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三星山あれこれ、の巻 [折々散歩]

フィルムカメラ時代には、撮影済みのフィルムを現像しないまま、カメラに入れたまま長い間放っておくようなことがよくありました。デジタル時代になって、比較的画像閲覧するテンポが早く、頻繁になりましたが、時には長い間確認を忘れている画像もあったりします。


たとえば、8月のこんな画像が、未確認のままカメラ(E420)のCFカードに入ったままでした


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こちらのカメラ(RICOH gx200)を、最近使ったことも、忘れかけていました。


12月24日(火)、行きつけの整体院に母を送って診察待ちの間、近所を散策してみたのでした。


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ずっと以前、この記事で話題にしたのと同じ場所です。


雪解や まずはめでたく 父帰る(2014-02-12)


皮肉なことに、1960年代頃には、実家のすぐ近所の停留所から、バスに乗ってこの町まで容易に行くことができました。まもなくこのバス路線は廃止され、川向こうの道路を走るバス路線を利用するために、1.5kmの道のりを歩くことが必要になりましたが、まだ交通機関利用による移動が可能でした。そのバスは通勤通学のためにも利用できました。
しかし、やがて、その路線も縮小され、今では日に数本が運行されているのみで、高齢者や年少者は、交通難民の状態に置かれています。その上医療機関もこのありさまときては、ほとんど医療難民でさえあるのです。
診察が終わるまでの待ち時間、暗澹とした気持ちで、そんなことを考えながら、近辺を少々散歩してみました。
私が40数年前に通った高校の近辺なのですが、通りも駅前の通りもバスステーションも見るかげもなく寂れ果てていて、うら悲しいので、写真に撮るもはばかられました。

町並み写真は遠慮して、代わりに川景色を写してみました。

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ところで、正面のこの山は?


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拡大すると、山頂付近に、何か装飾物?が見えます。


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美作市業振興課のFBを見ると、こんな写真と記事が掲載されていま


した。


美作市産業振興課

2015年12月21日 ·

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【三星山『美』文字が点灯します。】
本日から平成28年1月20日(水)までの一か月間、三星山に『美』文字が点灯します。凛とすんだ冬の夜空に光る『美』を是非お楽しみ下さい。

点灯時間は午後5時30分~午後11時までです。


また。みまさか商工会のHPには、こんな記事がありました。


2013年04月04日 商工会ニュース

美作国建国1300年を記念して三星山に「天」から「美」への改修工事を

行いました。

ところで美作国1300年とは・・・

美作国の建国は、平安時代に編まれた史書『続日本記』に記されています。

備前の国から分かれ、一つの国となり、山や森や川が分かち与えてくれる

多様な資源を恵みとして独自の歩み出した美作国。

その国の興りから今年で1300年を迎えるそうです。

そこで、建国1300年を記念して各地区でイベントが企画されています。

詳しくは美作国建国1300年HPをご覧ください。

当商工会でも記念事業として第1弾!!

ということで、三星山に「美」文字を設置し、市内外の方や来訪者の方々に対して、

記念の年であることとの周知と気運の醸成を目的に4/3(建国記念日)より点灯しております。


「三星山」の全景です。


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この山頂には「三星城」があったと子どもの頃。学びました。


「角川日本地名大辞典」に、こんな解説があります。


みっぼしじょう   三星城/美作町
中世の山城。英田郡美作町明見に所在,梶並川と滝川の合流点にある三星山上にあり, 西・南は深い谷があり, 山は険しい。 山頂が三峰に分かれているのでこの名があるという。 応保の頃, 土豪の渡辺進左兵衛長寛が居館を構えたことが始まりとしているが確かでない。観応2年, 土豪後藤康基が塩湯郷の地頭職についたという説があって,三星城はこの後藤一族の居城とされている。
康安元年,山名義理が赤松氏を攻めた時. 後藤氏の妙見城落城。 明見の地にはほかに山城が見られないので妙見城は三星城と考えられるが確証はない。
天文~天正年間の頃,後藤勝政,勝基の代が後藤一族の全盛期で作東の土豪武士を結集し,三星城東部の要であった。
永禄9年に尼子氏が毛利氏に滅ぼされ、毛利勢力が作東にものび, 天正7年, 宇喜多直家の軍と戦い落城。 後藤氏の作東支配が終わった。
当城は, 東西に連なる峰を取り込んで縄張りした連郭式の山城である。 本丸は中の峰にとり, 東西のそれぞれの峰を東の丸, 西の丸として出丸を築いている。東の丸は東端の尾根を中心として南北方向に曲輪の基軸を置き, 東北部の張出し尾根に数箇所の小郭を構えている。 最高所の細長い郭の中心部には見張り台的な高所を築き, これに続く 一段低い狭長な郭の東斜面に3本の竪堀を設け逃げ道としている。


なお、「平成の大合併」のあと、英田郡美作町は美作市に変わりました。また「明見」は「みょうけん」と読みます。


三星城の城主であった後藤家について、ウィキペディアにはこんな記事があります。


後藤 勝基(ごとう かつもと、天文7年(1538年)? - 天正7年5月2日(1579年5月27日))は、戦国時代の美作国の武将。官途は摂津守、一説に左衛門尉。勝元とも。
経歴

後藤家は南北朝時代から戦国時代にかけての200年間、三星城を居城とした。勝基もその代々守ってきた三星城を父・後藤勝国(後藤勝政の子)から譲り受けた。

勝基が当主となってのち、出雲尼子氏の力が衰えはじめたので、永禄3年(1560年)頃にその配下から離反し、備前国の浦上宗景と組んで江見久盛の居城である倉敷城を攻め、永禄5年(1562年)には浦上勢を先導して美作国中央部へと侵攻するが失敗に終わった。永禄6年(1563年)には今度は三村家親に三星城を攻められるが、浦上氏の援軍もありこれを退け、以降は東美作統一に奔走、順調に勢力を拡大していき、安東、江見、小坂田などの土豪を配下として、ついに東美作の大部分を掌握した。

しかし勝基は元亀2年(1571年)に浦上宗景と対立。毛利氏と結び、居城の三星城に籠城し宗景の攻撃を受けている。翌年の毛利氏と浦上氏の和睦で浦上氏との関係も修復されたようだが、勝基は当主の座から退いたのか、替わって息子の後藤与四郎(後藤元政)が、文書を発給するようになる。

そして、天正3年(1575年)、宇喜多直家が主君浦上氏を居城天神山城から追放し、美作国への侵攻を始める。勝元は宗景を追放した直家に反発する旧浦上家臣の茶臼山城主・笹部勘二郎や美作鷲山城主の星賀光重らと結んで直家に対抗したが、直家は天正7年(1579年)、延原景能を大将とする大軍で茶臼山城を攻め落とし、3月にはついに三星城に攻め寄せた。勝基はよく守ったが、宇喜多氏の調略や火攻めによって、同年5月に三星城は陥落した。敗走した勝基は長内(岡山県美作市長内)の隠坂で自害、42歳といわれるその一生を終えている。

後年、勝基の墓として五輪塔が三星城跡に建立された。


今朝の夜明けを写すのに、RICOH gx200を使用しました。


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olympus E420+zuiko digital 70-300mmで、望遠撮影すると、、、


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夕方はまた雨で.夕景を撮影することができませんでした。fbにはお友達のNさんがこんな写真を投稿されていました(25日)。昨日の拙ブログにご紹介したQ男さんと同じく、常山に沈む夕陽の絶景です。


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宇喜多直家が登場したついでに、常山城のあれこれについて、回を改めて触れてみたいと思います。


今日はこれにて。


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