣がある。壽桃は日本でも桃饅頭(ももまんじゅう)の名で知られており、中華料理店で食べることができる。寿命をつかさどる女神の西王母とも結び付けられ、魏晋南北朝時代に成立した漢武故事(中国語版)などの志怪小説では、前漢の武帝が西王母の訪問を受け、三千年に一度実をつける不老長生の仙桃を授かったという描写がある。さらに後代に成立した四大奇書のひとつ西遊記の主人公孫悟空は、西王母が開く蟠桃会に供される不老不死の仙桃を盗み食いしている。

日本においても中国と同様、古くから桃には邪気を祓う力があると考えられている。『古事記』では、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させた。伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたという。


 


桃を愛でた詩も沢山あります。まず思いつくのは、古いところで詩経に収められている古体詩「桃夭(とうよう)。


【原詩】

桃之夭夭
灼灼其華
之子于帰
宜其室家

桃之夭夭
有蕡其実
之子于帰
宜其家室

桃之夭夭
其葉蓁蓁
之子于帰
宜其家人

【書下し】

桃の夭夭(ようよう)たる
灼灼たる其の華
之の子于(ゆ)き帰(とつ)ぐ
其の室家に宜しからん

桃の夭夭たる
蕡(ふん)たる有り其の実
之の子于き帰ぐ
其の家室に宜しからん

桃の夭夭たる
其の葉蓁蓁(しんしん)たり
之の子于き帰ぐ
其の家人に宜しからん

【kazg語訳】

若々しい桃の花。
燃えてるようなその花。
桃の花のようなこの子が嫁いで行くよ。
嫁ぎ先にぴったりの佳い子だよ。

若々しい桃の実。
はち切れそうなその実。
桃の実のようなこの子が嫁いで行くよ。
嫁ぎ先にぴったりの佳い子だよ。

若々しい桃の葉。
盛んに茂るその葉。
桃の葉のようなこの子が嫁いで行くよ。
嫁ぎ先にぴったりの佳い子だよ。


飾らぬ素朴な歌いぶりの中にも、不老不死、一家繁栄につながる幸せの果実のイメージが、温かくほほえましく膨らみます。


以前書いたこの記事も、幸せの果実に繋がります。


桑の木がなくては成らぬ桃花源


理想郷を意味する「桃源郷」という言葉の起こりとして、陶淵明の「桃花源記」が知られています。 (中略)


【解釈】 昔々、晋の国の太元年間に、武陵出身のオッサンが魚を捕って暮らしておった。あるとき、谷川沿いに漁をしながら進むうちに、どこをどう進んだかわからんようになって、道に迷うてしもうた。突然桃の花が咲く林にぶち当たった。林は川を挟んで両岸はるかにつづき、桃以外の雑木は混じっていない。エエ匂いのする草が鮮やかに美しく生え、花びらが散り乱れている。漁師のオッサンは不思議に思って、さらにすすんで行き、その林がどこまで行き着くか確かめようとした。林は水源のところで終わり、目の前に山があった。山には小さな入り口が開いており、ぼんやり光っておるようじゃった。そのまんま、船を乗り捨てて入り口から中に入った。

初めはエライ狭く、やっと人一人通ることができるだけじゃった。さらに数十歩進んだら、ぱかっと目の前が開け、明るくなった。土地は平らで広々、建物がきちんと並んでおる。手入れの行き届いた田畑や立派な池があり、桑や竹が生えておった。あぜ道は整備されて四方に通じ、鶏や犬の鳴き声があっちっこちから聞こえてくる。村人が行ったり来たりして、種をまき耕作している。その衣服はまったく外の世界の人とかわりがない。老人も子供も、みんな喜び楽しんでいる。村の人らは、ぜひにと家に迎え、酒席を設け、鶏をしめてご馳走をつくってもてなした。ほかの人たちもこのことを聞きつけて、みんなやってきて挨拶をした。村の人がいうには、「先祖が秦の時代の戦乱を避け、妻子や村人を引き連れて、この世間と離れた場所にやってきて、二度と外に出ませんでした。そのまま外の世界の人と隔たってしまったのです。」ということじゃった。村人は、「今はいったい何という時代ですか。」とたずねる。なんと漢の国があったことも知らんのや。ましてや、魏・晋を知らんのは言うまでもない。この漁師のオッサンは、一つ一つ詳しく答えてやった。村人は、みんな驚いてため息をついた。他の村人もそれぞれ漁師のオッサンを自分の家に招待して、酒食を出してもてなした。数日間とどまって別れを告げて去ることとなった。村の人は、「外の世界の人に対してお話になるには及びませんよ。」と口止めした。

やがて外に出て、自分の船に乗り、もと来た道をたどって、至る所に目印をつけておいた。郡の役所のあるところにたどり着き、郡の長官のもとに参上して、見てきたままを説明の道を見つけることはできなかった。南陽の劉子驥は志の高い高潔な人である。この話を聞いて喜び楽しんで行くことを計画した。まだ実現していない。やがて病気を患って亡くなってしまった。その後はそのまま渡し場をたずねようとする者もいない。


この隠れ里は、 戦乱と争闘のない、平穏な自足の社会で、老子の思い描いた理想社会像=「小国寡民(しょうこくかみん)」の姿とあい通うものです。 (中略)

【解釈】 小さな国に少ない住民。いろいろな文明の利器があっても安直に用いさせないようにし、人々に生命を大切にして遠くに移動させないようにする。 舟や車があってもそれに乗ることはなく、武器はあってもそれを並べたてて使用するようなことはない。 人々に小ざかしい文字や言葉に頼ることなく、今ひとたび太古の昔のように縄を結んで約束のしるしとさせ、己れの食物を美味いとし、その衣服をすばらしいとし、その住居におちつかせ、その習俗を楽しませるようにする。 かくて隣の国はお互いに眺められ、鶏や犬の鳴き声が聞こえてくるほどに近くても、人々は年老いて死ぬまで他国に往き来することがない。そのゆえ、いくさや争いごとが起こることもない。これが理想の国だ。


老子の心には、しばらく前までこの世に存在し、今は廃れてしまった「原始共産制=原始共同体」社会への郷愁をはらんだ憧れがあったでしょう。「小国寡民」は、人間の小ざかしい知恵=文明が、人間同士の争いを生み、差別を生み、不幸を生む元凶であるとみなし、その対極に理想を求めようとしているのでしょう。

ですが、「桃花源」は、いささか違いがあるように思えます。それは「清く、貧しく、無知無欲」のただただ消極的な原始社会ではないようです。そうではなくて、豊かな「良田・美池」によって食が満たされ、「桑竹之属」によって、絹織物や竹細工など、衣類・調度も上等な嗜好が満たされ、衣・食・住の全般、および人間同士のかかわり方についても、洗練された快適なたしなみが感じられます。村全体を、桃の花のあでやかな色とかおりが包み、実が熟したら、甘い果実をみんなで分け合って味わうような、高度な文化社会と思えます。


今日はここまで。

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momotaro

うかうかとモモ太郎なんて名乗っていられませんねぇ・・・
by momotaro (2019-05-11 02:49) 

kazg

momotaro様
モモ太郎はあくまでも庶民のヒーロー、正義の象徴ですから、なんの遠慮がいりましょうか、、、、
by kazg (2019-05-11 04:30) 

師子乃

初めまして。

これからは桃をもっと大事に食べたいと思いました。
by 師子乃 (2020-07-19 19:19) 

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