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夏の日の思い出、の巻 [日録]

オリンピックが開かれるはずの「スポーツの日」だった7月24日(金)、年金者組合の地元支部主催の、「2020年度支部総会&ミニ講演会」に参加しました。
開会に先立ってギター伴奏で、「夏の思い出」「われら人生六十から」の歌を愉しく歌ってスタートしました。後者は、おなじみの「♪汽笛一声新橋を」のメロディで歌う替え歌です。歌詞は次のとおり。


一、われら人生六十から
心もからだも元気にて
七十で迎えに来たならば
ただ今お留守と言いなさい
二、われら人生六十から
いつもニコニコほがらかに
八十で迎えに来たならば
まだまだ早いと言いなさい
三、われら人生六十から
何も不足は言いません
九十で迎えに来たならば
そんなにせくなと言いなさい


第1部はミニ講演会。「一人でも行動する文化」と題して、緋田博(ひだ ひろし)さんのお話しを聞きました。講師の緋田さんは、岡山医療生協を定年退職後も、「笑いヨガ」など、健康問題を中心に講演活動を続けていますが、この日の講演ではそこを離れ、手づくり新聞「ひだニュース」発行にかける思いやこだわりを中心に、問題提起を込めたお話しがありました。
「ひだニュース」は、緋田さんが、三年ほど前から平和・地域温暖化・環境問題を中心に、新聞、雑誌などから気になる記事をまとめてコピー、冊子にして友人,知人に配布しているもの。緋田さんがこの新聞発行を思い立ったきっかけは、2016年8月、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動)解散時の「終わりは『新しいことの始まり』のはじまり」という言葉に共感したことだそう。「ひだニュース」では「一人でも行動する文化を根付かせてくれました。戦後民主主義は捨てたものではない。私たちは、平和憲法のもと『平和と民主主義と愛といのち』の大切さを教わり.大きな流れになっています。私は『ひだニュース』をとおしておくりたい。『民主主義ってなんだ!』『これだ!』『私はどうする!』共感するところからつながりましょう。一人の行動から、できるところから、つながりましょう」と呼びかけています。
緋田さんを動かしたもう一つのエポックは、笠原十九司「戦争には『前史』と『前夜』がある」(月間「世界」)という論文への書評を読み、入手するため奔走したが、書店には戦争肯定・讃美の史観のもとづく右翼的出版物は溢れているのに、真実を伝える書物が手に入りにくくなっている現実に驚愕したこと。そこから、「学びの広場」主催の笠原講座成功のため奮闘するとともに、個人名を冠したニュースの「恥ずかしさ」を乗り越えて、知り得たこと・気づいたことを広く伝える活動に取り組んでこられたそうです。


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「戦争前史・前夜」に関するリアルな史実、除草剤「ラウンドアップ」グリホサート・輸入小麦の危険、佐藤広美著「災禍に向きあう教育―悲しみのなかで人は成熟する」の紹介など話題は多岐に及び、四十五分があっという間に感じるほどでした。さらに、 質疑応答の時間も、「種苗法・種子法」をめぐる動きや「里山」の復権など、話は尽きず、知的刺激に満ちたミニ講演会となりました。



第2部は、年に一度の定例の支部総会。二〇一九年度の総括と新年度方針。新役員などの議案が、提案通り承認されました。




上の写真を撮影したカメラのdataに、同日夕方付けでこんな写真も残っています。


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孫のひとりが26日に2才の誕生日を迎えるので、前祝いにプチケーキでパーティです。


郷里の老父が、『ライン』にこんな写真を送ってくれました。そして、こんなメッセージを添えてくれています。


「7月26日の、誕生日の花は、むくげです。花言葉は、デリケートな美。 柔和です」


mukuge


「おのずから今日を選びて咲きにけりいちにち花よ白いムクゲよ」


と歌にあるとおり、ムクゲは、朝に咲いて、 翌日の夕には萎む一日花だとされています。


今年のムクゲは、あまり写す機会がありませんでした。


E3042244


ムクゲについて書いた過去記事で、思い入れの深いものを再掲しておきます。


散ってまた咲く無窮花や野分ゆく(2016-09-05)


