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宇喜多直家を探る、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

朝の常山です。


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散歩道の途中、麦飯山の辺りから朝日が昇るのが見えます。S0164053


今、水田が広がり、長い農道が続いている平野は、干拓によって作られたもので、以前は海でした。従って、常山も麦飯山も、かつては海に面して聳えていたのでしょう。


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岡山市の岡山シティミュージアムのHP 中に収められている、デジタルアーカイブに、歴代岡山城主の紹介が載せられています。その冒頭に、「創築者」として、宇喜多直家の名が見えます。


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部分的に引用します。


■生い立ち
享禄2年(1529)、備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県邑久郡邑久町)の砥石城に生まれる。家門は在地領主。6歳のとき、祖父の能家が西隣の高取山城主・島村貫阿弥に攻められ自害すると、父とともに城を脱出、備後鞆・備前福岡・同笠加を転々とする。この間に父が病没し、天文12年(1543)、旧主家である浦上宗景に出仕する。同年初陣で功を挙げ、翌年には小城塞・乙子城の城主に抜擢され、数々の戦功を挙げる。永禄2年(1559)、岳父・中山信正を謀殺して居城と領地を奪い、祖父の旧領地も奪回する。同時に仇敵・島村貫阿弥を謀殺。以後、亀山城を居城とし領地の拡張に努め、永禄4年(1561)には龍の口城を攻略。
   
宇喜多直家木像 写真
宇喜多直家 写真提供:光珍寺     (木像は光珍寺が所蔵していたが、戦災で焼失)
■岡山開府
永禄9年(1566)、美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親を暗殺。翌年、2万の兵力で備前に攻め入った家親の子・元親をわずか兵5千をもって撃退(明禅寺合戦)、この完勝をもって完全に「戦国大名」となる。翌年には備前国西部の有力者・松田氏を滅ぼして主家を凌ぐ勢力となり、元亀元年(1570)、岡山平野制圧を意図し、好適地の石山の城を奪うため同城主・金光宗高を謀殺。大改修を施して天正元年(1573)入城。これが岡山城の前身となり、「城下町・岡山」の歴史が幕を開けた。

■織田軍へ帰参
力をつけた直家はついに主家・浦上宗景と対立するが、宗景はもはや直家の敵ではなく、天正5年(1577)滅亡。その領地を収めた直家は備前国・美作国南部に播磨国西部までを領する有力戦国大名に成長を遂げた。その後、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉(豊臣秀吉)に対抗して毛利氏と結ぶが、のち信長に帰属。毛利勢と激しい攻防を繰り返し、その最中の天正9年(1581)、病により波乱の生涯に幕を閉じる。直家は正攻法よりも権謀術数を多用したため「戦国の梟雄(きょうゆう)」とおそれられるが、裸一貫から中国路有数の戦国大名にのし上がったその実力は、異彩を放っている。


宇喜多直家といえば、「梟雄」「謀将」等々と評され、非情でダークなイメージがつきまといますが、上の引用文からもそれが窺われます。文章の端々に、「暗殺」「謀殺」「奪」「権謀術数」などというまがまがしい文字が踊っています。その相手は、岳父(妻の父)であったり、元の主君であったり、姻戚、同盟者であったり、みずからの利のためには情も理もお構いなしの残忍さを発揮しています。兄直家の補佐を勤めた弟宇喜多忠家が、「兄の前に出る時は、警戒して鎖帷子を身につけていた」と、後に述懐するほどだったとも言います。


先日から話題にしている、美作の三星城主後藤勝基もまた、その1人でした。


第92回オール讀物新人賞受賞作で、第152回直木賞候補作 「宇喜多の捨て嫁」( 木下 昌輝著)は、政略によって後藤勝基に嫁した於葉(直家の四女)にスポットライトを当てています。


AMAZONの「商品の説明 」欄から一部抜粋します。


内容紹介

権謀術数によって勢力拡大を図った戦国大名・宇喜多直家によって、捨て駒として後藤勝基に嫁がされた四女・於葉のこの物語を、篠田節子選考委員は「女性視点から決して感傷的にはならず、最後まで緊張感が緩まず、リーダビリティは高いが通俗的ではない/時代小説の様式に則りながらも、随所に独特の表現が光る」、同じく森絵都選考委員は「海千山千が跋扈する殺伐とした世を背景に、一筋縄ではいかない人物たちが迫力たっぷりに絡み合う、緊張感のあるそのストーリー展開には貫禄をも感じた」と高く評した。
本書ではほかに五編の短編を収録。いずれも戦国時代の備前・備中を舞台に、昨日の敵は味方であり明日の敵、親兄弟でさえ信じられないという過酷な状況でのし上がった、乱世の梟雄・宇喜多直家をとりまく物語を、視点とスタイルに工夫をこらしながら描く。(後略)




