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訣別(わかれ)   木下透 [木下透の作品]

このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。


私が、まだ若い高校教師であった頃、担任の生徒達に、次のようなメッセージを送ったことがある。
いまちょっと評判の、「普通人名語録」(永六輔)に次のような一節があった。
「必死になって泣くのをがまんしててさ、唇なんか噛みしめてさ---そういう男の子の顔って好き」同感だ。もちろん、女の子だって同じだ。つらいよう、苦しいよう、と泣き叫びたいところを、ぐっとがまんして、こらえている。これをこらえることで、その子は、ひとつ強くなっていく。君たちも、何度も何度もそういう経験をくぐり抜けてきたはず。
それが確かに未体験の、自分自身担い切れないほどのつらさやしんどさや悲しみであったとしても、それをあたかも重大事であるかのように大袈裟に吹聴して立ちすくんでしまうメメシサや、初めっから自分を傷つけまいとして困難からスルリと身を避けようとする卑怯な習癖は、決して人を成長させないし、第一、見苦しい。
「いや、何も、好き好んで困難を避けて、安易に流れることを潔しとしているわけではない。でも、何に対して力を注げばいいのか。命をかけても惜しくないような、価値あることに向かってなら、全力でぶつかってもみるのだが、自分にはまだそれがつかめない」という悩みも、大いに道理のあるところだ。
なぜなら、子ども時代、自分が掲げて来た目標(や価値観)は、大なり小なり、親や周りの大人たちに与えられたり、しむけられたりして、自分のものだと思い込んで来た目標(や価値観)だったかも知れないからだ。だが、今、ほかならぬ「自分自身の人生」を選び取らねばならない現段階において、君は、借り物やまがい物ではない、自分自身の価値観に立脚して、自分自身の人生を展望しなくてはならないからだ。
親を喜ばすため、周囲の「期待」に答えるため、自分の虚栄心を満たすため、ヘンサチがどうだから-ー-といった受け身的な動機からだけでは、「自分自身の人生」という気の遠くなるほど重くて荷物を背負い切る勇気は生まれてきにくいかもしれない。掛け値なしに自分自身の価値観に基づく、意欲と決意に裏打ちされた人生の目標を、大いに悩み大いに揺れ惑いながらでも、確立していくことが決定的に求められている。
とはいうものの、これは、口で言うほど簡単なことではない。なぜなら、親も周囲も、助言や相談には応じることができるとしても、代わりに悩んだり決めたりは絶対にできないからだ。どんなに時間がかかっても、どんなに能率が悪くても、自分の頭で悩み、自分の手でつかみ取るしかないのが、君の人生なのだから。

知ったふうに説教を垂れるこのわたし自身、少年・青年期を通じて、自分の生きがいがどこにあるのか、見つけられずに悩んだ。それが見つからない以上、さしあたり、情熱を傾けるべきものも、見いだせない。情熱を傾けるべきものがないから、ダルで満ち足りない日々が重なる。受け身の「勉強」と、逃避としての「物思い」。その結果としての、進路への恒常的な不安。だから、なおさら生きがいがつかめない、という悪循環。
快くわれにはたらく仕事あれ それをし遂げて死なんと思う(啄木)
痛切にそう思った。
そんな高校時代に作った詩のようなものを紹介する。

 
訣別(わかれ) 木下透
少年は散歩なんかしない。少年は森に行くにしたって、盗賊として騎士として、あるいはインディアンとして行くのだ。
 ーーーーーーーーヘッセ『旋風』
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そっと手折った野あざみの花にも
もはやかつての初々しさはなく
舌先に残る葉っぱの苦さも
今はそれほど幻想的に
少年の胸に広がりはしなかった
指先につままれて しきりにもがいているアゲハも
少年に 以前の興奮をも歓喜をも
もたらしはしなかった
そして そのことは 少年を戸惑わせるばかりで
ゆるめた指の間から飛び去った蝶を
しばらくの間 ただみつめていた
《ひきとめておきたかった》
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かつて あれほど少年の胸をときめかせたものの
すべてが
いまはすっかり色あせていた
かつてあんなに生き生きと
少年の周りをとびはねた 森のニンフたちが
いまはすっかりよそよそしくなってしまった
かつては どこにでも見いだすことのできた感動が
今はどこにもなくなっていた
《喜びを探して歩かなきゃならないなんて》
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いきなり駆け出した少年の心象に
風と光と音の交錯 白と黄と紫の螺旋(らせん)
《遠い昔見たかもしれないおぼろげな映像(いめえじ)》

少年は突然立ち止まり
充分柔らかい草のうえに身を投げる
仰向いてしばらく息をはずませていたが
吹き出る汗にも 音立てて波打つ鼓動にも
感動は なかった
青草の間に顔を埋めて その匂いを嗅いでも
そこには 忘れかけた追憶に似た感傷がただようばかりで
その内に溶け込むことはできなかた
原に集うて遊ぶ子どもらの声が 耳元に聞こえるが
それとても いまはまったく遠い世界からのようで
自分を受け入れようとはしなかった
《すべてが しらじらしい》

空は蒼くて 時は茶色だ と
ああ ぼくは 時間に生きていない と
少年は つぶやくのだった
虚ろな実在たちと 有形の不在たちよ
(少年の脳裏から離れることのない 不遜な懐疑は 彼を取り巻く物象の一切を 空虚で色あせたものに見せ 結果 彼を自我へ内面へと向かわせるのであるが それもまた いかにも不確かで曖昧な虚像でしかなかったのだ)

自己の存在さえも絶対ではなく
総ての形象は 虚偽だと知りながら
なおも その内に溶け込もうとして生きる
ニンゲントハ ナント ハカナク カナシイ イキモノ ダロウカ《そして 結局 孤独で疑い深い個として死ぬのだ》

少年は再び
あの寒々とした螺旋を強く感じて瞼を閉じる
にがい涙がこみあげて頬を伝う
自分に残された最後の少年らしさを 名残惜しむように
唇をかんでいたが
それすらも妙にしらじらしくて
自嘲が心を寒くさせるばかりだった
確かに生きた 少年期は去り
人生を嘲り 笑い 茶化しては 忍び泣く
青年期が彼を待ち受けているのだった
《無性に寂しいのだ》

かつての時のように
自己の目と耳とそれらあらゆる感官を信じ
ありのままを真実として受け入れることは
可能だろうか
そして いつしかは ついに
すべてを 認識のままに愛することは
可能だろうか
《そのとき 人生は こんなにも貧しくはないのかもしれない》

真理?愛?
これらもまた
淫らでよこしまな妄想や
嫉妬深い情欲や
ありとある陳腐な煩悩と同じく
倦怠と虚無にどすぐろく塗り潰された幻影にすぎない

いたずらな思念を弄びながら
しかし少年はひそやかに思うのだ
少年の意識に根ざして離れない一つの映像(いめえじ)
いつもは奥深く潜んでいるが
時折浮かんでは 彼をまごつかせる
ーーーーああ、これは この白さは この懐かしさはーーーー
少女。夏草の香の。可憐なーーーーーーーーーーーー
そして少年は思うのだ
美への憧憬 もしやこれこそは
人の生の 真理なのかもしれない
ここにこそ 実在は
見いだされるのかもしれない

高校生宛の文章も生硬だし、詩も未熟で、赤面を禁じ得ないが、今では懐かしく愛おしいいにしえである。
 
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旋風 (1955年) (新潮文庫)

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