置き換えてみればよくわかります。
ある日突然におふれが出て、これまでなじんだ姓名を名乗ることはまかりならぬ。改名せよ。たとえば山田太郎ならトム・ヤマダーノ、佐藤春子なら、ハルースカヤ・サトヴィッチなんて具合に。
抵抗して、改名手続きしない輩は、子弟を小学校にやることもまかりならぬ。なんてことになったら、冗談きついよ。ですよね。
またこんなおふれが出されたら?
今後一切、会話、及び通信には、常に公用語の○○語を用いるべし。下等言語たる日本語を用いてはならぬ。みだりにこの禁を破りたるものは、スパイと見なし断罪する。なんてこと、あり得ませんよね。
はたまた、こんなおふれ。
今後、すべからく国民は、薔薇の花を愛で、その美をたたえるべし。下劣きわまる文化伝統によって一般国民にいたるまで偏愛せる桜は、その花に妖毒を含みたること明らかなるによって、公共の施設、街路、私有地、山林原野を問わず、桜の樹は一切抜去し、その跡地にはことごとく薔薇を植栽すべきこと。これに背いて密かに桜を栽培したるもの、または、口頭、文筆、言論等において桜を賛美したるものは、罪軽からず。なんてこと、出来の悪い空想未来小説ですよね。
でもこんなことが、かつて実際にあったとしたら、口アングリではないでしょうか?
「創氏改名」という言葉を、ネット上でを検索しますと、「世界大百科事典」の以下の記述がヒットします。

世界大百科事典 内の創氏改名の言及
【皇民化政策】より
…生徒は相互に監視させられ,朝鮮語を使った友人を摘発するのが日課となった。翌39年11月には,天皇家を宗家とする家父長体制に朝鮮人を組み込むために,〈創氏改名〉に関する法律を公布,40年2月から実施された。朝鮮人はついに自分の名さえ日本式に改めねばならなかった。…
【太平洋戦争】より
…これらの日常活動は,いずれも〈内鮮一体論〉に基づくものであり,国民総力朝鮮連盟の結成は,朝鮮における天皇制ファシズムの成立を意味していた。皇民化政策のなかでも日本語の使用と創氏改名は,朝鮮人に計り知れない苦痛を与えた。1938年3月公布の朝鮮教育令により朝鮮語は随意科目とされ,学校での朝鮮語の使用が事実上禁止されたばかりでなく,43年からは〈国語普及運動〉が大々的に展開された。…

(中略)

「皇民化」の名の下に、名前を奪い、言葉を奪い、愛する花まで奪う?
そんなトンデモバナシを、最近読んで驚きました。
先日から、槇村浩の話題で、連続的に登場戴いている藤原義一さんが、「あなたに贈る短歌の花束」という本を出版されています。奥付を見ると2004年6月発行とあります。実はこの本、私は、ちょっとした縁で当時贈呈を受け、パラパラめくり読みしては、本棚に収めておりました。時々手に取ることはありましたが、全巻通読はしていませんでした。
しかも、筆者の藤原義一さんと、「草の家」学芸員として槇村浩を研究されている藤原義一さんを、同一人物と理解できず、深く確かめることもなく偶然の一致に寄る同姓同名の別人と思い込んでいました。うかつなことでした。

つい最近、この本を手に取り、読み進むうちに、こんな記述に出会い、驚愕を覚えました。

(中略)

『金夏日歌集 無窮花』(一九七一年二月一日発行。光風社)を読みました。著者の名前は、キム・ハイル。無窮花は、ムグンファと読むのだと思います。ムクゲのことです。
著者は一九二六年(大正十五年)、朝鮮慶尚北道・桃山洞の一貧農の家に生まれました。そして、一九三九年(昭和十四年)、十四歳のころ、すでに朝鮮から日本に渡っていた父をたずねて、母と長兄夫婦、次兄らと日本に渡ります。彼が生まれる前の一九一〇年、日本は日韓併合で朝鮮を植民地にしていました。
「あとがき」で、ムクゲについて、こう書いています。
「日本帝国主義の侵略とその統治下においては、 朝鮮民族が限りなく愛するこの花を、自分の土地に植えることも、またこの花について話すことさえ許されなかったのです。
こうした抑圧のなかで、 無窮花はなおのこと私たち朝鮮民族の心に生きつづけ、私は幼い時から祖母や母に無窮花の美しさをひそかに聞かされてきましたが、祖国朝鮮に私が生まれ育った時代にはついに見ることができませんでした」
日本は太平洋戦争を始めました。長兄は日本海軍の軍属としてとられ、戦死します。著者も東京の戦災の炎をかぶり、両眼失明しました。