この三星城がある場所から十数キロ南へ下ったところに、茶臼山という小山があり、その頂きにこのような建物が見えることを.過去記事で話題にしたことがありました。


ふるさとはいづこも花は盛りなり骨折の父癒えゆくらしも(2017-04-11)


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束の間の出遭いゆかしや寒ゆるむ(2014-01-31)


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赤磐市周匝(あかいわしすさい)にある茶臼山(城山とも呼ばれます)です。
赤磐市のhp にはこうあります。

吉井川の清流のほとり、空を衝くように茶臼山がそびえ立つ。
備前軍記によると戦国時代に山城があったと記録され、市の史跡になっています。
四季を通じて楽しめる山頂に、城型展望台とともに高瀬舟舟宿を移築し、大型竪穴遺構を推定復元して人びとに親しまれる公園にしました。
所在地:赤磐市周匝15-6
電 話:086-954-1366
営業時間: 10:00~17:00
定休日:月曜
駐車場:10台
トイレ :有
アクセス:山陽ICから車で約60分
美作ICから車で約40分


戦国時代の山城という認識はありましたが、少し調べてみると、これまた宇喜多直家にゆかりがあったようです。


「角川日本地名大辞典33岡山県」から該当箇所を引用してみます。


ちゃうすやまじょう  茶日山城<吉井町>
中世の山城。赤磐郡吉井町周匝に所在。築城時期は不明。天文初年頃,浦上宗景配下の諸城の1つに周匝村城の笹部勘二郎の名が見える(備前軍記)。笹部氏は吉井川上流地域を押える任務をもってこの城に居城していた。 天正5年の天神山城落城後, 浦上宗景の家来であった国人や名主層が宇喜多直家に反旗を翻し,笹部氏もこの一党に与し, 天正7年この城も直家の攻撃を受け,勘二郎とその息子は討死して落域,以後自然と廃城となった。


「赤磐郡吉井町」は平成大合併以前の呼称です。同じ吉井川の下流に位置する天神山城(和気郡)を居城としていた浦上宗景にとって、この茶臼山城は、地理的にも要衝としての役割を持っていたようです。


天神山城についてのウィキペディアの解説を少し引用します。


天神山城(備前国)

ここを拠点とした宗景は毛利の助力を得て各地で勝利を収め政宗の勢力を駆逐し備前の支配権を握る。また、宗景はかつて浦上被官であった宇喜多能家の孫で放浪の身であった直家を召し抱えた。有能な直家は頭角を現し宗景の片腕となって活躍し、その助力もあり宗景の備前・美作地域の支配は次第に強固なものになっていった。

永禄7年(1564年)兄の政宗は室津城において、二男・清宗の婚礼の当日、赤松政秀の攻撃に遭い父子ともに戦死。跡は政宗の三男の浦上誠宗が継いだが、3年後の永禄10年(1567年)に宗景の手の者によって暗殺され室津の浦上惣領家は滅び、その領地を接収してさらに勢力を強めた。

天正元年(1573年)宗景は西国に勢力を伸長してきた織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を認められた。しかし、次第に家中での勢力を拡大していた宇喜多直家は、これに反対し安芸の毛利氏と結んだ。

天正2年(1574年)直家は遂に主君宗景に反旗を翻した。浦上政宗の三男誠宗の子で直家が岡山城に庇護していた浦上久松丸を奉じ、浦上宗家復興を名目に天神山城の宗景を攻めた(天神山城の戦い)。

天正3年(1575年)家中で直家に内応するものもあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へ遁走した。その後、直家はこの城を焼き払ったと伝えられ、天神山城は廃城となった。とされていたが近年、本城から出土した瓦が天正8年(1580年)ごろ姫路で焼かれたものと酷似しているという事で「落城後もしばらく宇喜多直家が使っていたのでは無いか?」という説も浮上している。


三星城落城が天正7年、茶臼山城落城も同年。怒濤のような直家の進撃です。


このあたりの事情を「岡山県の歴史」(山川出版社)は、こう要約しています(p169)。


備前国内で宇喜多直家の勢力が拡大し、備中・美作から毛利の勢力が進出するようになると、 これに対処するため浦上宗景は信長の権勢にたよるようになったが、直家は天正五年二月、浦上宗景の本拠天神山城攻略に成功し、宗景は播磨にのがれた。こうして、宇喜多氏は直家のとき、ついに、主家浦上氏を備前国から追いだし、備前・備中東南部・美作東部を手中におさめて強大な大名勢力となったのであった。

宇喜多直家はさらに播磨へ兵を進めたが、宇喜多・毛利の連合勢力が強大化することを厄惧した織田信長は同五年十月、羽柴(豊臣)秀吉を山陽道に派遣した。秀吉は黒田孝高の姫路城に本拠をおいて、天正七年にかけて宇喜多勢を播磨から駆逐した。
直家は天正七年になると、羽柴秀吉と講和して、毛利氏と結んでいた三星城の後藤勝基を攻め滅ぼし、同年十一月には織田信長に帰属して、これまで同盟していた毛利から離反することになった。




わが居住地ナードサークの近辺にも、宇喜多直家にまつわる事蹟がいろいろと残されており、過去記事でも、何度か話題にしてきました。 たとえばこんな記事。鯉のぼりの伝承、の巻(2016-04-30)


  以前、ブログを始めたばかりの頃、こんな記事を書きました。
濁りなき緑を肺に満たしてん(2013-08-20-1 )    

戦国時代、中国地方最大勢力の毛利氏と、織田信長・羽柴秀吉方についた宇喜多氏との間で戦われた「八浜合戦」は、この地を舞台にしています。当時、麦飯山の頂上には、二つの城があったそうで、今見ても、確かに頂上が、遠目にも平らに見えるように思えます。
麦飯山城は、宇喜多直家の家臣、明石源三郎の居城で、 宇喜多家の支城でした。当時、宇喜多と毛利は同盟関係にありましたが、宇喜多は、戦局を見て織田方に寝返ります。毛利は、中国地方攻めを進めている秀吉軍が、備前に入る前に岡山城を攻めようと考え、その拠点にするため、麦飯山城を奪おうとして攻撃を加えました。
毛利軍2万人が、山の周囲を囲み、兵糧攻めを加えたのに対し、 宇喜多の勢3千人が籠城しますが、山上には井戸がなく、麓の水源もおさえられたため、城から討って出、ふもとの八浜地区で激戦が繰り広げられました。
城主明石源三郎は、毛利軍の侍大将荘勝資と一騎討ちで戦死。家老の田中源四郎も、戦死して落城します。一方、勝った荘勝資も、明石源三郎の家来に討たれました。
八浜合戦は、1582年。「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)から、数年後のできごとです。

(中略)   

「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)については、さらに古いこの記事逆さ児島富士 (2013-08-06)で概略を記しています。

富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。
常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。

常山合戦案内
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。
本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、領主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。
しかし、女軍達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や広葉に囲まれて静かに眠っています。
平成15年11月11日 玉野市教育委員会
「常山合戦案内」板より

この常山合戦について、常山のふもとにある豊岳山久昌寺のホームページ「豊岳山久昌寺」「常山女軍常山城と久昌寺」」という記事があり、こう書いておられます。

天正三年(1575年)六月四日、常山城(城主・上野隆徳)は総勢七千ほどの毛利勢によって完全に包囲され、落城の時がせまっていました。
そして六日の朝には総攻撃が始まり、それと同時に逃げ道には火が放たれ退路も断たれてしまいました。
翌日早朝には城内で最後の酒宴が催され、一族いさぎよく自害しようと申し合わされたのです。
一族の自刃の修羅場が展開する中で、隆徳の妻(備中松山城主・三村元親(もとちか)の妹で名を鶴姫と伝えられています)は男に負けない武勇の持ち主で、「敵を一人も討たないでやすやす自害するのは口惜しい」と鎧を着け上帯を締め長刀を小脇に抱え、敵前におどり出ました。
それに従い『遅れてなるものか』とばかりに侍女たち三十四人がそれぞれ長刀をとり、敵の中に飛び込み、大いに奮戦しました。
しかし圧倒的多数の敵勢に対しては、彼女達はあまりにも無力で、一人また一人と討ち取られ次第に少なくなってゆきます。
奮戦の後、鶴姫は「父・三村家親から与えられたもの」と国平(くにひら)の大刀を投げ出し死後を弔って欲しいと言い残して再び城中に消えていきました。
そして、念仏を唱えたあと、口に刀をくわえ、前に倒れこむように突っ伏して、壮絶な最後を遂げたのです。
それを見届けた後、城主・上野隆徳も腹を十文字に切って果てました。
それぞれの首は、当時毛利氏を頼り、備後の鞆(浦(とものうら・現在の福山)にいた没落将軍・足利義昭(織田信長に京都から追放されました)のもとへ送られたということです…。
(『備前児島と常山城』…北村章著・1994年山陽新聞社発行、ほか『備前軍記』『備中兵乱記』等を参照)

(中略)