さらに、こんなことが行われたのだそうのです。

(中略) 一九一〇年、日本は日韓併合で大韓帝国を植民地にしていました。同年八月二十九目、目本は朝鮮にその植民地文配のための政庁・朝鮮総督府を設置しました。(韓国統監府を改組)。 (中略)日本の植民者は、朝鮮に次々と日本の「軍国の花」 ・桜(ソメイヨシノ)の苗を植樹し、桜の名所を作っていきます。鎮海(チネ)の日本海軍の軍港には我が海軍の微章にちなみ一九一〇年に二万本、一三年に五万本、一六年に三万本、合計十万本の苗木が植えられました(『ある日韓歴史の旅鎮海の桜』、竹国友康、朝日新聞社)。

第四代朝鮮総督の斎藤実の時代には弾圧一辺倒では治まらなくなって民族紙の発行を許可します。「朝鮮日報」、「東亜日報」が創刊されました。しかし、それらは朝鮮総督府警務局が検閲しました。(中略)
「東亜日報」は、 一九二五年十月二十一日付に「読者と記者」の欄に「錦細江山の表徴『朝鮮国花』無窮花の来歴」という記事を載せました。
「昔のことですが、大韓時代に無窮花を国花として崇め尊んだのは、どういう理由からなのですか」(東大門外ユク・チュングン)という読者の質問に答えたものです。
「今から二十五、六年前」に尹致実(ユン・チホ=開化派の政治家)が愛国歌を:創作したが、その繰り返し部分に「無窮花三千里華麗江山(ムグンファサムチョンリョガンサン)」がありました。その時、初めて「木種(クンファ)」を「無窮花」と書き出したらしい。これと前後して島山安昌弘浩(トサナンチャンホ=独立運動家。一八七六-三八年)らが民族連動、国粋運動を展開する時、朝鮮を無窮花にたとえて「われわれの無窮花(ムグンファ) の丘は……」と演説しました。この時を前後し、木樓(クンファ)を「ムグンファ」とはっきり使いだし、朝鮮の国花と定めたようです。
記事は、こうした説明をした後で、次のようにのべています。
「---無窮花はそれほど華麗でもなく、枝とてそれほど美しくもなく、その上、葉は密集していて趣とてないのですが、朝露を浴びて咲いては夕刻に散り、また他の花が朝咲いてタ刻に散るというふうに、絶えず咲いては散る様が、 刹那を誇って風に散るのを武士道の誇りとしている桜よりも、赤色だけを誇る英国の薔薇よりも、花房だけただ大きいだけの中国の芍薬(シャクヤク)よりも、どれほど粘り強くて堅実であり、気概があって祈願がこもっていてみずみずしくて可愛らしいことは、ほかの何ものにも比べることはできないでしょう。
それで私たちの祖先は、この朝生夕死ではあるけれど、次々と咲く木槿を無窮花と呼んで国花としたようです。
しかしいまでは、無窮花が名にし負うほどの使命を果たせず、西北道では見られぬようになり、京畿方面では心ある人たちの丘の飾りとなり、全羅道では農家の垣根として残っているだけだそうです」
この記事は、 朝鮮総督府警務局が押収しました。

ムクゲについては、過去にもこんな記事を書きました。

◆半田山植物園の花と虫、そしてある惨劇!の巻

◆七夕雑話
◆雨の日の感傷散歩(せんちめんたるうぉーく)の巻
◆野分去ってオールドレンズと遊ぶ朝

◆似てはるわ木槿向日葵立葵(ムクゲ ヒマワリ タチアオイ)

◆半田山の花byリコーGX200の巻

「無窮花」という別名は知っていましたが、苦難の歴史は知りませんでした。
近所の散歩道のムクゲです。




7月23日が『海の日だったそうですが、2才になる孫が、初めての海遊びを楽しんだのは、25日(土)でした。


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0才児は、ずっと木陰でお昼寝。


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次に会えるのはいつでしょうか。


今日はここまで。


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