常山合戦の後日談として、地元には、こんな伝承が伝わっているそうです。

1575年6月の常山城城落の時、主、上野高徳は6歳になる末の娘「美余」を、客として城に滞在していた長谷井半之進盛之という武士に託し、ひそかに城を脱出させ た。半之進は常山城の東に約3キロ離れた池ノ内の地にのがれ、武士を捨てて帰農し、姫を育てながら、ひっそりと暮らした。
姫は、半之進の息子半九郎実之と共に成長し、後にこの半九郎と結婚し、一男一女を得た。
この姫に男の子が生まれると、常山城主の血につながると見なされて危険であると考えた村人たちは、みんなで申し合わせ、たとえ男の子が生まれてもこれを隠すため、鯉のぼりや絵のぼりをたてないようにしたという。その風習は、400年を経た現在も続いているとのことだ。
なお、市の重要文化財に指定されている「道清夫婦の墓」は、半九郎夫婦の墓のことである。


  

また、もう少し最近では、ムルデルの干拓堤防、の巻(2016-12-12)にも補足記事を載せています。


「角川日本地名大辞典33岡山県」から麦飯山の記事を引用してご紹介します。

むぎいいやま 麦飯山<玉野市>
玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。

むぎいいやまじょう 麦飯山城く玉野市>
中世の山城。玉野市八浜に所在。城跡は2つ重なっている山を利用し,高い山の方に本丸・二の丸・三の丸の主要部分を設け,低い山に出丸・馬場などをおいた。弘治~文禄年間,近くの常山城主明石景行の弟の明石源三郎が在城していたといわれる。
羽柴秀吉の中国平定のとき,宇喜多氏にその先陣を命じたので,浮田(ママ)忠家は毛利勢のこの城を攻めるため大軍を八浜に送った。両車は近くの大崎の柳畑の海辺で激突した。これを俗に八浜合戦という。


前述の「岡山県の歴史」(山川出版)にはこうあります。


全国統一をめざす識田信長にとって、中国地方制覇は毛利氏を残すのみとなり、宇喜多氏は織田信長配下として毛利との最前線におかれることになった。
このため、天正八~九年のころ、岡山県内では、毛利勢と宇喜多勢との戦いが各地で行われたが、このうち最大の合戦は天正九年八月の八浜(玉野市八浜)での両軍の激突であった。この戦いは備前南部の制海権をめぐる一戦と位置づけられるもので、中国地方制覇をねらう織田信長にとってとくに重要な意味をもつ戦いであったと考えられる。 当時児島は 島で、瀬戸内の沿岸航路は児島の北の内海を連島(倉敷市連島)へ抜けていた。

毛利方は備前児島に兵を進め、 麦飯山(玉野市大崎)による穂田元清に援軍を送って、宇喜多方と激しい戦いを展開した。村上水軍を動員した毛利のため宇喜多軍は総崩れとなり、戦況立てなおしに奔走していた総大将宇喜多与太郎基家が流れ弾にあたって戦死した。退却のさい、能勢・馬場・岸本・小森・粟井宍甘・国富の七人の奮戦で毛利の追撃をかわした語は「八浜の七本槍」として知られる。結局この合戦は、この後、陣形を立てなおした宇喜多方の勝利でおわった。この戦いで戦死した与太郎基家は八浜と 大崎の境に葬られたと伝えられるが、いつのころからか、この地に祠がたてられ、「与太郎様」とよばれて足の神様として信仰を集めている。
直家が五三歳の生涯を開じたのは八浜合戦前の天正九年二月であったが、その死はおよそ一年間伏せられた。直家の跡をついだ嫡子八郎が当時一一歳であったことから、直家の弟忠家が後見することになり、 のち八郎は羽柴秀吉の一字をあたえられ宇喜多秀家と名乗ることになる。


八浜合戦は1582(天正10)年のことです。ここに直家が登場せず、弟の忠家の名が見えるのは、直家は既に没していたためです。


ウィキペディアには、直家の死についてこう解説しています。


天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという。 その死はしばらく隠されたといい、天正10年(1582年)1月9日が公式な忌日とされている。


「備前軍記」にはこんな記述がある由。


或説に、直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づることおびただし。是をひたし取り、衣類を城下の川へ流し捨つるを、川下の額が瀬にて、乞食共度々拾ひけるに、二月中旬より、此穢れたる衣類流れざるより、直家はや死去ありしといふ事を、外にて推量して、皆之を沙汰しけるとぞ


膿まじりの出血が酷くて、それを拭い取った衣類を川に流していたのを、川下で拾う者がいたが、ある頃から衣類が流れてこなくなったので直家は死去したのだろうと人びとが噂し合ったのだというのです。さしもの「梟雄」直家も、悪性の病には敵わなかったもののようです。


聞きかじりの知ったか話、今日はここまで。


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momotaro

文章は消化しきれてませんけど、写真は楽しませていただいてます。
今年もあと1時間となりました。
佳いお年をお迎えくださいますよう!
by momotaro (2019-12-31 22:58) 

kazg

momotaro様
いつも暖かいコメントありがとうございます。新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
by kazg (2020-01-01 03:03) 

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